カコ
男は庭で箒をかけていた。冬となればあちこちから枯葉が飛んでくる。いくらここがあらゆる時空から隔離されている、一種の迷い家だとしても。
「今日の夕御飯は何にするかな……冷え込みが厳しいからみぞれ鍋か、それともすき焼きか」
鍋物ばかり浮かんでしまうのは仕方ないだろう。それ程に北風が強いのだ。だが、一年の大部分が凍てついている国で生まれ育った男からすれば寒いがそれは耐えるに容易い寒さだ。
「……美酒鍋もいいな」
あの頃と違って凍えて死にたくないから、と無理に飲みたくもない時に酒を煽る必要もない。おかげで酔えなくなってしまったな、と頭を振りながら彼は思いを馳せる。そういえば鎮目の秘蔵の酒が納屋の中にあったはずだ。
よし、そうしよう。
男は手を止める。どうせ風が吹いている以上、掃除をしてもキリがない。それに。
「これでいいか」
男の瞳が顔布の内側で淡く緑の燐光を放つ。すると秩序なく吹いていた風は落ち葉をまとめあげながらどこかへと消えていった。あたかも男の意図を汲んだかのように。
◆ ◆ ◆
ミカゲは埃を吸い込まないように口元を布で覆いつつも、目の前の光景に言葉を失っていた。
この屋敷、【蜃気楼】は怪異による特殊な事案に対して様々な対抗手段を備えているというのは知っていた。鎮目の蝶や嵐堂の妖刀等、一見してそれと分かるものもある。しかし。
「こんなにあるなんて……」
蔵の中には用途すら判別できないほどに雑多な物が詰め込まれていた。外から見た蔵の大きさと実際の内部の大きさが同等でない証拠に鎮目の顔にも少しばかり途方に暮れる色がある。
〈ここは【かがりびと】としての仕事道具が揃っている。加えて時折静さんが増やしてるのを見るよ……おかげで偶に整理しないとこんなことになる〉
たまにとんでもないものが足されている時もある、と苦笑いを浮かべる彼もまた布で口を覆っている。
〈危険なものもあるから、ミカゲは私が山からよけたものを納屋に動かしてくれればいい。あと重い物は嵐堂に任せるから〉
「分かりました」
危険なもの。それこそ曰く付きの何かだったりするのだろうか。と、作業し始めた鎮目だったが、暫くして何かを思い出したように手を止める。
〈そうだ、封、と嵐堂の顔布と同じ文字が刻まれているものには触らないこと。それがただの布であろうとも。それこそ静さんの雷が落ちるからね〉
ただの布や箱がどうして危険なのだろうか。ミカゲの疑問が顔に出ていたらしい。細められた彼の目はどこか憂いを帯びていた。
〈仮称時空軸M15分岐由来のものは彼が認識できる場所にあるということ自体が嵐堂の封印を解きかねないんだ〉
「嵐堂さんの?」
そう言えば自分は嵐堂について詳しくを知らない。何故この屋敷に滞在しているのか、何故顔を布で隠しているのか。次々と纏められるガラクタを納屋へと運びながらミカゲはそのことに気付いた。一体、彼は何を封印されているのか。
奇妙な像を棚に置いたミカゲはとある一角が注連縄で分離されているのを見つける。そして目に映った物を見て、つい声を上げてしまった。
「あれが……?」
銀の仮面、濃い紫の三角帽子、異国の造りの弓矢、黄金細工の大槌。他にも色々な見慣れないものがその区画には収められていた。そしてその何れにも封の貼り紙がされていた。やはり嵐堂は異国に由来する存在らしい。と、奥の棚の方で何かが落ちそうになっているのが見えた。
「危ない……!」
触るな、と言われていたが遠目で見る限り、それはぐらぐらといつ地面に叩きつけられてもおかしくない状態だ。ミカゲは注連縄を越えて、棚に駆け寄る。そしてそれに手を伸ばした。
「危なかった……ここ、隙間風が入っていたのね」
棚の近くの壁に大きな亀裂が入っている。そこから強い風が吹き込んできていたためにそれは落ちそうになっていたようだ。
それにしても。ミカゲは触れてしまったそれを見上げる。自分の身長より少し高めの所に置かれていたそれは箱のようだった。目線の関係で上半分は見えないが、きっと封と書かれているに違いない。戻そうと押し上げる。と、背伸びの限界だったのか、ミカゲの足が縺れた。
「きゃあ!?」
箱が手から滑り落ちる。そして地面へと叩きつけられた箱の中で何かが砕ける音がした。
やってしまった。腰を打った痛みも忘れ、全身から血の気が引いていくのが分かる。見れば中のものが壊れただけでなく、封と書かれた蓋も落ちた衝撃で緩んでいた。
「ーーようやく、出られた」
凍りついているミカゲの耳に、澄んだ中性的な声が聞こえる。いつの間にか箱の後ろに誰かが立っていた。
「少女よ、礼を言います。ありがとう」
年は二十に満たないほど。大陸の方の羽衣のような民族衣装を身につけたしなやかな体つき。どこかで見たことがあるような大きな黒い瞳が印象的な美貌は少年と見間違えるほどに凛々しく、神秘的だった。呆気に取られているミカゲに気付いたのか、麗人はふふ、とたおやかに笑う。肩ほどまでのサラリとした所々に黒の斑な毛が混ざった金色の髪は人間の髪の質感とは違っているように思えた。
「ところで私の愛しき白虎と可愛い一つ星を知りませんか?」
早く、早く逃げなくては。本能がそう叫んでいる。ミカゲはその美しい見目に騙されてはいなかった。その口元には明らかに肉食獣のそれと思しき牙が見えていた。
「少女よ、私に脅えているのですか?」
「あっ……」
その時だった。
蔵の中に誰かが駆け込んでくる。それは血相を変えた静だった。
「……なんてことをしてくれたんだ」
普段の余裕はそこにはなく、ただただ隠しきれない焦燥が浮かんでいる。一方、彼女は静を見て嬉しそうに目を細めた。
「静」
「……カコ、悪いことは言わない。その姿は、実によくない。君の為にも。早く箱の中に戻るんだ」
感情豊かに話す彼にしては珍しく淡々と突き放すように言葉を紡ぐ。それが意外でミカゲは黙って二人を見つめる。カコ、と呼ばれた怪異は静の命令に驚いたように目を見開き、そして微笑んだ。
「嫌です」
「……は?」
そのままカコは目の前の静のことを蹴り飛ばす。棚に叩きつけられた静が呻くのが聞こえた。あまりの速さにミカゲは反応することすらできなかった。
「あの人に会いたいから箱の中はもう嫌です」
頬を膨らませるその姿は無邪気な子供のようにも思える。だが、その蹴りはあまりに強靭で、静は未だに立ち上がれていない。
「さぁ、行かなくては」
カコの姿が消える。否、全速力で走って逃げたのだ。少しして我に返ったミカゲは静に駆け寄った。
「大丈夫ですか? ごめんなさい……!」
「けふっ……しょうがないね。あれはずっと出たがっていた。策略なんてものと無縁だと思ってたのに甘く見ていた僕の責任だ」
◆ ◆ ◆
カコという怪異が逃げ出した。誰かを探し、逃亡している。
静に伝達を託されたミカゲから伝えられた情報に鎮目は思わず持っていた箱を取り落とした。
〈な……どうして、よりによってカコが……〉
「その……カコって、どんな怪異なんですか?」
事故とはいえ自分が封印を解いてしまったのだ。自分がしでかしてしまったことの責任を取らなくては、とミカゲが問うと、鎮目は難しい顔になった。
〈……実は私もよく知らない。ただ、いずれも嵐堂には触れさせてはいけないものと言われている〉
「カコ……過去ということですか?」
〈箱の形をしていたのだろう? それについては、苛虎と、静さんは管理帳に記していたよ。どちらの意味もあるのだろうけれど〉
苛烈な虎。確かにあの怪異はどこか肉食獣を思わせる。だが、それにしてはあの清廉な様子に違和感があった。
「鎮目さん、カコは愛しき白虎と可愛い一つ星を探しているようですが、それが嵐堂さんのことなのでしょうか?」
確かに嵐堂の肌は遠い異国の雪国で育った特有の白さだ。すると、扉が開く音がした。
「本当に見つからない……あの人、本当にどこ行ったの……」
中に入ってきた静の表情は疲れ切っていた。今にも倒れそうな様子にミカゲはすかさず支えに行く。
「そりゃぁ、まぁ大元が妖獣だから身体能力が凄いのは分かるけど……はぁ、本当に洒落にならないよ……」
「あの……あの方は一体」
少なくとも人間でなくて怪異なのは確定した。ミカゲの問いに静は少しだけ逡巡したが、すぐにその答えを告げた。
「ミカゲちゃんは窮奇、って知ってる? 大陸の方の怪異なんだけど」
なるほど、纏っていた服が見慣れない形だったのはそのせいか。ミカゲが首を振ると、静は続ける。
「翼持つ虎の人喰い怪異。もっとも彼女は生まれながらに人を喰えない体質だけれど」
〈……静さん、一ついいだろうか〉
静観していた鎮目がじっと静を見つめる。
〈あれは私が縢るべきものか?〉
「……難しい問いだね」
しばらく黙り込んだ後、彼はようやくそう答えた。その黒曜の瞳は憂いを帯びていた。
「あの人自身には既に縢るべきところは無い。けれど、あれに触れて綻びたものは縢らなくてはならない。そう、嵐堂のように」
すると鎮目は少しだけ瞑目する。どうしたものかと考えるように。
〈どうして嵐堂ばかり辛い思いをしなくてはならない〉
「そうだね……でも、今回は違うよ」
ミカゲは思わず息を飲む。
「辛い思いをするのはあの人だけだ」
彼が浮べる表情は体を半分に引き裂かれたかのように苦痛を耐えるものだった。
◆ ◆ ◆
手分けをして捜索に戻るよう指示を出した静は再び納屋を訪れていた。他のカコが無事か確認するためだ。そして、カコを並べた棚の前で立ち止まる。
「……泣いてるの、楽緋」
ここにいるのはカコが再現しただけの、本人そのものではないと知りながら、あえてその名を呼ぶ。先程箱の中から逃げ出した少女は顔をくしゃくしゃにして座り込んでいた。
「だから君の為にもよくない、って言ったじゃないか。君が傷つくだけだから」
「でも、白虎に、会いたくて、もう泣かないで、って……!」
どうやら既に嵐堂に遭遇してしまったらしい。そして静が危惧していたことが起きてしまったようだ。
「そうだね。貴女の死後、最後は泣いて泣いて心が壊れて、ついには世界を文字通り滅ぼしてしまったもの。魂を蕩けさせる無慈悲な永久凍土に塗り替えて。けれど、楽緋の願いを辛うじて思い出して再び作り直した。全てを忘れることによって。そうしないと耐えられないから」
カコ。ただそこにあるだけで彼の罪を苛む虎。それは彼女自身の性質に基づく命名ではなく、彼女によってもたらされる災いの名。きっと彼女は再び最愛の人の前であの頃と同じように微笑んだのだろう。そして返ってきたのは。
「あの人は、私が分からなかった……!」
嗚咽。静は唇を噛み締める。あまりに純粋で優しいこの人にそんな辛い思いをしてほしくなかった。いくら今目の前にいるのがあくまで記憶の陽炎だとしても、この姿で悲しむのを見たくなかった。
「……母さん、また、眠り続けてくれないか」
無理矢理止めているだけの時間同士は再び動き出し、いつか否応がなく交差するだろう。自分という存在がそれを示している。されどそれは今ではないはずなのだ。
「父さんの行先は僕が見届けるから」
だから彼は再び過去に蓋をする。
大切に慈しむように。少しばかりの猶予の時を穏やかに終えられるようにと。
◆ ◆ ◆
鎮目は庭で立ち尽くす青年を見つけた。
〈嵐堂、どうかしたのか〉
あの怪異は見つかったのだろうか。それが気がかりだ。だが、顔布で感情を閉ざした青年は淡々と呟くだけだった。
「あんなに心が美しい魂が、まだこの世には残っていたのか」
藍染の布を濡らしたのは確かに歓喜の涙だった。