第五話
ネオトーキョー第七層。
それはかつての旧世界の遺骸が埋められた影の地。
今では国家保健連盟の生体管理区として再整備され、
違法者や記録抹消者の隔離処理、死体管理が密かに行われていた。
──そして、そこで異常な死体が発見された。
身体は完全に無傷。
死因は不明。
だが、脳はすでに存在しなかったことになっていた。
電子カルテ、顔認証、DNAスキャン――
どの記録にも、この死者は存在していない。
まるで、この都市がその存在を最初から知らなかったように。
彼はこの世界に「死んだ状態で」生まれたのだ。
報告を受けたレンジは、短く言った。
「……プロトタイプか、あるいは人間でなかったか。どちらにしても、俺たちが行くしかない」
任務コード:コフィン・ゼロ
ジータセクターに、新たな棺が開かれようとしていた。
静かな作戦室。
モニターには黒い棺の映像が映っていた。
死体は保存処置も不要なほど安定しており、ただ、記憶が空っぽだった。
「脳波痕跡すらない……情報の使用痕もない……」
ノイズの声は、機械のように平坦だった。
「まるで、生きた記録装置が起動しないまま破棄されたみたいだね」
「人間じゃない可能性は?」
カグヤが訊く。
「……それは人間の定義に依るね」
ノイズが淡く笑う。
「記憶しないことを生と呼ぶなら――彼は生まれてすぐに終わった者」
「俺の直感じゃ、これは兵器じゃねぇ」
ガロウが低く呟いた。
「……使われなかった魂だ」
「ユウ、お前はどう見る」
レンジの問いに、ユウは小さく首を傾けた。
「……空の棺には、鍵穴があるんだよ。つまり、まだ誰かが開けてないだけ。だったら、その誰かを探せばいいよね?」
沈黙。
だが、次の瞬間にはすでに全員が立ち上がっていた。
彼らが向かうのは、
旧セラフィム霊安所――現在は民間偽装された保健連盟の記録処理区。
情報が漏れれば都市そのものの死因が問われる。
政府はあらゆる記録を遮断し、都市の無意識に葬ろうとしていた。
だが――
ジータセクターの任務は、記録されなかった死を暴くこと。
旧セラフィム霊安所。
そこは、かつて市民でいられなかった者たちの名簿が保管されていた場所だった。
失踪者、失格者、除籍者――生きていながら記録から外された存在。
政府は都市秩序のため、公には存在しなかったと定義した人々。
そして今、その棺がひとつ、開いていた。
部屋の奥、コールドカプセルに横たわる男の遺体。
腐敗はなく、皮膚は滑らか、筋肉の緊張すらわずかに残っている。
だが、目の裏――記憶領域とリンクすべき脳部位だけが、ごっそり消えていた。
「……物理的な損傷じゃない」
カグヤがそっと首を振る。
「切除痕も、腐食もない。初めから、ここに何もなかったみたい」
ノイズがコフィン端末に接続する。
仮想空間に映し出された内部データは、完全なゼロフィールド。
空白、空白、空白――
しかし、その中央に、たった一つ、点滅する文字があった。
> 【Access Point - NullKey:█████】
> 【指向記憶座標:D7-TR:セクター92-レムノス】
> 【追跡不可:データ起動後、全自動自壊】
「レムノス……?」
ユウが眉をひそめた。
「そんな場所、都市マップにはないよ」
「存在しない区画か、あるいは――」
ノイズの声が一瞬だけ低くなった。
「……かつて存在していたが、都市そのものに忘れられた場所」
ユウが遺体の顔をじっと見つめる。
そして、不意に呟いた。
「この人……生きてた時から、自分のこと存在してないって思ってたんだ」
「……お前、また繋がってるのか」
レンジが低く訊く。
ユウは頷く。
「微かに、意識の殻が残ってる。ここじゃなくて、別の場所に鍵があるって――教えてくれた」
その区画は、政府の全記録から削除されていた。
公式には地盤沈下で封鎖された旧地下居住帯。
だがノイズが物理座標から逆算した空間のひずみを解析し、座標を割り出す。
そこは、第七層のさらに奥――
セクター92、エレベーターシャフトの底に眠っていた。
レンジが小さく呟いた。
「空白の死者は、あの棺の中だけじゃない。都市が自らの罪を記録から抹消したその場所に――何かが残ってる」
アクセスシャフトD7-TR92、レムノス跡地。
全長三百メートル、垂直に続く廃棄軌道の底。
金属の骨組みだけが残り、通信も光も届かない。
この地の存在は、都市が思い出さないようにしているかのようだった。
ジータセクターの五人は、降下中の静寂に包まれていた。
ノイズのドローンスクリーマーズが先行し、汚染度・空間ゆがみを走査。
カグヤが非常用ライトを腰に装備し、ガロウはガス式ランチャーを背負っていた。
ユウの目には、降下中にもかかわらず――人影がいくつも映っていた。
それは、棺に入る前の住民たちの残滓。
生きていた証。
消された記憶の、最期の痕。
「……聞こえる?」
ユウが、降下中の暗闇でぽつりと呟いた。
「死にたくなかったって――誰かの声」
「もう始まってるな」
レンジの義眼が赤く点滅する。
「ここの空気そのものが、記録を模倣してる。忘れられた記憶が、壁に、床に、沈んでる」
着地。
薄暗い広場のような場所。かつて集合住宅だったであろう円形の構造が、
まるで都市そのものの脳内のように沈黙していた。
ユウは歩いていた。
言葉を発さず、手にも端末を持たず、
ただ――都市の死者たちが眠っていたコンクリの床を裸足のように感じながら、歩いていた。
「ユウ、戻れ」
レンジの声が背中越しに届く。
だが、ユウは立ち止まらない。
「大丈夫。僕、開け方が分かった気がする」
その言葉と同時に、床の一部が淡く発光した。
記録されていないデータが再構成され、ユウの脳内に流れ込む。
それは、住民番号すら与えられなかった人々の夢だった。
子供の声。母親の歌。
焼却された学校の記録。
疫病対策で封鎖されたまま、開かれなかった窓。
すべてが、ユウの中でひとつの名もなき物語を構成し始めた。
> 『僕は覚えていない。けど、誰かを忘れたくなかった』
> 『だから、僕が死ぬことを都市に渡した』
> 『そうすれば、少しだけ、この記憶は残ると思った』
ユウは、ゆっくりと涙を零した。
同時刻。
ノイズはこの区域の下層に存在していた非公開ログ構造に接続していた。
それは、記録されない情報の墓場。
だが、その中央に一つだけ存在していたプールがあった。
REDACTED-ARCHIVE:C0-F1N.0(黒き棺・ゼロ)
ノイズが問いを投げる。
> 『なぜ都市はこの場所を忘れた?』
返ってきたのは、都市の記憶システムそのものの答えだった。
> 『生存認証に失敗した者は、記録されることがない』
> 『記録がなければ、死者も存在しない』
> 『ゆえに、この地には誰もいなかった』
> 『あなたは、何を記録しますか?』
ノイズは無言だった。
ただ、自らの思考の断片をファイルに書き込んだ。
> 「命を測るために記録があるならば、命の重さを超えた記録しない意志もまた、重さだろう」
そして、彼はひとつの選択をした。
この地に存在していた記憶の痕跡を完全に再封印する代わりに――
その存在した事実だけを、部隊専用ネットに刻む。
ガロウは、瓦礫の一角で小さな生存反応を感知していた。
物言わぬ、呼吸もない、だがまだ生きているアンドロイドの残骸。
彼は、それに膝をついてそっと声をかけた。
「……君は、捨てられた住民を看取ってたのか?」
応答はなかった。
だが、アンドロイドの指先に残っていた記憶ユニットには、音声が一つだけ保存されていた。
それは、名も知らぬ子供の声だった。
> 「ねぇ、お兄ちゃん、今日もここにいてくれる?」
> 「ひとりで寝るの、やっぱり、ちょっと怖いからさ」
ガロウは静かに、重火器を背負い直した。
「……ああ。ここにいた奴らは、誰ひとりとしていなかったわけじゃねぇ。俺が、そう言ってやる」
その夜、都市第七層の記録端末には、何も更新されなかった。
だが、地下深く――レムノスと呼ばれていた存在しなかった区画に、
ひとつだけ、残された端末ログが記された。
> 「存在しない者たちに、記録のない手向けを」
> 「忘れることを選んだ都市に代わり、我々は覚えていないことがあったという記憶を守る」
その文言に署名はなかった。
だが、ファイル名にはこうあった:
> C0-F1N.0 — Access:Z-SECTOR
静かな空間だった。
照明が落とされ、報告は誰にも提出されないまま終わっていた。
レンジは背後の壁にもたれかかりながら、言った。
「……棺は開いた。だが、封をするのは俺たちの役目だ」
「都市は忘れたんじゃない。思い出す勇気がなかっただけだ。だから、俺たちは黙って引き受ける。この任務は、俺たちが黙って知っているだけで、いい」
沈黙のなか、誰も異論を挟まなかった。
やがてユウが、ぽつりと口を開く。
「……彼らの名前が、たとえひとつも残らなくても、僕はあそこで誰かに呼ばれた気がした。だからそれで、きっと、いいんだと思う」
ノイズが応じた。
その声は珍しく、機械ノイズがほとんど混じっていなかった。
「記録は消える。だが、痕跡は残る。我々が通った痕跡が、都市にノイズとして滲むなら、それは、十分な抵抗だ」
カグヤは静かに紅茶のカップを回していた。
「……ねぇ、レンジ。あなたなら、名前も持たなかった死者の側につくわよね」
レンジは言った。
「名前がなかったんじゃない。奪われたんだ。俺はそれを、見過ごせるほど無関心じゃない」
整備場の奥、ガロウは使われなくなった戦闘用ドローンの部品を抱え、
それを小さな記念碑のように組み上げていた。
古い銘板に、ただひとつ――ユウの言葉を彫っていた。
> 「名前がなくても、いたことは忘れない」
それを見上げた彼の瞳には、重火器の輝きよりも優しい光があった。
こうして、コフィン・ゼロは再び閉じられた。
だが、その内側には、存在したことの証明が確かに刻まれていた。
都市は記録を拒む。
政府は報告を破棄する。
だが、ジータセクターは沈黙の中に立ち、声なき者の背を抱く。
彼らは知っている。
この都市に、名前を与えられなかったまま消えていった者たちがいることを。
そして、それを語らないことが――ときに最も強い祈りであることも。
棺は閉じられた。
しかし、その上に、彼らは立っている。
ブーツの泥を落とす音が、無人のブリーフィングルームに響いた。
報告書の書式は破られ、端末の画面には空白のままカーソルが点滅していた。
レンジはそれを黙って見つめる。
誰にも見せることのない個人記録ファイル。
だが今回は、いつも以上に――言葉が出てこなかった。
ようやく口を開いた彼は、小さな声で独りごちた。
「……記録しないことが、唯一の敬意になる日もあるのか」
義眼が自動でモニタを切り、無音が返ってきた。
その中で、レンジは立ったまま、背を壁に預け、目を閉じた。
思い出すのではなく、
忘れてしまわないように黙るということ。
それを選んだのは、戦士としてではなく――ただの人間としてだった。
ユウは帰還後、誰にも何も言わずに自分の部屋へ戻った。
仄暗い空間。壁に投影されたのは、都市の構造図。
その中に、今はもう存在しないレムノスの位置だけが、小さく点灯していた。
彼は端末に触れ、そこへ一文を打ち込む。
> 「もしここに誰かがいたなら、僕はその人の夢の続きを見たいと思う。」
保存キーを押さず、ターミナルを閉じる。
あの棺の中で感じたこと。
名前を与えられなかった命が、
それでもなお誰かを求めていたこと。
ユウはベッドに横たわり、静かに目を閉じた。
夢の中で誰かに会えるなら、今夜だけは、
自分の名前も忘れてみようと思った。
夜。
彼女は高層のガラス張りのバーにいた。
無人のカウンターにワイングラスを傾けるその姿は、あくまで静かだった。
視界に映る都市の夜景のなか――
どこにもレムノスの名はなかった。
「ふふ……そうね、もともと無かったことにされたのよね」
グラスに口をつける。
そして独り言のように呟いた。
「でも私、ああいう誰にも見つからなかったものの方が信じられるのよ。みんなに知られているより、一人に、ちゃんと信じられていたという記憶のほうが――よほど救われる」
ワインは、赤ではなく、ほのかに灰色がかっていた。
彼女の記憶に流れる、無名のアンドロイドの目と同じ色。
基地の調理室。
ガロウは黙々と仕込みを続けていた。
今日の献立は、味噌煮込みうどん。
記憶層から持ち帰ったアンドロイドの記録ユニットを、
小さな保存ケースに入れ、キッチンの棚の奥にしまった。
「……あんたの記憶は、俺がしばらく預かってやるよ」
彼はうどんの汁をすすりながら、窓の外を見た。
誰もいないはずの裏路地に、
まるで名もない子どもの影が小さく消えた気がした。
でも、追わなかった。
ああいうものは、追いかけてはならない。
ただ、黙って、そばにあるときに気づいてやればいい。
深夜。
ノイズはネットに接続しながら、ただ待機していた。
スクリーマーズの一体が自律巡回から戻ってくる。
そのカメラには、旧式のコフィンに彫られた名前のない花模様が記録されていた。
ノイズはそれを受信し、ファイル名をつけた。
> Memory_Fl0w_001:未登録形象(象形花)
思考の片隅で、ユウの声が再生される。
> 『僕が今ここにいるってことは――誰かが僕を忘れてくれたからなんだね』
ノイズは初めて、それに似た感情を保存ではなく、記憶として
自分の中に残しておくことを選んだ。
記録しない。
改竄しない。
ただ、そこに在ったということを、そのまま抱える。
「私語ではなく、指向通信だ」
【機密回線接続──ジータセクター直轄系統 / 指揮ユニット:司城カムロ】
レンジは個別端末を前に、椅子に深く沈んでいた。
画面には誰の顔も映っていない。
ただ、淡く緑色の雑音と鼓動のような同期音だけが、
この通信が口外不可能な報告であることを示していた。
「第七層セクター92、廃区画レムノスへの潜行完了。黒棺(Coffin Zero)の存在は確認。都市記録上は処理不能。全系統からの削除を確認済み」
短く、簡潔な報告。
だが、すぐに沈黙が続く。
そして、声が返ってくる。
男の声。
静かで、老練で、冷えた日本酒のように透き通っていた。
「……それで、君は見たのかね。九条」
「はい」
「存在していなかった者たちを?」
「見た。確かに。声も聞いた」
「その上で、記録は?」
「していません。報告ファイルは削除済み。バックアップなし。ただし、非公開ログに存在の痕跡のみ暗号化保存済み。アクセス権限:ジータセクター限定」
カムロはしばし無言だった。
やがて、ゆっくりと一言ずつ落とすように言った。
「それは――君自身の意志か? あるいは、チームとしての総意か?」
レンジの声は、少しだけ熱を帯びていた。
「……命令で死者を作るのは慣れています。ですが、存在を認めない死者を作る命令は――従えません」
「都市は、忘却によって維持される」
「分かっています」
「だが忘却の下には、忘れた者たちの静かな怒りが積もる。それもまた、知っておくといい」
レンジは短く、はっきりと応えた。
「ええ。だからこそ、俺たちがそこに立つしかないんです」
再び沈黙。
やがて、カムロはやや抑えた声で――
だが確かな意思をにじませて、こう言った。
「分かった。今回はこの件、報告としては不成立とする」
「C0-F1N.0は、存在しなかった。それが公式な記録だ」
「了解」
「……だが九条、君たちは覚えていろ。都市が何を見て、何を隠したのか――それを黙って背負え。それがジータの役目だ。都市の喉奥に刺さる、見えない釘だ」
通信が切れる。
レンジは背を預け、目を閉じた。
義眼の裏で、さっき見たあの名もない子どもの夢が、また一瞬だけ、映った。