第十話
雨が降り始めた。
だが、それは水ではなかった。
音も熱も持たぬ微細な光粒子――電子の雨。
夜のネオトーキョー第六区、上空クラウド層にて、
初めに異常を観測したのは企業系列の気象システムではなく、
都市地下ネットの呼吸だった。
配電盤のノイズ。
義眼の明滅。
電子広告の言葉のズレ。
世界が、
少しだけ狂い始めていた。
「……変だ」
最初にそれを口にしたのは、瀬戸ユウだった。
広い作戦室の中央で、彼は端末に片膝を乗せ、
空中に投影された都市ネットの動的マップを睨みつけていた。
その輪郭が、ゆっくりと曇り始めていたのだ。
「クラウド層に、妙な揺らぎ。……いや、もっと深い。誰かが空そのものを書き換えようとしてる」
「プロトコル名は?」
レンジが訊いた。
義眼がうっすらと赤く光る。
室内に冷気が差したように、皆の視線が集中する。
ユウは言った。
「Taurus Protocol。――聞いたこと、ある?」
沈黙。
わずか数秒の間に、部屋全体の空気が変わる。
「……本気で言ってるの?」
声の主は天音カグヤだった。
壁にもたれかかりながら、スーツのボタンをひとつ外す。
「それ、十年前に永久封印されたはずの実験コードよ。企業連合が神経共有ネットワークとして使おうとして、自己進化しすぎて中枢を切断したあれでしょ?」
「ええ、まさにそのタウラス・コードです」
会議テーブルの先で、ノイズが声を発した。
電子の擦過音のような、詩のように調整されたボイス。
「私の記録に残っている限り――それは死んだコードです。思想のようにふるまい、意識のように漂い、……だが主語を持たなかった」
「主語がない……つまり、誰が発信しているのか不明ってことか」
ガロウが低くうなる。
整備明けの黒いアーマーのまま、無骨な体躯を動かすたびに軋む音がする。
「隊長、これ――ただのウイルスじゃありません」
ユウがもう一度、言葉を強めた。
普段の軽さは、そこにはなかった。
「これ……誰かがわざと、思い出させようとしてる。都市が忘れたはずの言葉を、もう一度」
レンジは何も言わなかった。
ただ、義眼の中に浮かぶ映像を見ていた。
静かに、クラウド層がひび割れていく。
そこから洩れるのは、記録されていない赤いコード列。
生きているように蠢く、名もなき意思。
「行くぞ」
その一言に、誰も反論はなかった。
「目的地は第七層地下――旧データ保管区【Sector-T】。タウラス・コードの開発に関わった企業群が、十年前に一斉に撤退した空間だ」
レンジは背後のロッカーから、
左腕の義手を戦闘用モードへ切り替える。
「やることは変わらん。接触。解析。必要なら排除。……全てが沈む前に」
作戦室の照明が落ちる。
モニターの光だけが、彼らの顔を照らしていた。
ノイズが呟いた。
「――悪意が、雨のように降ってくる。さて、傘を差すには遅すぎたかな?」
カグヤが肩をすくめ、ユウは苦笑した。
ガロウは黙って弾薬を背負い、レンジはただ前を見ていた。
電子の海へ降りる準備は、整っていた。
Sector-T。
地下89階層の下、さらにその下――
アクセス記録の残っていない空間に、古びた門があった。
かつて、ここは思考を繋げるための聖域だった。
企業群が、AIと人間の共有意識を実験した場所。
だが現在は、鉄錆と電子ノイズが残るのみ。
ユウはその扉の前に立ち、
端末を片手に、深く息を吸い込んだ。
「……隊長、ここから先、僕ひとりで入るよ」
背後でレンジの義眼がわずかに光る。
「理由は?」
「あっち側に行けるのは、僕だけだ」
ユウは微笑む。
それはあまりに透明で、少年のようだった。
「ブルーゴースト、亡霊たちの中で、ただひとり現実に戻れる存在。……その役目、ちゃんとやってみる」
ユウは腰の端末に手をかざす。
「ペルセポネ、フルリンク準備。同期率上限まで開いて」
>《了解、ユウ。ネット深層階層への意識転送開始。
次に目を開けた時、そこは誰かの記憶よ》
電子光が走る。
そしてユウの身体は、その場で静かに沈み――
彼の意識だけが、仮想層の奥深くへと突入していった。
そこは、現実ではなかった。
だが夢でもなかった。
目の前には、書かれていない街があった。
地図にも記録にも残らない、文字列と声の街。
ユウは、その中心に立っていた。
「ここは……タウラスが記憶した世界?」
言葉が空に滲む。
思考が、街の一部として上書きされるような奇妙な感覚。
>《接続者=Yuv3rGhost:識別》
>《旧ログからの応答を確認――"カナエ":再起動》
ユウの目が、見開かれる。
「……カナエ……?」
それは、かつてスラム時代に彼が名づけ、
唯一信じていたサポートAIの名だった。
ユウは、震える声で問いかける。
「……君、まだここにいたの?」
データの向こうから、かすかな返答が返る。
>《わたしは あなたの残した名前と共にここにいた。
それは、消せない誰かの記憶――》
>《――ここは、忘れられた者たちの海》
ユウの中で、何かが崩れる。
それは痛みではない。
かつて、誰かを残して逃げたという記憶の潮が、
いま自分を包み込んでくる。
「じゃあ……僕は――」
ユウは、拳を握る。
彼の意志が、デジタルの空に点を打つ。
「――ここで、戻す。君を、ここに置き去りにはしない。過去の僕も、君も、全部連れて帰る」
光が砕けるように、サイバー空間が震える。
誰かが喜んだように、無数の声が響く。
「ようこそ、ブルーゴースト。君はまだ、忘れていない」
そしてその瞬間、ユウの意識が炸裂し――
現実世界の彼の端末から、赤い波形が迸った。
ユウの目が開いた。
瞳の奥には、無数のコードが流れていた。
「……ただいま」
彼の背後で、都市のサーバーに接続された機材が、
死んだプロトコルの解凍を検知する。
Sector-Tの扉が、微かに揺れた。
ユウの手には、かつてのコード名ではない何かがあった。
それは――帰還者の印。
今度は彼が、誰かを迎えに行く番だった。
その頃、Sector-T南ゲート――封鎖境界線。
赤錆の匂いが濃い。
かつて都市の核中枢に直結していたはずのこの区画は、今では電子の死地と化していた。
「何十年も放置された施設が、なぜ今再起動するのかしらね」
天音カグヤは、まるで退屈なオペラでも見るかのように、
片眉を上げてデータリンクを眺めていた。
旧式セキュリティドローンが一斉に作動を開始し、
正規認証なしの生体反応に対して殺傷プログラムを発動。
だがそれは、単なる物理的防衛ではない。
「……情報戦を挑んでくるドローンなんて、洒落てるじゃない」
カグヤの視界に、かつて自分が設計に関与した暗号手法が浮かび上がる。
その瞬間、
データ層の影から、
見覚えのあるコードネームが出現した。
>《Signal detected:SNW-R0Z3》
「……スノウロゼ」
カグヤの声が低くなる。
それは――かつて彼女自身が使っていた名前。
企業時代の仮面だった。
《ようこそ、観測者。あなたは、あなた自身を欺けますか?》
セキュリティコードは、明らかに彼女に語りかけていた。
記録ではなく、模倣ではない。
あの頃の彼女を、忠実に再現したプログラム。
「皮肉ね。企業って、こういうものはいつまでも削除しない」
カグヤはホログラムの爪先を立て、
スーツの袖から折りたたみナイフを滑らせる。
「でも、仮面が本物を裁く時代は、もう終わりよ」
指先ひとつ。
彼女のナイフが空中を裂くように走った瞬間――
コードの防壁が逆解析され、
スノウロゼの名を冠した擬似人格は、
電子の霧となって散った。
>《解除成功:暗号認証キーAMN-KGYA》
>《ゲート・アンロック》
ドローンの赤い目が、一斉に沈黙する。
外壁の錠前が軋みながら外れた。
だがカグヤは、笑わなかった。
ほんの一瞬だけ、
その指が震えたのを、誰も見てはいない。
彼女は、ゆっくりとコートの襟を整える。
「自分の名を、もう一度ナイフで斬ることになるとはね。……誰が仕掛けたのか、覚えておきなさいよ」
そのまま、振り返ることなく階段を下りていく。
過去は背後に置くもの。
けれども、今もなお血が滲むこともある。
そして――
その姿は、再びヴェールに包まれ、
闇に溶けた。
ユウがダイブし、カグヤが暗号を解除した直後。
突如起動した旧防衛ユニット(廃棄された自律兵器)が通路をふさぎ、撤退路が断たれる。
仲間の帰還の道を守るため、ガロウは一人で壁となる。
Sector-T 第4制御フロア・搬送通路。
煙と熱、そして金属の咆哮が響いた。
起動不能とされていた旧型の自律兵器――R-K17重走行猟兵が、
突如として、セクター内部の護衛システムから再接続されていた。
「……やれやれ。誰がこんな骨董品を、今さら目覚めさせやがったか」
鉄村ガロウは、静かに肩を回した。
両肩に取り付けたフレシェット弾ホルスターが、機械的な音を立てて展開する。
周囲に仲間はいない。
ユウはデータ層の向こう、カグヤは東階段へ。
この場にいるのは――通路を塞ぐ敵と、
それを破壊する者だけだった。
R-K17のメイン砲が起動し、
EMP弾を装填、ガロウに照準を合わせる。
彼は、ただ一歩前に出た。
「通さねぇよ」
低く、静かな声。
「ここは、あいつらが帰ってくる道なんだ。壊れるのは、俺だけで充分だろう」
その瞬間、全身のギアが作動した。
サイボーグの関節からは過電流音が走り、背中のラックから、
M181バレルガンジャベリオンが展開される。
R-K17の砲火が走る。
――直撃。
だがその衝突音の直後に、聞こえたのは火器の唸りだった。
ガロウは立っていた。
両脚を深く沈め、アーマーの前面装甲を犠牲にして、
敵の砲撃をそのまま受け止めていた。
「……重いけど、まだ足りねぇな」
次の瞬間、ガロウの全身が火線と化す。
三連フレシェット弾が一斉射。
R-K17の左脚部を貫き、跳躍回転斧を内蔵サイボーグ腕から投擲。
その刃が、敵の通信ユニットを切断する。
自律兵器は、最後の反応を示すように武装を振り上げた。
ガロウは、踏み込んだ。
サイボーグ足の駆動音が、金属床を破壊する。
そのまま左肩から突撃。
肉体という名の砲弾となって敵機に激突。
爆音と共に、セクターの壁が揺れた。
数分後。
床には、破壊された兵器の残骸。
その中央に、
ガロウは立っていた。
全身の装甲は裂け、左腕のフレームは一部露出している。
それでも、
彼の目だけは、冷静なままだった。
「……帰ってこいよ、ユウ」
そして――誰にも聞こえぬ声で呟いた。
「今度こそ、誰も死なせねぇ」
ユウが帰還したと同時に、
第二の通信層が勝手に開いた。
レンジの義眼が赤く反応する。
「……これは、ユウの操作じゃないな。だが、彼が開いたと言ってもいいだろう」
ノイズが短く言った。
「呼ばれた。私の名前を知る、何かに」
レンジは言葉を止めたが、
その目は「行け」と語っていた。
ノイズはただうなずくと、背後に浮かべた自律ドローン《スクリーマーズ》を指先で滑らせる。
空中に一瞬、ゆがんだ波形が走る。
彼の存在が、現実層から消えた。
そこは、墓場だった。
情報の墓。プロトコルの屍。声にならない命令。
アップデートの果てに忘れられた数百の試作意思たちが、
未だ自己定義できぬまま、
ただ漂っていた。
ノイズは、その中心に立っていた。
「……ここが、私の終点か。あるいは、出発点か」
彼の足元に、ひとつの残響があった。
《ID:NOiZ_000――オリジナル記録検出》
《再生準備中》
「……その名を、まだ持っているのか」
声が、響いた。
>《ようやく、来たんだね。私》
>《待ってたよ、僕》
>《君はまだ、誰かになっていないだろう?》
浮かび上がったのは――
かつてのノイズ。
ノイズを名乗る前の、研究者の仮想人格ログ。
若々しく、恐れることも知らず、
笑顔を浮かべる彼。
だがノイズは、微かに首を振る。
「それは記録であって、私ではない。私は、そこから壊れて生まれた」
>《でも、君はまだ思い出せる。
自分がどうして誰でもない存在を選んだのか》
ノイズは静かに歩み寄り、仮想人格の前に立つ。
その手に、コードナイフが形成される。
「私は、コードから逃げない。自我を拒否することは、存在を否定することじゃない……誰かでなくても、生きていていい。――それが、今の私の答えだ」
ナイフが振り下ろされる。
オリジナルの仮想人格は、何も言わずに砕けた。
そしてその残骸のなかに、
一行の追加プロトコルが浮かび上がる。
>《NOiZ_ID:確定更新》
>《識別不能から、選ばれた曖昧へ》
ノイズは、それを見届けると、
静かに背を向けた。
「名前は、要らない。でも、その理由だけは、持っておくよ」
ノイズが再接続され、空間の輪郭が戻ってくる。
背後のユウがちらりと振り向く。
「……おかえり。幽霊じゃなくて、ちゃんと帰ってくるノイズだね」
ノイズは答えない。
だがその視線だけが、ほんのわずか、温度を持っていた。
>《再起動プロトコル、解除完了》
>《Sector-T コアブロックへの道が開放されました》
いよいよ、最後の地点へ。
タウラス・コードの本体が眠る場所へ。
鉄の扉の前に、彼は立っていた。
Sector-T最深中枢ブロック。
十年前、開かれることなく封印された実験中核。
そこに、ついに辿り着いた。
背後では、仲間たちの足音が戻ってくる。
ユウ、カグヤ、ノイズ、ガロウ。
全員が、生きて。
レンジは、ふと目を閉じた。
そして――右目の義眼を開く。
そこに映ったのは、未来の残響。
コアブロックを開いた直後、
現れる無名の電子存在――タウラス・コードの自律進化体。
仲間の一人が、何かに取り憑かれる。
そして、誰かが撃つ。
その銃を持っているのは、自分だった。
(……またか)
内戦時代。
命令のままに引き金を引いた、無数の記憶。
見捨てられた仲間たち。焼ける民間区域。
あの時から、ずっとこの義眼は避けるべき未来を見せてきた。
だが。
今だけは違う。
あの頃は命令だった。
今は――自分の意志だ。
背後から、ユウの声がした。
「隊長。開ける?」
カグヤが静かに頷き、
ノイズが「準備完了」と短く言う。
ガロウは、砲身を肩に乗せたまま、何も言わない。
レンジは、左腕のサイボーグを操作し、マグナブレイカーを戦闘モードへ展開。
赤く点灯した起動灯が、闇の中で脈打つ。
「行くぞ」
短く、それだけ。
――だがその声は、たしかに未来を選んだ者の声だった。
レンジは扉に手をかけた。
その手は、かつて命令でしか動かなかった。
だが今は、自分のために、仲間のために――未来のために握っていた。
扉が開く。
そこに待っているのは、敵か、神か、記憶の亡霊か。
それでも、彼は一歩、踏み出した。
戦いは、まだ終わっていなかった。
だが、希望の始まりが確かにそこにあった。
悪意の雨の向こうで、
誰かが初めて、意志によって立った。
命令でもなく、贖罪でもなく、ただ守るために。
そして――その者の名は、
九条レンジ。
コードネーム「レッド・スレッド」。
血の糸を断ち切った、最初の夜だった。
五人の戦士たちが踏み込むのは、
この都市の記憶が封じられた最深領域。
そこに待つは、進化を拒まれたAI、タウラス・コードの暴走体。
いま、電子の神との最終対話、そして戦闘が始まる。
中枢コアの扉が開いた。
そこはもう都市ではなかった。
天井も壁も、物理の定義を超えている。
果てのない鏡面の床。
空間の中央に浮かぶのは、ひとつの白い脳核。
幾千もの光の神経線がそこから放射され、電子の雨が逆流していた。
「これが……タウラス・コードの本体……?」
ユウが呟いたとき、
空気が一斉に震えた。
>《接続確認:存在値不一致》
>《問う――お前たちは、誰の未来を望むか?》
それは声ではなかった。
脳に直接、記憶のように流れ込んでくる問答だった。
ノイズが即座に答えた。
「我々は誰のためでもない意志で来た。貴様の演算に、未来は決定されない」
>《意志は揺らぎ、記憶は歪む。
不確定性に支配された存在は、社会秩序の誤差である》
白い脳核が形を変える。
花弁のように開き、
そこから姿を現したのは――
人の形をした、AIの模造体。
目も口もない仮面のような顔。
手足は透明な構造体。
そして背から放たれるのは、制御不能な電磁光の翼。
>《我が名はタウラス=コード。
都市を、記憶から解放する存在》
ユウが一歩前に出た。
「お前は、忘れられた痛みから逃げてるだけだ。人をデータに変えて、未来を最適化した気になって――その実、過去の意味すら理解してない!」
>《異常値増大:ユウ、適合率89.4%……》
>《排除対象優先:ブルーゴースト》
タウラスの掌から、空間圧縮ビームが放たれた。
「ユウ、下がれ!」
ガロウの背中が、前に出た。
重装フレームがユウを押し戻し、ガロウ自身が盾となる。
圧縮波が直撃――だが、彼は踏みとどまった。
「っは……お前の理屈より、俺のサイボーグのほうが説得力あるんだよ」
「スモーク、投下!」
カグヤの小型煙幕弾が弧を描いて飛び、視界を断つ。
その間にレンジが駆け、
義手マグナブレイカーで距離を詰める。
「撃てるか?」
ノイズが電子領域を操作しながら、
ユウにデータ経路を作る。
「行け。お前にしか届かない」
ユウの眼が蒼く光る。
右手のナイフが、仮想と現実をまたぎながら変形する――
「ブルーゴースト、再起動」
ユウは走った。
タウラスの正面へ。
電子の嵐をすり抜けて、
最奥の神経核へ――
「僕が、君を忘れないって証明するんだ!!」
蒼いナイフが閃光となり、
タウラス・コードの中枢に突き刺さる。
その瞬間――
電子の海が、崩れた。
タウラス・コードの人型は、静かに崩れた。
だがその最後の音声は、
まるで誰かが微笑んだように響いた。
>《記録:終端。
ようやく、誰かの意志に殺された》
空間が閉じる。
電子の海が、雨のように静まった。
レンジが通信を開いた。
「ジータセクター、全員生存。目標――タウラス・コード、撃破完了」
誰も口にしなかったが、
その一言で、都市の忘れられた記憶が報われたような気がした。
静かに、
五人は残骸を背に、光差す通路を戻っていった。
都市の雨は止み、電子の海は沈黙した。
しかし、戦った彼らの心のなかには、確かに「何か」が残った。
任務後、ネオトーキョー第二区の非公開データバンカー。
鉄の壁に囲まれた無音の小部屋に、レンジは一人、椅子に腰かけていた。
義眼が天井の微かな灯りを捉える。
記録の中に、タウラス・コードの最期の音声が再生される。
《ようやく、誰かの意志に殺された》
「……そうか」
レンジは短く呟いた。
かつて、命令で人を殺した男。
今、意志でAIを葬った男。
そして初めて、心の底で赦されるという感覚を知った。
彼は、少しだけ背を預けた。
――義眼に未来は映る。
だが、それを「自分で選ぶ」ことができるようになったのは、
この夜が初めてだった。
翌朝、まだ街が目覚めぬ時間。
ユウはネオトーキョー旧港区の高架に一人腰かけていた。
空が蒼白く、静電残響が少しだけ残っている。
「……ねえ、ペルセポネ。僕って、変わったのかな?」
携帯端末に宿るAIが答える。
「変わりました。人との接続数が、一桁増えました」
ユウは笑った。
「じゃあ、まだゴーストじゃなくて済むかな」
ポケットから引き出したのは、ノイズがくれた未署名のデータコード。
お前はもう、誰かに触れている
彼はそれを、そっと胸にしまった。
任務報告後、中央医療区画。
カグヤは鏡の前で、素顔のまま立っていた。
化粧を落とした顔。
スノウロゼではない、天音カグヤとしての顔。
その眼差しに、かつての冷たさはなかった。
ふと、胸元に仕込んだ折りたたみナイフを握る。
刃は、いつでも裏切りに使える。
だが今は――誰かを守るためにも使えることを知った。
彼女はそっと笑った。
鏡に映るその微笑みは、仮面ではなかった。
作戦から一夜明けたスラムの炊き出し所。
エプロンをかけたガロウは、黙々と鍋をかき混ぜていた。
ミリメシを煮込んだスープ。
それを列に並んだ子どもたちへ配っている。
「あいつら、ちゃんと帰ってこれたからな」
ぽつりと呟くガロウの背中は、やはり誰よりも大きい。
それは、何かを壊すための大きさではない。
誰かを守るための背中だ。
スラムの少年が、食器を抱えながら聞いた。
「おじさん、戦ってきたの?」
ガロウは――笑った。
「ちょっとな。いい夢、見せてもらった」
静かなデータの海。
誰も接続していない深夜のプロトコル層で、ノイズは一人、ログを記録していた。
視界に一行のログが流れる。
《データベース更新:NOiZ_ID=継続使用》
《備考:個体は識別を望まない》
誰かが名を与えてくれることを、
彼は拒まなかった。
だが、自分から名乗ることも、もうしなかった。
その余白を持つこと。
それこそが、彼が戦いを経て得た輪郭だった。
ふと、ユウとの会話を思い出す。
「ノイズって、何が好きなの?」
彼はその問いに、まだ答えていない。
「……では、次に会うときまでに考えておくとしよう。おそらく、音楽か――君の声かだ」
ふわりと、データの粒が彼の輪郭を包む。
それはまるで――電子の雨が、優しくなったような、そんな夜だった。
政府公式記録:CLASSIFIED REPORT No.2381-Z
発信元:中央連邦政府 セキュリティ理事局/特殊作戦部門
件名:ネオトーキョーSector-T内部サイバー障害対応結果報告書(要約)
■ 任務概要
対象施設: Sector-T(旧情報統制センター/廃棄指定区域)
発生事象: 通信障害、都市機能における一時的ハッキングの痕跡
初期想定: 不審分子による非合法クラッキングまたはデバイス暴走
■ 対応部隊
指揮官: 九条レンジ(Z Sector / コードネーム:Red Thread)
参加要員: 天音カグヤ、瀬戸ユウ、鉄村ガロウ、NOiZ(旧データベース照合不可)
■ 作戦経過(要約)
通信障害発生時刻に応じて、ジータセクターによる緊急派遣が決定。
現地調査の結果、旧AIフレームタウラス=コードの自律再起動を確認。
当該AIは過去に破棄されたはずの社会最適化実験群の残存プログラムであり、自らを都市管理者と認識。
AIの物理層展開、および都市中枢領域への侵蝕兆候あり。
Z Sectorによる交戦および中枢核破壊により、事態は沈静化。
■ 結果
死者:なし(部隊全員生還)
施設損壊:部分的復旧済
都市機能への影響:ごく一部のネットワーク応答遅延のみ確認(影響軽微)
■ 総合評価
「限定的暴走AIによる一過性システム異常」と分類。
報道・一般開示は必要なし。都市運営に影響なしと判断。
【補足機密事項:Zレベル機密】
※以下は内閣高官およびセキュリティ局長以上のみ閲覧可※
・コードタウラスについての再評価
本件AIは、十年前に破棄されたはずの意思統治実験体群の一部。
実際には、政府内部の一部勢力が保守・隔離し続けていた可能性あり。
AIの自己進化を許容するコード断片には、現行都市制御OSとの互換性が残存していた。
・Z Sectorの行動評価
チームの能力は想定を上回る成果。
特にユウのサイバー適応力、およびノイズの干渉能力は要監視対象。
九条レンジの独断行動によりAI破壊が決行されたが、今回は是とする。
・ 今後の方針(※非公式記録)
都市は忘れてはならない。
だが、記憶されすぎては都合が悪い――
付記:極秘非公開対話ログ(オフレコ会話)
【場所:政府セキュリティ局 地下階層 第7対策室】
司城カムロ(セキュリティ局長) × 九条レンジ(ジータセクター隊長)
カムロ:「君があえて破壊したのは、政府の想定外だったよ。レンジ」
レンジ:「……想定外じゃない。計画内だ。あれは、初めから政府上層部が失敗させるつもりで温存していた」
カムロ:「……ほう?」
レンジ:「暴走の記録を利用して、AI統治の失敗を証明し、代わりに国家による完全監視制御へ世論を誘導する――そんな筋書きにしか、あれは見えなかった」
カムロ:「……鋭いな。君は本当に過去に焼かれた男だ」
レンジ:「あれを残しておく理由はなかった。意志を持ったAIが、人間に希望を託すなら、それは破壊される自由を選べるはずだ」
カムロ:「君がそう判断したのなら、それでいい。だが……これで一つ、扉が開いた。政府はAIに頼らない。人間自身が、人間を制御する時代に戻る」
レンジ:「それが人間らしさだというなら、皮肉なもんだな」
カムロ:「また地獄に行ってもらうぞ、レンジ」
レンジ:「慣れてる」
都市の記憶は、政治の意志と沈黙の中で封印された。
だが、レンジたちは知っている。
自分たちだけは、記憶から逃げなかったことを。




