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緑眼の獣 上

 嫉妬は緑色の目をした怪物である、という言葉を思い出す。英国の戯曲で高名になったそれは正確に言うと緑の虹彩を持つというわけではなく、嫉妬心を抱くと胆汁が増え顔色が悪くなるという古代ギリシャでの思想が反映したものだという。

 先程までは美しい人の姿をしていた緑眼の獣が爛々と燃える瞳で嗤う。獣ゆえ言葉は無い。

 そして、目の前の暴虐を、殺戮を、灰の瞳はただ静かに見つめていた。

 

 ◆ ◆ ◆


 蜃気楼に何度目かの春が来た。


「まだ肌寒いけど……風の匂いはすっかり春ですね」


 ミカゲは外を掃きながら空を見上げる。麗らかな春の日差しは柔らかく降り注いでいる。かつては昼間はろくに外に出られないほど肌が日光に弱かったが、この屋敷が来て一年が過ぎ、ようやく体が普通の生活に慣れてきた。おかげで長時間でなければ昼間でも外に出られるようになったミカゲは、それでも眩しい光に真っ赤な瞳を細める。


「お出かけしたくなるお天気」

〈……では、少しだけお外に行こうか。二人だけで〉


 珍しく鎮目は外出着を着ていた。とはいえ普段と同じ黒の和装にインバネスコートを羽織っただけだが、ミカゲにはやけに様になって見えた。


「はいっ! どうしよう、何を着ていきましょうか」


 足早に部屋に戻る後ろ姿は一年前よりずっと背が伸びていた。


 ◆ ◆ ◆


 鎮目に連れていかれたのは小さなティーサロンだった。ミカゲが生まれるより前の時代なのもあり、袴姿の女学生や学生服の青年などがコーヒーカップを片手に雑談しているのが見えた。鎮目は会話できないせいか、手帳にサラサラと待ち合わせをしている旨を記し、女給に案内を促す。すると女給は驚いたように目を見開き、二人を奥へと案内する。鎮目が慣れた様子でついていくので、ミカゲは慌てて追いかけた。


「あら、あんなに慌ててはしたない」

「見て、あの白い髪。老人のようでなくて」


 そんなミカゲを見て、くすくす、と良家のお嬢様と一目で分かる乙女達が意地悪く笑う。普段は鎮目や嵐堂としか接することがなく、基本的に屋敷に来る者も訳ありなので容姿を中傷することのない人達にしか接してこなかったミカゲは剥き出しの悪意に思わず固まる。鎮目はそんなミカゲの様子に気が付いていないようでそのまま歩き続けている。


「どこの田舎者かしら? 見たことがない顔だわ」

「口をあんなに開けてみっともない」


 置いていかれた。鎮目の姿がどこにいるのか分からなくなる。衝立の向こう側に行ってしまったのだろうか。だが、体は動きそうになかった。

 と、その時だった。


「……品がない小娘ほどよく囀るな」


 中性的な張りのある声が店内に響き渡った。乙女達はびくっ、と体を強ばらせる。


「せっかくの待ち合わせが台無しだ。客人を不快にさせてしまった。どう責任をとってくれる」


 突然立ち上がってミカゲの肩を抱いたのはすらりとした青年将校だった。いきなりの馴れ馴れしい仕草に驚き、その顔を見て唖然とする。

 その人はあまりに美しかった。顔かたちの造作の良さもさることながら、それ以上に意志の強そうな深さと鮮やかさが同居する緑の瞳があまりに鮮烈。その瞳に射抜かれれば誰もが虜になってしまうだろう煌めき。実際、その目で睨まれた乙女達は顔を真っ赤にしてその美貌に見とれたまま言葉を失っている。だが、ひとつに括った少しだけ緑色がかった黒い髪を邪魔そうに掻き上げる青年将校の表情は剣呑だ。


「人の容姿を笑うんじゃあない。大して良くもない育ちが知れるぞ。それに綺麗な新雪の絹糸のようだと思う。君は誇るといい」

「えっ、あの、その……」


 どうしたものか。腕の中でミカゲが狼狽してると、鎮目が騒ぎに気付いたらしい。ミカゲと青年将校を見比べ、慌てて二人を引き剥がす。


「おう、鎮目。待ちくたびれたぞ。店を変えよう。そこの小娘共の口さがない囀りが不快だ。折角の茶が不味くなる」


 鎮目もミカゲの様子に何かを悟ったのかこくりと頷く。少なくない喫茶料をテーブルに置いて、青年将校は店を去ろうとする。と、ドアの前で不意に立ち止まった。


「そうそう、一つ、言い忘れた。どんなにそんな熱視線で懸想されようと、残念ながら私は女だ。そら、そこの少女よりずっとはしたないだろう?」


 それだけ告げてドアを閉める。扉の向こう側で幾つもの心からの悲鳴が響き渡るのが聞こえて、ミカゲは思わず体を縮めた。気持ちはわからなくもないが、あまりに騒々しい。


 ◆ ◆ ◆


 青年将校に連れてこられたのはどこかの人気がない神社だった。荒れた様子に鎮目が眉を顰めるが、青年将校は上品な笑みを浮かべたままだった。


「さて、失礼した。定期報告のために遠出をしてもらってすまないね。そこのお嬢ちゃんが静の言ってた亡霊の娘だね。よろしく」

「雛形ミカゲです。よろしくお願いします」


 なんとなくだが、この人からは威圧感を感じる。それこそ、気を抜いていたら食い殺されてしまいそうな。ミカゲが緊張した様子で一礼すると、青年将校は大きな瞳を見開き、そして鎮目を見た。


「驚いた、あの馬鹿と暮らしてるのにちゃんと礼儀正しいぞ。鎮目、よく頑張ったな」

〈……嵐堂もやればできる。しないだけだ〉


 その言葉から判断するに、恐らく目の前の男装の麗人は嵐堂とは旧知の仲なのだろう。何故だろうか、やけにしっくり来る。纏っている空気が似ているのだ。青年将校はこほんとひとつ咳をして軍帽を脱ぐ。


「ならばこちらもちゃんと礼を尽くさなくては。私はフラン」


 その黒いまっすぐな髪は褪せて、やがて少しずつ本来の、瞳と同じ鮮やかな緑に戻っていき。


「気が付けば人間が神様と呼ぶ存在に成り果てていた愚か者だ」


 現れたのは人間にはありえない双緑。されど、それがあまりに似合いすぎていた。


 ◆ ◆ ◆


 鎮目は本来の色彩に戻った青年将校の装いをしている者を静かに見つめていた。

 神と称される存在。死を経てもなお固定化された魂。平行世界の自分を認めぬ唯一。理を外れた生き物の存在としてあまりに歪な何か。されど怪異とは異なり、彼らもまた強すぎる力故に生まれた綻びを繕おうとする者。

 人とは明確に異なりながらも、それは人間のように笑い、泣き、苦しみ、そして死に、再び発生する。目の前の緑はその中でもより人間に寄り添い、人であろうとし、されど誰よりも神である運命に囚われているがために、その夢は叶わない。だが、だからこそその瞳はどこまでも力強く魅力的で人を惹きつける。


〈前回指定してきた時代よりだいぶ遡ったから驚いたが……その格好は潜入捜査中といったところか〉

「そうそう。ちょいと一般人のままだと立ち入りしにくい場所でね……」


 こっそり侵入してもいいが面倒だった、と彼女は肩をすくめる。どこにでも遍在する風で体を構成しているはずの彼女がそこまで言うとは一体どのような場所なのだろうか。鎮目が無言のままじっと見つめると彼女は白状した。


「その怪異が存在しているのは軍部最奥部、特務課神秘部第二倉庫。あの馬鹿の死体を喰って途方もない力を身に付けた怪異だ」


 と、フランはミカゲを一瞥する。そして眉を顰めた。


「鎮目、その子は置いていった方がいい。相手はコトリバコ。女子供を呪い殺すのに特化した怪異だ」


 ◆ ◆ ◆


 コトリバコ。

 漢字で書くと子取り箱。


「この箱の周囲にいるだけで女子供は徐々に内臓が引きちぎれ、苦しみ抜いて血反吐を撒き散らして死ぬ。そんなくそったれな呪い。一般的には十九世紀に初めて存在が確認されているが……この仮称時空軸M15分岐のそれだけは十七世紀の産物。つまりはコトリバコの祖ということさ」


 押し付けられた軍服に身を包んだ鎮目は静かにフランの説明を聞きながら歩いていた。


「製法確立前のものだから従来のコトリバコとは違う箇所が多い。玩具のような細工仕立ての木箱じゃなくて、骨や人皮を使った箱だったり、中を満たしていたのが雌の畜生の血じゃなくていわく付きの怪異の血だったりあの馬鹿の臓物だったり……ディランの阿呆もよくそんなものを作り出したもんだ。そこまで全てが憎かったか」


 封印されているカコの一つの名を呟く声は聞き取りにくいほどに小さかったが、鎮目は聞き逃さなかった。だからこそ、今回の怪異が決して油断していいものではないことを改めて悟り、気を引き締める。


「……鎮目、一つ言っておくと既に私はあのコトリバコに一度負けた。神殺しの肉体を使ってる以上神でも女なら容赦なしらしい。だから軍部は強力な女の怪異を相手する時のために保存しているようだが」


 そんな上手くいくものか。管理するのが人間である以上、必ず綻びは生まれる。今までいくつものコトリバコが子供や娘の手で事故のように持ち出されているのだから。鎮目はあまりに知名度が高すぎる怪異とそれが知られるに至る経緯を思い浮かべて目を伏せる。


「危険云々はさておき……単純に気に食わないんだよ。あの馬鹿は確かに人たらしで鈍感でどうしようもねぇやつだ。でもな、あんな風に好き勝手死体を捏ねくり回されるようないわれはないんだよな。少なくともそれを周りが憤るぐらいには頑張ってきたわけだから」

〈……嵐堂は愛されているね〉


 たとえ世界の全てから敵と呼ばれ糾弾されようと、たとえ世界の全てをその手で終わらせてしまおうと。誰が為のでなく、紛れもなく彼の為に出来ることをしたいと足掻く者がいる。それがどれだけ得がたい絆かをよく知る鎮目は瞑目する。


「まぁ、私が言えた義理じゃないんだろうがね……待て、何かがおかしい」


 倉庫のある方向から嫌な邪気が漂って来ているのがわかる。鎮目は魔道具を取り出したが、浄化の効果を持つ水晶は即座に砕けた。邪気が強すぎるのだ。それを見て、フランの表情も強ばる。


〈……コトリバコの規模は?〉

「これでイッポウなんだよなぁ。ただし、素材が特殊すぎてハッカイよりやばいのになっちまったという……笑うなよ」


 この状況で笑えるはずがないだろう。いや、自暴自棄の錯乱の方か、と気付き頭を振っていると、急にフランが息を飲む。つられてその先を見て、鎮目も言葉を失った。

 そこにいるのは一人の男だった。その肌は屍蝋のように白く、その髪は黒曜のよう。虚ろな目の色は金色で、その頬にはよく見知った傷跡がある。藍染の顔布がないその顔はそれなりに整っているが表情がないせいでどこか人形のようだった。


〈どうして、嵐堂が〉

「そりゃあいつの死体を使ってる呪いが成長したからだろうっ、くそったれ!」


 コトリバコの中に詰められていた者が手を掲げれば淀んだ瘴気がその指先に集まっていく。それを銃口のようにフランに向け。


「逃げろっ!」


 その瞬間、フランは左胸を撃ち抜かれていた。


◆ ◆ ◆


 先程とは違う喫茶店でミカゲは二人の帰りを待っていた。フランの行きつけのところらしく、ミカゲが一人で飲み物やケーキを飲んでいても何も言わない。そして客層も少しだけ変わっていた。如何にも胡散臭い紳士や鋭すぎる目つきの退役軍人らしき翁。あまりに分かりやすい一癖も二癖もある傷物だらけである。店長らしき者だけがやけに若い小綺麗な男装の乙女で違和感が際立っている。先程とは違った意味で少しだけ居心地が悪くて、つい誤魔化すように飲むホットミルクは既に二杯目だ。流石にお腹がそろそろ辛い。どうしたものか、とミカゲが考えた時だった。


「ーーそこ、いいか?」


 不意に声をかけられ顔を上げる。そして絶句した。そこにいるのは軍服姿の異国の風貌を持つ男だった。それだけなら、まぁそれなりにいる人物なのだろう。

 しかし、その顔の右半分は真っ白で不気味な仮面に覆われていた。何より。


「こんな所にいたら悪い大人に拐われるぞ」


 その瞳はどこまでも澱んでいた。先程までその正反対の瞳を見ていたからわかる。関わってはいけない、否、これは即座に逃げなくてはならない類の危険な目だ。ミカゲは返事をせず急ぎ立ち上がって逃げようとするが、何故か椅子に体が張り付いてしまったかのように動けない。頭も動かないから目だけ動かすと周囲の人々も動かなくなっていることに気付いた。時が止まってるのかと一瞬思ったが、飲みかけのコーヒーは零れ続けているし、ラジオは鳴り続けている。何より動きを止められている人々の目は恐怖に揺れていた。


「おっと、無駄な抵抗はしない方がいい。影を縫い止めてるからな」


 影を縫い止める。いつの間にか男が抜いていた刀は確かにミカゲの影が落ちる床に深々と刺さっていた。この光景は確かに見るのは初めてではない。しかし、何故嵐堂ではなく、この不気味な男がそんな芸当をできるのか。それに何故嵐堂のそれと同じ刀をこの男が持っているのか。動揺するミカゲの頬を男がそっと撫であげる。


「亡霊か……お前は一体どんな魔道具になれるかな」

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