第三話
午前三時十六分、ネオトーキョー第五層。
産業廃棄地区オメトリック・ラインの地下施設にて、
四十一人の作業員が同時に言葉を失った。
彼らの発声器官は損傷しておらず、神経の異常も見られない。
だが、誰一人として声を出すことができなかった。
同時に、その施設内にあったすべての録音機器のデータが完全に空白となった。
現場のセキュリティログに残された最後の記録は、
たった一行のテキスト。
『音が、帰ってこない』
政府は事態を環境障害として処理し、記録を封鎖。
裏で動き出したのは――ジータセクターだった。
「声が消えた、か」
九条レンジは低く呟き、視線を端末から上げた。
灰色の部屋。冷却ファンの音だけが静かに回る作戦室。
椅子の背に重ねたジャケットが、湿った空気に溶けていた。
「記録はあるのに、音がない……。デジタルの世界で音だけを消すって、そう簡単なことじゃないよ」
ユウがスクリーンを操作しながら言う。
「ログの改竄か?」とカグヤが尋ねる。
「いや。違う。音が記録されてないんじゃない、そもそも存在してないんだ」
ユウが目を伏せたまま続けた。
「四十一人が同時に声を失ったってのも気になるな」
ガロウが腕を組む。
「何かの生体音共振兵器の実験じゃないか?」
「……いずれにせよ、音という抽象を消すには、通常の手段じゃ無理だ。何かが、そこにあった」
ノイズが最後に呟く。
その声は、まるですでに知っている何かを確認するかのように、淡かった。
そして、レンジが言った。
「オメトリック・ライン。再稼働中の廃棄音響研究施設がある。旧企業戦時中、都市封鎖用の音響兵器を研究していた記録がある。可能性は低いが――その残響が目覚めたのかもしれん」
彼は銃のホルスターを静かに確認し、続けた。
「任務コード:エコー・ゼロ。音が帰らない街を、調査する」
オメトリック・ライン。
そこは都市の骨だった。
すでに使われなくなった電磁軌道、通信線、旧世代の情報塔が複雑に絡み合い、
時折、廃熱とともに黒い蒸気を吐き出す場所。
ここでは、何もかもが沈んでいた。
光も、風も、記憶すらも。
レンジたちが到着したのは、廃墟の中でもさらに封鎖された区画。
かつて音響兵器研究所として登録されていたドーム09号棟だった。
建物の前に立った時、ユウがぽつりと呟いた。
「……おかしい。都市ネットワークに繋がっていないのに、ここだけ雑音が一切ない」
ノイズが応じる。
「都市下層は常に電磁混線している。本来、この深さでは音のない静けさなんてあり得ない」
「聞こえないんじゃない。聞こえなくされてるのよ」
カグヤの声は低く、研ぎ澄まされていた。
「まるで――この空間全体が、誰かに黙るよう命じられてるみたい」
レンジが一歩、前へ出る。
薄暗い自動扉の残骸に手をかけたとき、
重い軋み音が――出なかった。
扉は確かに動いた。
塵が舞い、空気が振動した。
だが、何の音もしなかった。
まるでこの場所だけ、世界から音の概念が消えていた。
「入るぞ。全員、内部記録と視覚ログを取れ。音声による指示は使えん。ノイズ、内部通信は?」
「可変帯でのデジタル信号のみ可能。音波伝達はここでは機能しない。つまり――この場所では、声は通らない」
レンジは頷き、全員に無言の合図を送る。
手信号、目配せ、呼吸の静かなリズム。
――都市の外側で生き残ってきた者たちの、古い言語。
そして、彼らは音のない街の中へと、踏み込んだ。
内部は暗くなかった。
古い自動照明が未だに作動していた。
だが、その光は青白く、どこか水中のように濁っていた。
廊下は長く、壁には無数の小さな穴が開いていた。
おそらくは音響試験用の共鳴構造体。
かつてここでは、音の速度を遅くする実験が行われていたという記録がある。
進むたびに、何かが耳に触れないという異様な感覚が強まっていく。
ユウが立ち止まり、目を細めた。
「……誰か、歌ってる」
誰も聞こえなかった。
だが、ユウの目の奥で、何かが反応していた。
彼の脳は、生まれつき通常の聴覚と別の知覚回路を持っていた。
それは音そのものではなく、音の不在を感じ取る器官。
「ノイズ……この建物、もしかして、まだ歌ってるかもしれない。人間には聞こえない、超低域の音で……」
ノイズが分析を開始する。
機器が静かに脈打ち始めたその時――
通路の奥、壁のひとつが開いた。
物音はなかった。
だが、明らかに開いたのだ。
空気の流れが変わり、照明が淡く揺れた。
レンジが、銃を構える。
誰も命令を口にしない。
この空間では、音は通らない。
ゆえに、戦闘は無言で始まり、無言で終わる。
空間の奥――開いた壁の裏には、まるで中空に浮いたような円形ホールがあった。
中央には巨大なパイプオルガンのような構造体。
配線と真空管で組まれた古い演奏装置。
その傍に、人が立っていた。
正確には、人のようなもの。
だが顔はない。
耳の代わりに、複数の音響受信器が露出していた。
口もない。
代わりに、胸部に共鳴板が嵌め込まれていた。
それはかつて音を研究していた者が、自らの肉体を実験体に変えた姿だったのかもしれない。
あるいは、都市戦時に投棄された試作型兵器の生き残りか。
その存在は、彼らに気づいた。
音がないにもかかわらず、明らかにこちらに視線を向け、腕を広げた。
そして――周囲の光が音を発し始めた。
蛍光灯の点滅、機械の駆動音、金属の振動――
すべてが、逆方向から波動を発し、音の記憶を具現化する攻撃となった。
ユウがとっさに手をかざす。
その掌から、かすかな発光が走る。
彼の脳が持つ特殊な適応力が、音の不在を輪郭として捉えてフィードバックを遮断していた。
レンジが手信号を出す。
左から回り込め――それだけで、全員が動く。
カグヤは煙幕を展開――だが、それは音のない空間では意味をなさない。
彼女の手元にあるのは、記憶された声を使う誘導弾だった。
ボン――と、音もなく起動された弾が投げ込まれる。
かつて録音された叫び声が、空間の中心に記憶として再生される。
敵が反応した。
身体がわずかに震え、その共鳴板がわずかに軋んだ。
――それが、唯一の攻撃機会だった。
「今だ」
ノイズが文字で送る。
ガロウが踏み出す。
音のない世界で、音のある武器が沈黙を破る――
超音速振動ブレードが空を切り、敵の腕部を一閃。
そこに血は流れなかった。
代わりに、空気が悲鳴のように裂けた。
誰かがかつて発した恐怖、怒号、絶望が――データの形で放出された。
「やっぱりこいつ……音の墓場に蓄積された声そのものが攻撃なんだ」
ユウが呟く。
敵は再び共鳴板を震わせた。
今度は、レンジの義眼に向けてピンポイントの超振動が飛んだ。
彼の義眼が一瞬、白く染まる。
視界が崩れる。
だが――彼は崩れなかった。
「……甘いな」
レンジは、苦く笑った。
「俺の義眼に残っている記憶は、戦場の叫びだけだ。
貴様ごときに、再生できる音じゃない」
彼がトリガーを引いた。
サプレッサー付きの銃声が、音のない空間に沈んだ。
だが、銃弾は確かに届いた。
敵の中心部――その胸の共鳴板を砕いた。
その瞬間、世界に音が戻り始めた。
最初に聞こえたのは、誰かの呼吸だった。
次に、靴の擦れる音。
そして、機械の唸り。
遠くで警報が鳴っていた。
音が、戻ってきたのだ。
敵は静かに崩れ落ちた。
ただの機械か、人間か、もはや判別はつかなかった。
ユウがその傍に立ち、床に散った破片の中から、音声チップを拾い上げた。
そこには、ただ一つの音が残っていた。
それは、ある男の歌声だった。
古いフォークソング。
誰かを慰めるような、優しい旋律。
だがそれは、人工都市ネオトーキョーには存在しない、あまりに人間的な声だった。
「……この施設で、誰かが音を愛してたんだ」
ユウがそう呟いたとき、
ノイズがそっと記録を止めた。
「保存する?」
「いや」
レンジが首を振った。
「記録されなかった声が、ひとつくらいあってもいい」
事件解決後――
レンジの任務報告書は、誰にも見せることのない文体で書かれていた。
彼の報告書には感情がない。
だが、今回の文末には一文だけ、奇妙な文が加えられていた。
「音は、人が言葉を発する前から存在した。記憶されない音もまた、都市の呼吸である」
レンジは報告を提出すると、誰にも告げず都市の西部へ向かった。
その夜、彼は久しく訪れていなかったある店のドアを押した。
古い蓄音機が、埃をまといながらも鳴っていた。
そしてカウンターに座り、酒を頼んだ。
声は出さなかった。
その代わりに、蓄音機のそばで静かに目を閉じた。
ユウは帰り道で、街角のサウンドベンダーに立ち寄った。
誰も見向きもしない、旧型の音楽自販機。
クレジットを入れ、彼は古いデータを一つだけ選ぶ。
流れ出したのは――
あの遺体の中に残っていた、男の歌声だった。
合成されていない、加工されていない、微かに掠れた低音。
それは誰かを責めるでもなく、誰かに訴えるでもない。
ただ、存在を許すような響きだった。
ユウは黙って聴き終え、ディスプレイの脇に一言だけ刻んだ。
「音のない場所に、君の声が届きますように」
カグヤは、都市第六層の裏路地に佇んでいた。
そこには、彼女だけが知っている声のないカフェがある。
入店時には会話が禁じられ、
音楽もなく、椅子の軋みさえ吸音処理されている。
静寂がルールの空間。
注文はすべて筆談で行い、提供されるのは記憶を味覚にすると謳う特製のブレンド。
彼女は、今日だけは声を発さず、
カップに口をつけた。
――その味は、遠い昔の祖母の声に似ていた。
事件から数日後。
ガロウは自宅の簡素なキッチンに立っていた。
構造は無骨だが、調理器具だけは妙に手入れされている。
彼がその日作っていたのは、豚骨出汁のうどんだった。
出汁をとる音、鍋が沸く音、麺が踊る音――
そのどれもが、生きている都市の音だった。
完成したうどんをすすりながら、彼はふと呟く。
「……音ってのは、無くして初めて、胃に沁みるもんだな」
そして、自分用のレシピ帳の端に、レシピではない言葉を書き加えた。
「第七層で拾った声。響き、覚えとく。」
ノイズの棲処は、都市の可視空間には存在しない。
地下二十三階の隔離領域、接続権限を持つ者は彼しかいない。
その夜、ノイズは再生デバイスに、件の歌声データを挿入していた。
だが、再生はしなかった。
代わりに彼は、端末にただ一行のログを追加した。
「この声には、意味がある。意味を持たせてはならない。だから、保存する」
再生されない歌声は、データの奥で眠り続けた。
その眠りが、誰かの救いになる日まで。