第7話 絶壁と深い谷に守られた場所
――――二日後、東方領域
痕跡を隠しつつ、母乳が切れる前に東方領域へと辿り着いた。
あとは、東方領域の最東端内で母乳を手に入れられることを願うばかり。
俺は魔王の娘である赤ん坊を懐に抱いて、東方領域の最東端――その入り口の前に立つ。
そこは大地を裂く深い谷が延々と続き、道はその谷に架かった細い桟橋が一つあるのみ。
桟橋の先には、視線を空へ向かわせるほど高い絶壁。
ここは何人たりとも寄せ付けない場所。
同時に人間族と魔族の不可侵領域。
この大陸アデンドロンでは、人間族と魔族が長きに渡り覇権を争っている。
北を支配するは魔族。南を支配するは人間族。
この東方領域は文字通り大陸の東側の隅にあり、北の魔族と南の人間族の中間地点にある狭き領域。
道のりは険しく、また戦略的にも利用しがたい場所。
さらには、大陸の隅にぽつりとある場所なので、さほど広くもない。
そのため、中央で戦争に忙しい両陣営から見向きもされず、手付かずの場所。
桟橋の前で足を止めて、先に見える、絶壁と絶壁の隙間を縫うかのように通る細い道へ意識を飛ばす。
「…………絶壁に身を潜めている奴らがいるな。数は四……見張り? 外からの客は招かれないのか、はたまた来客を選んでいるのか?」
懐へ視線を下ろし、赤ん坊の様子を見る。
赤ん坊は自分の小さな指をしゃぶって、すやすやと穏やかな寝息を立てていた。
「しばらくはぐずらなさそうだな。この子を抱えた状況で戦闘は避けたい。相手の腕前にもよるが、正直、戦闘になれば、この子の安全を確保しながら戦う自信がねぇ」
頭がまだすわっていない赤ん坊。
そのような子を抱えて激しい動きはできない。
ここで俺は、この子を必死に守っていた女性剣士の姿が脳裏によぎった。
「彼女は凄いな。ロベリアという超がつく一流の特殊部隊を相手に、この子を一切傷つけず戦い抜き、二人を打ち倒している。そんなこと、俺でもできるかどうか……」
魔王の娘を託され、さらには、ヘデラ家当主の証である指輪まで託された女性剣士。
彼女が魔王ガルボクの側近だったことには間違いない。
だが、あれほどの実力を持った魔族など俺は知らない。
「俺の知らぬ魔族の剣士。あの腕前ならば名を轟かせているはず。ということは、彼女も追手と同様に、表では活躍しない特殊部隊の一員だったのか? いや、今それを追っても答えは見つからないか」
意識を目の前の絶壁へと戻して、先へ続く道を睨む。
「見張りはまだこちらの存在に気づいていないな。見張りの意図がわからない以上、接触を避ける方が無難か? 避けること自体が敵意と取られる可能性もあるが、あんな狭い道での戦闘は勘弁だ」
万が一、戦闘に発展した場合、できるだけ優位な場所で戦いたい。
絶壁に挟まれた細い道ではなく、広い場所であれば、赤ん坊への負担を軽減しながら戦うことができる。
「じゃ、決まったな。見張りの目を避けて最東端へと入るとしよう」
気配から感じられる視線は絶壁の隙間を通る細い道にあり、桟橋にはない。
俺は音も立てず素早く桟橋を渡る。
そして、絶壁に背をつけ、瞳を上瞼へ食い込ませるように見上げた。
ごつごつとした灰色の岩肌には、瘤と凹みが乱雑に散らばっている。
「魔法は使わない方がいいか。俺の未熟な浮遊魔法だと探知される。となると、凹凸に指と足先をかけ、音も立たず、さらには赤ん坊を起こさないよう、一寸の衝撃も与えず登るしかねぇ。ふ~、行くぞ」
ふわりと綿毛のように足を跳ねる。
岩肌に片手を当てて、ふわりと体を持ち上げて、次なる足場にそっと足を置く。
これを繰り返して、人の身の丈の三十倍はあろう絶壁を駆け上がる。
最後の足場から飛び上がり、ようやく絶壁の頭へと辿り着いた。
そこもまた灰色の岩肌の風景が広がる台地だったが、ところどころに草木が生え、小さな花々もあった。
台地は奥へと大きく広がり、先は五百mほどある。
俺は周囲を注意深く観察する。
「……人の気配なし。罠の類はなし」
台地を一気に駆け抜けて、先にあった絶壁を音もなく駆け下りる。
下りてすぐさま岩陰に身を隠して、様子を探る。
「見張りに気取られた様子はないな」
顔をちょいと出して、辺りを見回す。
絶壁を越えた先には平野の草原が広がり、霞むほど遠くに村らしき姿が見えた。
村の奥には森があり、手前には小川。小川はさらに奥にある大きな川へとつながっているようだ。
内部は思った以上に広く、また豊かと見える。
視線を村へ合わせる。
「どんな連中が住んでるんだ? 宰相は人間族と魔族が共存して住んでいるとか言っていたが、果たしてそれがマジかどうか。それとも、単にならず者たちが根城にしているだけか……」
絶壁の隙間を通る、細い道へ視線を振る。
「見張り……村の中身がならず者なら説明できる。いや、共存しているからこそ、外の世界の存在を警戒しているとも言える。なんにせよ、訪れてみるしかないわけだが」
見張りに俺たちの存在を悟られないように気を払い、村へと歩き始めた。
見張りを躱しての侵入……そのようなことをすれば、村にいる者たちがどんな存在であろうと、俺たちを歓迎しない可能性が高い。
いっそ、見張りに声を掛けてもよかったが、俺は村の様子を見てから判断するという選択肢を取った。