何者
この屋敷は静かだ。
鎮目は縁側でそっと瞑目したまま思いを馳せる。
今でこそ来客が増え、ミカゲも住み始めたから会話も増えたが、嵐堂と二人きりの時は本当に無音のことが多かった。当時は嵐堂も今と違ってまだ記憶の封印が不完全だったから文字通り生きる屍のようだったし、鎮目自体も話すことが咥内の重度の火傷に由来する爛れのせいで出来ず、音といえば少しばかりの衣擦れ。甲斐甲斐しく静が集めてきた封印が増えていくにつれ、嵐堂は心を取り戻していき、今の明朗な青年にまで戻ったが、かつてを知る鎮目からすれば、どうしてこんな好青年がああ成り果てるのか、と疑問に思ったほどだ。
「鎮目さん、嵐堂さんが少し長めに買い出しをすると出ていきました……お昼寝してましたか?」
〈あいわかった〉
扉が開き、入ってきたミカゲは二つの湯呑みと見慣れない何かがのったお盆を手にしていた。
〈……これは?〉
「嵐堂さんが作ったおやつだそうです。何だったかしら……思い出しました!カヌレだそうです」
見た目はギザギザのある茶色い何か。鎮目は眉を顰めた。
〈カヌレ……確か異国のお菓子だね。型も無いのに器用に作るものだ〉
手に取って割ればふんわりと漂うバニラとラム酒の香り。ミカゲには早いかも、と思ったが既に彼女は満面の笑みでそれを食べ始めていた。
「もっちりしているのに外はカリッとしていて美味しいです! あら、これはきなこが混ぜてあります!」
〈西の方の修道会で作られたお菓子だそうだよ。そういえば〉
以前はよくこの屋敷を訪れていた聖職者とその従者がいたな、と鎮目は思い返す。彼等は甲斐甲斐しく嵐堂の様子を見に来ていたが、記憶の封印が進み彼が正気を取り戻すにつれ、とんと現れなくなった。彼等は今どうしているのだろうか。
その時だった。門の鈴が鳴る。来客だ。
◆ ◆ ◆
「お久しぶりです、鎮目殿」
門の前で鎮目達を待っていたのは見た目からして聖職者だった。質素な黒のカソックに身を包んだ楚々とした青年。年頃は嵐堂と同じだろうか。その後ろにいるのは鋭い目つきのそれより少しだけ歳若い水兵服姿の異国人。髪の毛を全て軍帽の中に押し込んでいて顔だけで判断する限り少女のようにも見えるがどこか中性的だ。
〈丁度いい頃合だった。彼は出かけているよ〉
「ええ。静殿からそう聞き、カコの点検のため、馳せ参じました」
何より。
ミカゲは思わず一歩後ずさる。異国人からはどこか自分と似た気配がした。
「……かがりびと、そこのお嬢さんは?」
ハスキーな声で異国人は問う。やはり目の前の人物は女性だ。その証拠に穏やかな口ぶりになると声の柔らかさが目立つ。
いけない、曲がりなりにも相手は客人だ。ミカゲは我に返り丁寧に一礼する。
「雛形ミカゲと申します」
「雛形……どちらの娘かな?」
どちらの、とはどういった意味だろうか。胡乱げな顔で投げかけられた問いに訳が分からずキョトンとするミカゲに対し、鎮目は深く溜息をついた。
〈……静さんも苗字は雛形なのだよ。というより、弟子である私が静さんの苗字を借りているというのが正当か〉
「えっ、そうだったんですか!?」
そういえば静のことは静と紹介されただけだった。そのやりとりがなにか琴線に触れたのか、聖職者はつい口元をおさえて笑いを堪えている。
〈ミカゲは私の義理の娘だよ、キャプテン〉
「把握した。それにしてもこの娘、私と同じ亡霊かな? 海の匂いはしないけど」
キャプテンと呼ばれた異国人が近付いてくる。間近で見るとそれなりに細く見えても上背があるのが分かる。キャプテンという尊称に負けない存在感があるのだ。そしてその言葉通り、その体からはほんのりと磯の香りがした。
〈それより早くカコの点検をした方がいいのではないかな? 嵐堂が戻ってきてしまう〉
「あぁ、それですが」
促す鎮目に聖職者がどこか悪戯っぽく微笑みかける。
「ちょっと門を弄ったので、彼、今頃幕末の江戸にいます。かなり戻ってくるまで時間がかかると思いますよ」
◆ ◆ ◆
嵐堂は途方に暮れていた。
確かに【蜃気楼】は迷い家である。そのため色んな時代や場所に繋がってしまうことがある。とはいえ。
「硬貨が使えん……」
事前に備えていなかったので本来行く予定だった時代の貨幣しか持ち合わせていなかった。
「まずい、まずいぞ……」
そして朧気な記憶に基づく推測ではあるが、気の所為でなければここは江戸、それも幕末。尊皇攘夷の気運高まる血腥い時代だ。つまり、この時代において異国人である嵐堂は。
「天誅!」
既に見つかっていたのか、物陰から次々と浪人達が現れる。夜だったことが幸いして町人達の姿は無い。いつ斬りかかってきてもおかしくない浪人達を前に嵐堂は刀を抜こうとして、そして。
「ぐわぁぁぁ!?」
「……そういえば現代に行くつもりだから邸に置いていったな。不覚不覚」
刀がないことを思い出し、代わりに近くにいた浪人の刀を奪い取った。そのまま空になった腕を掴みあげ、民家目掛けて投げ飛ばす。餌食になった浪人は哀れにも宙へと吹っ飛んで行った。
全てを一瞬で判断し、迷わず即座に実行した様があまりに不気味だったらしい。血気盛んだった浪人達は途端に怯えた顔で嵐堂を見ている。
「すまんが、幕末は二度目なんだ。加えてあまりいい思い出がない。無い記憶でもそれが分かる」
「こいつ、何を……?」
嵐堂は奪い取った刀を顔布の内側から見る。
「……同田貫か。生意気にもいい刀を使う」
「かまわん、やっちまえ!」
次の瞬間。
浪人達は風を感じた。いつの間にか遠くにいたはずの男が懐に潜り込んでいたのだ。そして数秒遅れて知覚するのは肋骨の一部が刀を叩きつけられたことにより砕ける感覚。
「大丈夫、全員峰打ちだ」
本当にあれは人間なのか。
空中から見えた男の姿はどこまでもただ散歩しているかのごとく自然体で、一切の殺気を感じられなかった。
◆ ◆ ◆
カコの数々が収められている棚の前で来訪者二人は封がされている品々を検分し始めた。
〈よりによって彼が苦手とする幕末に投げ込むとか、アイザック牧師、君は鬼か〉
「信頼です。彼は大抵の苦難は弱体化している今でもどうにかできてしまうので」
あと少しばかりの八つ当たりです、と聖職者が朗らかに笑うのが恐ろしく思えた。八つ当たりにしては苛烈だな、とミカゲが引いていると、キャプテンも頷く。
「そうだね。隻腕だった時ですら出鱈目な強さだったから。それを考えると幕末の彼が私と合流出来なかったのは相当ね」
幕末なんてもう百年以上も前のことなのに。彼等はあたかもこの前あったことを話すかの如く頷きあっている。
「あの……皆様は、嵐堂さんは、一体何歳ほどなのですか?」
ミカゲは今まで勘違いしていた。嵐堂は怪異ではないと思っていた。ただ怪異を制することには慣れている様子はあった。だからそういうことを生業にしている特殊な人間だと思っていたが、彼等の言葉を信じるならその前提は崩れる。普通の人間は失われた腕が生えることなどないのだから。
動転している彼女の問いがもたらしたのは驚愕だった。アイザックは手に持っていた弓を取り落としそうになり、キャプテンもまた口をポカンと開けたままだ。
「まさか……この子はあいつの事情を知らない?」
〈……私も深くは知らないからね。ただの親愛なる隣人だよ、私達にとっては〉
鎮目が目を逸らす。それ以上の問答はしないと言わんばかりに。だが、アイザックはそれを受け入れなかった。厳しい表情で鎮目を睨んだ後、仕方なさそうに小さな声で呟いた。
「彼は……元人間で、呪いを集める願望器で、そして【世界の敵】です」
◆ ◆ ◆
人目を避けるように畦道を走る。蛙の声が耳に煩い。
「どうやって戻ったものか……」
元いた場所に行ってみたが【蜃気楼】への道は閉ざされていた。だからとりあえず郊外に出た。このままだと延々と浪人に狙われるからだ。それにしても暑い。軍服がじっとりと汗ばんでいる。歩く度に草の青っぽい匂いが鼻腔を擽る。それは彼にとっては酷く懐かしく、そして。
嵐堂は立ち止まる。ある事に気付いたからだ。
「……そうだ。ここには、俺がいる」
それは長すぎる時を何度も終わらせては繰り返した彼にとって最も忌まわしい時期。マイナスの感情を記憶の大半と共に封印されていたからこそ浮上してくる、不快や忌避感程度しか感じられないとしても、魂の奥底にこびりついた無様な汚辱の記憶。
周囲を見回せば、そこにその怪異はいた。
「……わからないほうがいい、か」
くねくね、くねくねと。この国の者からすれば人間離れした血の気のない白い体が、拷問であちこちが欠け人間のそれとは思いがたいほどに歪になった体が、入り込んだ亡霊が痛みに狂ったように踊っている。事実狂っているのだろう、もう当人の命すらないのに呪いが上がるけたたましい笑い声は軋んで正気の気配は無い。
かつての自分にかけられた言葉を思い出しながら白い怪異へと成り果てたかつての自分に近付いていく。
「可哀想にな。自分事じゃなきゃそう思うよ」
なるほど、近付けば近付くほど、理解すれば理解するほど制御されなくなった呪詛が、混ざりあった怨念が身を蝕んでいく仕組みなのだろう。だが、自分には効かない。それを振りまいているのは自分自身の過去の亡骸なのだから。
「すまんが、帰るために死んでくれ、俺」
◆ ◆ ◆
「楽緋のカコ以外は全て無事を確認したよ。ありがとう」
最後のカコの封印を確認し終えたキャプテンは敬礼をする。
「楽緋は一度私が預かる。元相棒だからね」
〈承知した。再封印が完了したら連絡を頼む〉
と、不意にキャプテンは懐から何かを取り出す。
「同じ亡霊仲間の好だ。お嬢さん、私と話したかったらこれを使うといい。ただ水場以外でね」
ただ、さもなくば水底に沈めたくなるから命の保証はできないの、と目を細める様子はあまりに鬱々と荒んでいて、彼女もまた亡霊なのだと肌で感じさせる。渡された底が抜けた柄杓は彼女同様に潮の香りがした。ただそれはもっと深い、澱みを孕んだ、まさに海の底を思わせる匂いだった。
〈……いくら改心したとしても現役の船幽霊か。恐ろしいな〉
「その恐れが私を船幽霊にしたのに、人間は学ばないな」
ボソリと呟いた言葉は同類のミカゲにしか聞こえなかったようだった。
◆ ◆ ◆
二人が屋敷を去るとほぼ同時に嵐堂が帰ってきた。その姿は返り血まみれで、思わずあまりの噎せ返るような血の香りに鎮目は口元をおさえる。
「すまん、ちょっと事故で江戸まで飛ばされてた。買い出しは後日行く」
「……どうやって戻ってこられたの? 刀はここにおいてあったのに」
純粋に興味だった。ミカゲの問いに嵐堂は少しだけ考え込んだ後、すぐに苦笑いを浮かべた。
「くねくねを倒して得た力でゴリ押し」
「くねくね?」
聞いたことがない怪異だ。どんな怪異なのだろうか。ミカゲが更に詳細を聞こうとすると嵐堂は首を振る。思い出したくもないと言わんばかりに。
「わからないほうがいい。知らないという事が一番対策になる類の怪異だ」
〈ミカゲ、そこまでにしておきなさい。嵐堂、君自身に怪我はないかい? カヌレ、まだ残っているからお茶にしようか〉
その言葉に自分は無事だと答えながら、嵐堂はとある疑問を抱く。
どうして軍人であるはずの自分は戦場でもないあんな所で死んでいたのか、と。
くねくね好きです