第二話
ネオトーキョー第七層・金融ゾーンにて、
政府保有の機密資産コードが何者かにより盗まれる。
そのコードは暗号資産ではなく――
人間の夢や記憶を担保とした思考データバンク「ドリームアーカイブ」に直結していた。
犯人は政府関係者以外には存在しないはずのアクセスキーを所持していた。
内部犯か? それとももっと深い場所からの介入か?
ジータセクターは、この人間の意識そのものを喰らう資本犯罪に挑む。
ネオトーキョー第七層、通称シルバー・エリア。
ここは夢が売られ、未来が担保にされる場所。
人間の記憶も、想像も、感情までもが資本として取引される市場。
金はもはや数字ではなく、思考の重量に変換されて流通している。
「欲望の質量」が明確なレートを持ち、それが価値と等号で結ばれる街――。
それが、ジータセクターの任務地だった。
雨は降っていなかったが、空気は重かった。
誰もが口を閉ざし、頭を伏せ、上を見ることを忘れている。
それでも街は光っていた。
この都市に生きる者は、皆、光を消費する側だからだ。
「ターゲットはドリームアーカイブ中枢アクセスの管理キー。通常なら四重の暗号層に隔離されている。それを、たった一度の接続で奪った者がいる」
レンジは静かに歩きながら、部下たちに告げた。
声は低く、だがよく響いた。
この都市の雑音よりも鋭く、確実に心に届く声だ。
「それ、つまり――誰かが、夢そのものをハックしたってことだよね」
ユウが笑いながら言う。
だがその目は笑っていなかった。
都市の裏側を嗅ぎ慣れた目だった。
「そうだ」
ノイズの声が背後から響く。
無機質で、どこか湿った音。彼、或いは彼女と言ってもいい本体は本部のデータスペースに存在する。
「今、金融ゾーンの地下に思考飽和領域が発生している。要するに、データ過剰で脳が重くなる状態」
「ふぅん。夢を喰いすぎたってわけね」
カグヤが口元に指を当て、皮肉げに微笑む。
「誰の夢だったのかしら。未来を変えたかった誰かの? それとも、過去に戻りたかった誰かの?」
「どっちもだろ」
ガロウが短く唸った。
「現実が苦いから、夢を売る。それを食って肥えた奴がいた……そういうことだ」
そして彼らは、夢の腐臭が漂う場所へと足を踏み入れた。
第七層・金融ゾーンの地下――。
ドリームバンカー・第04支庫。
地上の煌びやかさとは対照的に、この区域には音がなかった。
空調も、排気も、蛍光灯の低周波すら――。
すべては遮音パネルの内側に封じられていた。
「静かだな」と、レンジは言った。
それに答えたのは、ノイズの無表情な声だった。
「当然だ。ここでは夢が保存されている 人間の記憶や欲望、理想や罪悪感がすべてデータ化され、保管されている。雑音ひとつが、その構造に影響を与える」
その説明に、ユウがぽつりと返す。
「つまり、人間の心ってのは、雑音に弱いんだね」
誰も言葉を返さなかった。
廊下を進むたび、足音がわずかに遅れて返ってくる。
壁に刻まれた警告文は、すべて赤い。
「認知情報への侵入は即座に遮断処理されます」
「精神波の上書きは禁止されています」
扉の前に立ち止まると、セキュリティパネルが光を灯した。
レンジが義眼の認証ラインを接続し、静かに起動する。
重く、機械的な電子音とともに、扉が左右に開いた。
その先にあったのは、記憶の海だった。
中央に浮かぶ白いホール。
周囲には無数の透明なカプセルが並び、まるで胎児のようなフォルムで壁面を満たしている。
ひとつひとつのカプセルには、人間の思考データ――夢、愛、恐れ、怒り、未練……。
それぞれがタグ付けされ、冷静な分類のもとに沈められていた。
「綺麗だな……」と、ユウが小さく呟いた。
「これは墓場だ」
カグヤの声は鋭かった。
「この中のどれだけが、もう死んでるか知ってる? あのカプセルに残ってるのは、もう誰かの残り香でしかないわ」
彼女の言葉に、誰も否定を返せなかった。
ドリームアーカイブとは、記録ではない。
再現可能な精神の原型だ。
感情と記憶を統合・演算し、必要とされれば人間のふりができるまでに整える。
だが、その正体は――生者でも、死者でもない。
ノイズが、壁面の操作端末に接続する。
赤と白のコードラインが高速で流れ、アクセス制御が解除されていく。
「アクセスログを逆算中。……侵入は、一度きり。正規ルートから。セキュリティ突破ではなく、鍵の使用だ」
「内部犯……というより、内部に化けた何者かってことか」
カグヤがつぶやく。
その指先が、さりげなく腰のホルスターへと触れた。
その瞬間、ノイズの背後のモニターが、突如として点滅した。
表示されていたはずのアクセスログがすべて塗り潰され、上書きされたのだ。
その映像には、ただ一つだけ――。
「喰ったよ」という言葉だけが、無数に繰り返されていた。
「――誰かが、ここで夢を食ったんだ」
レンジが低く言った。
「その方法も、目的も、まだ見えねえが……。夢を喰うってのはつまり、こういうことだ」
彼は一歩、カプセルのひとつに近づいた。
そして、指を添えて――囁くように言った。
「誰かの心を、商品にする。それ自体が、すでに犯罪なんだ」
背後で、ユウが息を飲むのが分かった。
まだ何も分かっていない。
だが、この都市で夢を喰ったと自称する者が現れた以上――。
それは、ただの個人の犯行では終わらない。
この街のどこかで、夢そのものを武器に変えた者が、息を潜めている。
都市は夜に沈んでいた。
第七層のネオンは、もはや光ではなく消費される照明でしかない。
人々は明滅する広告の中に吸い込まれ、
誰が誰かを識別することすらできなくなっていた。
そんな街で、五つの影が静かに動いていた。
それぞれが違う地表を踏み、違う闇を歩き、
だが同じ一点へと向かっていた――。
夢を喰らう者の正体へ。
ノイズは再びデータの闇へと潜っていた。
金融庁直属の思考管理クラウドサーバ、その裏層――。
いわば公式には存在しない感情記録の遺骨庫だった。
常人が見れば文字化けにしか見えない羅列の中から、
彼はあるパターンの繰り返しを見出した。
>「He spoke no words. Only echoes.」
>「喰ったよ」
>「その夢は苦かった」
>「もう一度、別のやつをくれ」
彼は小さく、機械めいた吐息を漏らす。
「――これは、AIのパターンじゃない。文学的な飢餓。コードじゃなく、欲望に近いものだ」
その言葉に、傍らにいたユウが顔を上げた。
「欲望ってさ、ちゃんと喰えるんだね」
「喰ったのは欲望そのものじゃない」
ノイズのサイボーグの眼が、青白く揺れる。
「人間の形にならなかった未来だ。選ばれなかった職業、失われた恋人、叶わなかった約束。それらをまとめて夢と呼ぶなら――喰われたのは、人間の弱さだ」
その時、ノイズの脳内警報が赤に変わった。
>新たな食事が開始されました
「……また喰ってる。今、この街のどこかで」
カグヤは今、金融区のさらに裏層、タナトス通りと呼ばれる認可外情報市場にいた。
あたりにはオピオイド・マスク、匿名フェイス改造、フェロモン除去加工など、
人間としての個をすべて消去しようとする者たちの気配が満ちていた。
その中央に、ひとりの情報屋がいた。
かつての企業時代にカグヤが潰した男――。
いや、正確には、潰した企業の子会社で雇われていた男だった。
「久しぶりだな、天音。まだ人間側にいたとは驚いたよ」
「私は秩序側にいるだけよ」
彼女は軽く笑いながら、指先のUSBを机に置いた。
「喰夢者って名、聞いたことある?」
男はわずかに笑った。
が、それは怯えた笑みにも見えた。
「そのUSBには何が入ってるんだ」
「それはお楽しみよ。で、どうなの」
「……夢を喰らう神話の精霊だ。昔は寓話だった。だが今じゃ裏金融の神さ。連中は、自分の人生を売る代わりに、誰かの夢を盗むんだよ」
「神、ね。見せてもらおうじゃない」
ドリームアーカイブから割り出された感染波の強い地域――。
そこは、第七層の奥、シナプス・ジャンクと呼ばれる旧廃倉庫街。
今は違法な記憶売買業者や、夢の録音物を取り扱う変質者たちの温床となっている。
ガロウは、黙ってその奥へと進んだ。
巨大な鉄扉。破れかけたバナー。
「DREAM YOU LOVED / NOW ON SALE」
扉を開けた瞬間、銃弾が飛んだ。
彼は一切動じなかった。
サイボーグの肩部が火花を散らし、ゆっくりと、砲身を構える。
「――三秒くれてやる。夢を見る暇はないぞ」
そして、地面が揺れた。
バズショット。衝撃波。跳ね飛ぶ壁材。
夢の泥に沈んでいた男たちは、現実の力を前に粉々に砕けた。
ガロウはただ、黙って立っていた。
一連の報告を受けて、レンジは高層にいた。
都市第七層を見下ろす監視ビルの屋上。
そこから見えるのは、ネオンに濡れた欲望の風景。
すべての線がつながりつつある。
喰夢者は実在する。
それは個人か、組織か、概念か――まだ分からない。
だが、敵の次の標的は明白だった。
ある人物の夢が、ログに浮上していた。
それは、ユウのものだった。
その夜、ユウは眠らなかった。
――にもかかわらず、夢を見た。
自分がどこにいるかどうかも分からない感覚、存在。
それは、明らかに自分の夢だった。
けれど、自分が見るはずのない風景だった。
人工的に光る空。
穏やかな砂浜と、波音。
そこには、海があった。
このネオトーキョーには、存在しないはずの、青い、塩の匂いがする海。
「……へえ、君はこんな夢を見るんだね」
声がした。
背後から。
誰のでもないはずの声。
それなのに、ユウはその声に、どこか懐かしさのようなものを感じた。
振り返ると、そこには影が立っていた。
形は人間に似ていたが、顔はなかった。
いや、顔を思い出せないと言った方が近い。
「誰……?」
ユウが問うと、その影はわずかに笑った。
まるで彼の知っている誰かのように。
「僕は君だよ。正確に言えば、ブレインネットワークで選ばなかった君。選ばれなかった記憶。見なかった未来。君が君であるために、切り捨てた全てだ」
ユウは言葉を失った。
だがその直後、頭の奥に強烈な引っ掻き傷のような感覚が走った。
現実の、ネットの、記録のどこにもない――。
自分の中の何かが、喰われている感触。
「痛い?」
影が問う。
「だとしたら、それは君の夢がまだ生きてる証拠だ。僕は、死にかけの夢がいちばん好きなんだ」
そのとき、視界が突然赤に染まった。
雑音。
都市の電波。
レンジの声。
カグヤの名を呼ぶ声。
ガロウの重い足音。
ノイズの呼ぶ声。
それらすべてが、遠く、遠くなっていく。
「――ダメだ、ユウが引き込まれていく!」
ノイズの怒声が、ユウの意識の隅で響いた。
だがユウは、それでも前に進んでいた。
この影の正体を、どうしても知りたかった。
自分の夢を食う何か。
それは果たして、外部から来た犯人なのか、
それとも、自分自身の中にある飢えなのか――。
影は笑った。
「君は、喰われる側じゃなくて、喰う側だよ、本当は。君みたいなやつが生まれると、都市が揺れる。だから僕たちは先に、夢の中で君を殺す」
その瞬間、影がユウの顔をしていたことに、彼は気づいた。
そして、眼前に黒い海が広がる。
波の向こうから、巨大な黒い影がのしかかってくる。
それはまるで都市の形をした何かだった。
欲望で、記憶で、資本で、夢で、罪で、失敗で、構成された都市そのもの。
その都市が、ユウの心を押し潰そうとしていた。
その時だった。
鋭い閃光とともに、誰かが現実で撃った衝撃が、夢の中にも波紋を起こした。
「――ユウを引き戻せ、今すぐに!」
レンジの叫びが、金属質な空間に反響した。
現場は、旧ドリームテック・サーバールーム。
ユウが奇妙なログを追って直接ジャックした端末から、精神接続を逆流させられていた。
ノイズが高速で解除プログラムを展開し、
カグヤは彼の脳波を安定させる薬剤を投与しながら、言葉を発した。
「ユウ、あなたがあなたを殺すな。戻ってきなさい」
ガロウが警戒する中、部屋の隅から音がした。
ノイズが即座に反応。
「現れた。喰夢者、物理化個体」
そこには、一人の人間が立っていた。
正確には、人間だった何か。
その顔はぼやけており、視線は常に何かを見ていない。
だが、背中からぶら下がっている数十本のケーブルが、他者の夢の断片を吸い上げていた。
「都市の夢を喰って、生きてるのか……」
レンジが呟く。
そして、銃を構える。
部屋の空気が、凍るように張り詰めた。
光源はわずかに脈打つだけ。
誰も声を出さない。
ただ、喰夢者だけが喋っていた。
「……いい夢だった。少年の、夢は――温かかった。怖くて、寂しくて、でも、未来があって……美味かった」
その声は、男か女か、判別できなかった。
むしろ、何人分もの声が混ざっていた。
老人の後悔。
少年の希望。
女の憎しみ。
赤子の泣き声。
すべてが、彼の口を通して漏れていた。
レンジが一歩前に出る。
銃を抜き、声を落とす。
「貴様は、いったい何だ」
喰夢者は答えた。
「……夢を喰った者のなれの果て。誰かの欲望を、誰かの逃避を、拾って、拾って、拾って、それだけでここまで来た。名乗る名なんて、とうの昔に失った」
彼の背に伸びる数十本のケーブルが蠢き、誰かの記憶映像を流し始めた。
廃墟の街で泣く子供。
母を探して彷徨う影。
工場の奥で眠る記憶の断片。
政治家の偽りの誓い。
恋人の去っていく背中。
それらすべてが、食べられた夢だった。
そして――銃声が、鳴った。
バンッ!
レンジの一発が、喰夢者の左肩を削る。
「語りは結構だ。お前は実在している。ならば――排除するまでだ」
その瞬間、ケーブルが空を裂いた。
一本一本が蛇のように襲いかかり、
部屋の構造すら無視して、空間を突き抜ける。
「ガロウ!」
レンジの声が飛ぶ。
「応ッ!」
ガロウが吠えるように動いた。
上半身の軍用サイボーグの駆動音が火花を上げ、
両腕に仕込まれたショックブレードが一閃――。
高速で迫るケーブルを数本、切断する。
「遅ぇんだよ、現実は」
ガロウの一撃が、喰夢者の胴体をかすめる。
肉のような柔らかさではなかった。
何層にも圧縮された思念データが、実体化している異常な密度だった。
「ノイズ、遮断用EMP用意。ユウを引き戻せ」
「了解。だがこの空間、部分的に夢の記述層に食われている。通常EMPでは届かない。こいつは――現実じゃない」
「じゃあ、幻想ごと焼き払えばいいんでしょ?」
カグヤがすでに手にしていた。
フェロモン拡散型の視覚撹乱グレネード。
現実と仮想の区別を乱し、対象の演算系を一時的に錯乱させる兵器。
「夢を見たければ、寝てなさい」
彼女が微笑みと共に放り投げる。
閃光。香り。音の歪み。
喰夢者が僅かによろけたその瞬間――。
ノイズのEMPが発動する。
電波ではなく、夢そのものを焼く波長。
それが、ユウの内部にも届いた。
ユウは、沈んでいた。
黒い海の底。
音のない世界。
夢の残骸に囲まれ、
自分の心がどこにあるのかすら、分からなくなっていた。
だが――微かに、誰かの声がした。
>「ユウ、戻れ」
>「まだ終わってないぞ、ガキ」
>「あたしを置いてくなよ」
>「……君は、喰う側じゃない。生きる側だ」
そのすべてが、仲間の声だった。
そして最後に聞こえたのは――
自分の中にある、まだ捨てていなかった未来の声だった。
>「君は、まだ夢を見ていい」
ユウの目が、現実に戻る。
サイボーグに挿入された冷却管が冷たく、
肺に戻る空気が、確かに重かった。
視界に、レンジたちの顔が見えた。
「おかえり、少年」
レンジが言った。
そして、喰夢者はすでに倒れていた。
ケーブルは千切れ、残った思念はすべて焼かれている。
ユウは立ち上がり、呟いた。
「……あれは、僕だったかもしれない」
誰も否定はしなかった。
だが、彼はまだ生きていた。
だから――違うのだ。
事件は報告された。
データ上、喰夢者は原因不明の暴走個体として処理された。
それが人間だったのか、何だったのかは、記録には残らなかった。
ジータセクターは、次の任務に備えて静かに解散した。
ユウは夜の街を歩いていた。
遠くに、偽りの星空がまた灯っていた。
「……夢ってのは、見るもんじゃなくて、選ぶもんなんだな」
そう言って笑った彼の横で、ノイズのホログラムが静かに呟いた。
「都市は今日も、誰かの夢を飲み込んでいる。その下で、私たちはまだ、見ようとしてるんだな」