第四話
第四層レイン・フレーム制御区にて、政府管理の水系サーバー・ヒュドラ01が突如オーバーフローを起こし、都市の記憶保管用流体が周囲一帯に漏洩。
居住区では幻覚症状と記憶錯乱による集団暴動が発生。被害者たちは一様に自分が別人であると主張し、うち何人かは自死、もしくは失踪。
政府はこの事件を感応汚染と分類し、ジータセクターに極秘任務を発令。
任務内容は、「ヒュドラ01の中枢へ潜入し、流出原因を突き止め、事態を鎮圧せよ」
だが、現場で待ち受けていたのは、ただのシステム障害ではなかった。
ネオトーキョー第四層。広域水資源管理ブロック、通称リザーバ。
そこは、都市の裏肺だった。静かに、そして機械的に巡回する人工水流。 だが、その流れの奥に沈められていたのは、ただの水ではない。
水は、この都市の記憶の保管媒体としても使われている。感情記録、非言語記憶、夢の断片、思想傾向――。すべてが希釈保存され、液体の中で眠っていた。
その一角で、事故が起きた。
原因不明のデータ暴走により、他者の記憶が水を通じて市民に侵入。錯乱、重複人格、言語崩壊。現場はまさに記憶の洪水だった。
そして今――ジータセクターが、そこへ降りる。
ネオトーキョー第四層、レイン・フレーム制御区。都市の心臓から外れたこの区画は、常に湿っている。コンクリートの壁には水垢が張りつき、配管から漏れる音が無数の鼓動のように空気を打つ。ここでは、時間そのものが濡れているように思えた。
「……いい匂いだな」鉄村ガロウがそう呟いた。鼻腔に届くのは、錆と油と消毒薬の混ざった、古い病院のような匂いだった。
「記憶を保管する流体には、人工の神経香が混ざってるの」カグヤが歩きながら答える。「人間の記憶は、嗅覚を介して強く定着するから。……都市は今、誰かの思い出を匂わせてるってわけ」
「それが漏れてるってことだな」レンジの声は、乾いていた。「流出したのは、水じゃない。記憶そのものだ」
チームは地下第9施設、ヒュドラ01への進入口に到着していた。地上部とは異なり、ここから先は完全な流体記憶層――。すなわち、水に沈められた記憶の倉庫だ。
「ノイズ、状態は?」
「温度3.4度。視界、不定。記憶拡散濃度により光が曲がっている。音、3秒前の音が反射して戻ってきている。要注意――この中では、過去と現在が重なる」
レンジは頷くと、ヘルメットのシールドを下ろした。ユウも無言で準備を整え、ノイズの横に並ぶ。
「よし、潜る。ガロウ、カグヤ。地上の住民区域で異常者の保護と、記憶の侵食がどこまで及んでるか確認してくれ。こっちは――記憶そのものを止めに行く」
流体層ヒュドラ01内部。静かだった。
いや、正確には静かすぎた。すべての音が、3秒遅れで自分のもとへ戻ってくる。声を出せば、自分の言葉が数拍遅れて耳を打ち、足音も、自分ではない誰かが後ろでつけてくるように響いた。
「ここ……変だよ」ユウが呟いた。「この水……僕に、話しかけてきてる」
「当たり前だ」ノイズが静かに応じた。「これは人の記憶を濾過した水。お前の脳がそれに引き寄せられている。……正直言って、ブレインネットワーク中毒のお前は最も向いていない」
「じゃあ、僕が先に行く。その先に、何があるか、僕が知っておかないと」
ユウはノイズの辛口ジョークを無視して進んだ。
そして彼の視界に、浮かび上がってくる。
誰かの夢。
誰かの最後の言葉。
母親の歌。
爆発する街。
誰にも伝えられなかった「愛している」。
それは、都市の地下で眠っていた、記録されなかった記憶の断片だった。
都市の底に沈んだ記録されなかった記憶が、ユウを、ノイズを、静かに、しかし確実に引き込んでいく。
そして地上では、カグヤとガロウが記憶に溺れた市民と出会う。それは、人間の形をした――誰かの夢のなれの果てだった。
ユウは歩いていた。水は抵抗がなく、それでいて重かった。浮遊感と圧迫感が同時に存在し、足元が定まらない。視界には、いくつもの顔が浮かんでいた。
笑う顔。泣く顔。怒る顔。だがどの顔も、どこか歪んでいる。そして、どの顔も、ユウに似ていた。
「……これは、誰の記憶?」
声に出しても、水の中では反響しない。その代わり、思考そのものが共鳴していた。
> 『あんたは、ユウじゃないだろ』
> 『俺は、君の中に住んでいた』
> 『忘れないでくれ、僕の夢を』
> 『お前の未来は、俺たちの残骸の上に立ってるんだよ』
思考が侵入してくる。他者の、過去の、死者の、匿名の、失われた声が――。ユウの中に、静かに流れ込んでくる。
そのとき、背後からノイズの信号が入った。
> 《注意:ヒュドラ01のコアが不穏波動を発生中。構造内部に、都市建設以前の記憶群が封印されている可能性あり》
> 《……その一部が、意志を持ちはじめている。》
ユウは目を見開いた。
記憶が意志を持つ――。それは、夢とも人格とも異なる、都市の深層が生む自我なき存在。
そして、彼の前に現れた。
それは、ユウ自身の姿をした何かだった。
第4層の居住ブロック、セクターC-2。異常者が多発していたエリアは、すでに人の声が満ちていた。
だが、そのどれもが同じ人物を語っていた。
「私はアキラだ」
「僕が殺したんじゃない。アキラが見せたんだ」
「アキラ、どこにいるの?」
「アキラは、ずっとここにいるよ。私の中に」
そのアキラという人物の記録は、存在しなかった。政府記録、民間台帳、旧教育アーカイブ――全てにおいて欠落。
「……記憶汚染じゃないわ。都市そのものが、アキラという人物を見たことにしてる」
カグヤが呟いた。
「……実体がなくても、人間は信じた記憶で動けるってことか」
「アキラは、どこだ――!」
「俺がアキラだって言ってんだろ!」
「私が、アキラの妻だったの。違うって言わないで……!」
広場の一角で、十数人が狂ったように同じ名を叫んでいた。男も女も、若者も老人も、子供までもが。それぞれがアキラという人物像を語るが、その記憶はどれも矛盾していた。
「記憶じゃないな、こりゃ」ガロウが唸る。「感染だ。名前に寄生された幻覚。こいつら、自分の意識で話してねぇ」
「いえ、違うわ」カグヤが人波を縫って進みながら囁く。「これは記憶の補完。誰かが欠けた記憶を埋めるために、周囲の人間の心にアキラという幻想を割り込ませてる」
「つまり、全員別のアキラを信じてるわけか」
「正解。でもね……」カグヤは広場の真ん中に立った。外套の襟元をさっと抜き、首元に埋め込まれたフェロモン拡散装置を露出させる。
そして、静かに話し始めた。
「……聞いて。わたしは、アキラの恋人だった。あの人はとても静かな人で、雨の日にしか笑わなかった。わたしの指に指を重ねて、生きててよかったって言ってくれたの――」
その言葉に、群衆が動きを止める。誰かが「それは違う」と言いかけたが、次の瞬間、カグヤの瞳が彼の目を射抜いた。
「あなたのアキラと、私のアキラは違う。でも、誰のアキラも、きっと本物だったの。それは失いたくなかった気持ちの名前。それがアキラという記憶に姿を借りて現れたのよ。……だから、もう、許してあげて。アキラの名前を、ここで眠らせてあげて」
それは命令ではなかった。優しい支配だった。そして、人間が人間の記憶に寄り添う力だった。
群衆の一人が、帽子を脱ぎ、別の者が、泣きながら「ありがとう」と言った。
その光景を後ろから見ていたガロウは、ふうっと息を吐いた。
「……カグヤ、あんたたまに怖ぇわ」
「褒め言葉として、受け取っておくわ」カグヤが涼しげに笑う。
その直後――廃ビルの屋上から、一人のアキラを名乗る男がナイフを振りかざして飛び降りた。
「……俺が、アキラを終わらせるんだぁっ!」
だがその瞬間、ガロウが動いていた。地面を砕く跳躍。大柄なサイボーグの肉体が風を切り、空中の男を受け止める。
衝撃が走り、地面にひびが走った。それでも、ガロウは倒れなかった。
「……なぁ、お前さ。アキラってのは、そんな奴だったのか?」
男は、泣き崩れた。ガロウの胸の中で、嗚咽を漏らした。そして、何度も何度も、「ごめん」「ごめん」と繰り返した。
カグヤがそれを見つめ、そっと背を向ける。
「夢は殺すもんじゃないわ。ただ、眠らせてあげればいいのよ」
地面に座り込む少女。少女は、瞳を見開き、こう言っていた。
「ねぇ、わたし、ほんとは誰だったの?」
彼女の目には、涙がなかった。代わりに、水が溜まっていた。
都市の流体記憶が、彼女の目から流れ出そうとしていた。
ユウの前に立つ彼自身の形をした記憶は、静かに口を開いた。
「僕は、君が生まれる前に消された可能性だ」
「僕は、君が進まなかったはずの未来の、誰か」
「ヒュドラ01は都市の裏肺――ここでは誰かになりそこねた者たちの夢が濾過され、沈められている」
「だが、その中のいくつかは、君を知っていた」
ユウは問う。
「なぜ、僕の形をしている?」
「それは、君がまだ定まっていないからだよ。だから僕たちが入り込める。君がまだ未来を持っていることが、ここにとっては隙なんだ」
ユウは静かに目を閉じた。思考が歪む。現実が曖昧になる。記憶が混ざる。
そのとき、彼の腕にある音が触れた。
通信音。
レンジからの起動信号だった。
レンジは、ひとりで降りていた。ヒュドラ01のコア――。流体記憶層の中心核、都市の記憶の起源と呼ばれる場所。
薄暗い階段は終わらず、照明は切れ、空気は重く。だが彼の義眼は記憶の痕跡を視ていた。
壁には誰かの手の跡。階段にはかすかな靴音の残像。空間の奥に、言葉にならない音の断片。
それらが、静かに語っていた。
> 『──記録しないでくれ。わたしが消えたことを、記録しないでくれ。』
レンジは立ち止まる。背中が、ひどく冷えていた。それは機械のせいではなかった。かつての仲間の声だった。
「……アイハラ、か」
その名を知る者は、今や少ない。都市の記憶設計に関わった初期メンバー。そして――ある日、記録ごと消えた人物。
彼の義眼がコアに接続される。そして再生されたログには、こう記されていた。
> 「記憶の都市を作ったのは、忘れられた者たちの棲み処を作るためだった」
> 「ここには、誰にも必要とされなくなった夢と名前が沈められている。……それを、誰が暴いた?」
レンジは銃を抜き、静かに構える。その先に、かつて人だったものが、ただ立っていた。
そして、言った。
「君たちは忘れてくれなかったんだね」
コアの前に立っていたそれは、人ではなかった。肉体を持ってはいたが、そこにあるのは記憶の濃縮体。過去に都市に生き、忘れられ、記録から外された者たちの想念が、かつての技術者アイハラの姿を借りて顕現していた。
レンジは一歩踏み出す。
「……お前は、誰かなのか」
その問いに、アイハラは首を振った。
「私は誰かだった者たちの集まりだ。ここに沈められた記憶のすべてが、君たちに問うている。忘却を正義と呼ぶ都市に、未来はあるのか? ヒュドラ01を通じて流れ出たのは、事故ではない。我々の反射だ。君たちの中にある、忘れてきたものへの無意識の疼きに反応しただけだ。夢を見たいのは、君たちの方だ」
レンジは、銃をホルスターに戻した。撃たなかった。
そして代わりに、彼はポケットから一枚の記録用メモリを取り出した。その中には、任務に関わったログ、証拠、記録――全てが入っていた。
彼はそれを、そっとコアの端末に差し込んだ。
> 「この任務の記録は、抹消する。ヒュドラ01に記録された情報は、いかなる機関にも提出しない。この場所は都市に必要な沈黙として、ここに残す。だがひとつだけ命じる。二度と人の心を溢れさせるな。沈黙を破るのは、必要な時だけにしろ」
アイハラの表情はなかった。だが、彼はほんのわずかだけ――頷いたように見えた。
ユウは、もう一人の自分と向かい合っていた。
それは、彼の過去ではなかった。未来でもなかった。彼が辿らなかった可能性そのもの。
そしてその可能性は、今、都市の水そのものを通じて、世界に広がろうとしていた。
> 「ここには、無数の君がいる。記憶に触れられなかった者たちの残響。君が忘れた誰か。君に似ていた誰か。……僕は、そのすべてだ」
ユウの胸が、静かに痛んだ。それは思い出の痛みではない。誰かに忘れられたことの、痛みの記憶だった。
「……でも、僕は君を覚えられない」
彼は静かに言った。
「僕が覚えてしまったら、きっと、君が君じゃなくなる。それは、きっと……君のためじゃない」
その言葉に、もう一人のユウは、微笑んだ。
もう一人のユウ――記憶に形を与えられたその存在は、なおも静かに問いかけていた。
> 「ねえ。僕たちは、ここで終わるの? 記憶されなかった者たちは、ただ眠るだけでいいの?」
ユウは、静かに呼吸を整える。
「……ううん、違う。僕は、君たちを覚えていることはできない。でも、君たちがいたってことを、知らなかったふりはしない」
彼は、両手を前に出した。
「僕が今ここでできることは、君たちの名前を付けることでも、記録することでもない。ただ、立ち去るっていう選択をするだけだよ。そして、君たちの眠りを守ることを、選ぶ」
その瞬間、水が静かに引き始めた。
まるで都市そのものが、ユウの選択に納得したかのように――。ヒュドラ01の中枢は、静かに沈黙に包まれた。
ユウとレンジが地上へ戻ったとき、ヒュドラ01の全データ系統は外部ネットワークから切り離され、独立封鎖システムへと移行していた。
中枢アクセス権は全て抹消。都市の誰も、この場所の存在を語ることはできない。
だが、彼らは知っている。
誰かの夢の断片が今もそこに眠っていることを。
そしてそれは、忘れられた記憶としてではなく――。許された沈黙として残されたのだ。
ヒュドラ01が沈黙した理由の核心。ユウは記憶に名を与えず、ただ去るという選択をした。レンジは記録を消すことで、誰にも干渉させないという命令を選んだ。
水中層ヒュドラ01──記憶拡散ゾーン・深層アクセスノード
ユウがもうひとりの自分と向き合っているそのころ。ノイズはヒュドラ01の制御層、通称神経列(Neural Line)に接続していた。
そこはデータの流れが逆転し、未来の思考が過去を侵蝕している奇妙な領域だった。
人間には解釈できない。数式にも、映像にもなりきらない混在する感情の残響。
ノイズの全身サイボーグは、完全接続状態でその中に沈んでいった。
> 「見せてくれ。お前たちがどんな未来を喰いそこねたのか――」
思考が膨張し、脳の境界が薄れる。ノイズは、ついにヒュドラ01の奥に存在していた非公開記憶ログに到達する。
そこにはこう記されていた。
> 【記録不可領域】
> 【該当記憶:都市建設段階/拒否された人格基盤案(13件)】
> 【プロジェクト名:アウロラ・エミュレーション計画】
> 【開発主導者:アイハラ・ミチル】
ノイズは、機械シグナルを発する義眼を細く開いた。
「なるほど……都市そのものが、忘れさせるための人格を設計していたのか」
記憶の沈殿層には、記録されなかった記憶を綺麗に洗い流すための架空人格が用意されていた。都市はそれを使って、都合の悪い過去を上書きし、市民には穏やかな忘却を提供するつもりだったのだ。
だが、その人格の一部が、ユウやアキラのような形で都市に滲み出た。
ノイズは、端末にコードを書き込んだ。
> function shatter_mask()
> target_layer = memory_filter_ghost
> execution: dissolve_pattern & revert_to_base
//一度だけ、思い出させる
サイボーグの指先が点滅する。
そして、彼は記録された過去の偽りの記憶フィルタを一度だけ逆再生した。
水が揺れた。都市の神経が、ほんのわずか、疼いた。
> 「……お前たちの名前は記録されない。だが、存在したことは、この都市に刻んだ。これ以上は、許さない――」
ノイズは通信を飛ばした。
> 《制御中枢:安全領域確保》
> 《レンジ:任務実行可能》
> 《ユウ:精神リンクは臨界点手前。接触解除を準備》
> 《ガロウ・カグヤ:干渉は止まり始めている。記憶収束へ向かう》
そして彼自身は――深層の静寂に、小さく、こう呟いた。
「記憶は、すべてを語らなくていい。ただ、知られていないことがあったという事実だけで充分だ」
彼は表に出ないが、都市そのものに干渉し、記録されなかった記憶の真実をひとつだけ、正しく閉じることで、ヒュドラ01の沈黙に貢献した。
都市の沈黙とは、破壊ではない。それを守るという選択こそ、今回ノイズが下した介入だった。
居住区でアキラを名乗っていた少女が、ガロウの前に立っていた。
「……わたしは、アキラ、じゃないんだって。でも、夢の中で彼の声がしたの。わたしを覚えていてって」
カグヤが膝をついて目線を合わせた。
「それは、きっと本当の声。でも、君がその人にならなくてもいいのよ」
少女はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「……わたし、自分の名前を思い出せるかな」
「時間はあるさ」ガロウがぽつりと応えた。「都市だって、いつも名前を忘れてる」
遠くで、雨が降り始めていた。人工の雨。雨は、美しかった。
ユウとノイズが地上へ戻ったとき、都市の水循環はゆっくりとした透明さを取り戻していた。
誰かの夢が流れ、誰かの名前が溶け、そして、また誰かのこれからが注がれていく。
ヒュドラ01は沈黙した。だが完全に封鎖されることはなかった。そこには、忘れられることを選んだ記憶たちが、今も静かに眠っている。
都市に流れる水は元の透明さを取り戻した。けれど、彼らの胸には、誰かの夢の残響がまだ、かすかに波紋を残していた。
夜。レンジは、水源制御塔の屋上に立っていた。
都市の灯りが遠く滲んでいる。眼下には再び稼働を始めた浄水ドームが、静かに脈を打っていた。
ポケットから、黒いメモリースティックを取り出す。中身は――もう、誰にも再生できない。彼自身が、データ構造を意図的に壊したからだ。
それは、アイハラという名の記録。そして、彼の仲間だった男の存在した証拠。
レンジは一度だけ、息を吐いて言った。
「……忘れないよ。記録しないからこそ、俺の中で生きるさ」
そして、それを手すりの外へ投げた。水面に落ちたとき、音はなかった。ただ一筋、静かな波紋が広がった。
翌朝。ユウは公園の片隅で、ひとり水音を聞いていた。古い噴水――今はもう使われていない、記念的な構造物。
その縁に腰をかけ、小さなノートを開く。
中には、誰の名前でもない言葉がいくつか並んでいた。
> 覚えていないけど
> 確かに見た
> 君は
> 僕を
> 忘れてくれてありがとう
ユウはノートを閉じると、目を細めて空を見上げた。
「……記憶って、消えるからこそ、残るんだな」
風が吹いた。噴水の水面に、小さな波が揺れた。
バーの奥、貸し切りの小部屋。カグヤはワイングラスを揺らしていた。
対面に座る情報屋が、どこか間の抜けた顔で尋ねる。
「で、アキラって誰だったんだ?」
カグヤは首を傾け、柔らかく笑った。
「さあ。わたしにも、分からないわ。でも、その名前を信じた人がいたってことは――それで充分」
彼女はグラスを置き、立ち上がる。そして、ドアの前で言い残す。
「忘れることは、罪じゃないのよ。誰かを守るために、人は何かを手放す。記憶も、きっと、そのひとつ」
非番の昼下がり。小さな屋台。ガロウは、いつものように出汁を仕込んでいた。
今日は、塩ラーメン。
澄んだスープ。ごまかしのない味。複雑な味より、まっすぐな一杯が欲しい日だった。
ふと、彼の前に少女が現れた。あのアキラを名乗っていた少女――いまは、彼女自身の名前を探し始めた子。
「……ラーメン、って、温かいね」
「夢の代わりになるほど、うまくねぇけどな」
ガロウは照れたように笑い、彼女のどんぶりにネギを多めに盛った。
「名前、思い出したらまた来い。味、覚えといてやるから」
記憶層のログは、すべて封印された。けれど、ノイズはデータのかけらをひとつだけ、個人ストレージに残していた。
それは、ユウが語った言葉の断片。他人に向けた言葉ではなかった。むしろ、誰にも向けていない独り言のようなもの。
> 「僕が、今ここにいるってことは。誰かが、僕を忘れてくれたからなんだな」
ノイズは、そこにタグをつけた。
#理解
#未分類
#保存期限なし
それがどういう意味かは、本人にも分からない。けれど、消すには惜しかった。
都市のどこかで流れる水音が、ノイズのサイボーグの肉体にほんの微かに反響していた。
こうして、事件は静かに幕を閉じた。
夢は沈み、名前は流れ、だが確かに、何かが彼らの中に残った。
忘れてもいい記憶。そして、忘れないでいたい沈黙。