少年少女カタルシス 下
目が覚めた時、それが夢で良かった、と心から菊場は思った。夢の中とはいえあまりにリアルすぎる臨死体験に全身から脂汗が噴き出してくる。傷は無いのに角材が当たった所には叫びたいほどの熱と鈍い痛みが残っているような気がした。肌は先程まで焼けていたかのように火照っていた。
鎮目は菊場に手拭を手渡す。
〈これで君の悪夢は終わった。夢の中で彼女ではなく君が死ぬという結末で。実は自分が死ぬ夢というのは占いでは吉夢なのだよ〉
「あれが吉夢なのか?」
嵐堂が首を傾げる。鎮目は指先に戻ってきた蝶を目を細めながら見つめる。
〈新たな自分になるという意味だそうだ。君は勇気を出して彼女を救えた。ならばもう一度だけ勇気を出してみないか?〉
菊場は呆然としていたが、すぐに頷いた。
◆ ◆ ◆
《蜃気楼》に来客があったのは一時間後だった。嵐堂に頼まれミカゲは門へと向かう。そしてその客を見て思わず息を飲んだ。
それはあの夢で何度も殺されていた間宮なじむと呼ばれていた少女だった。何故行方不明だった彼女がこんな所にいるのだろうか。
「正一さんに会わせて」
「はい」
確か菊場の下の名前だったはずだ。ミカゲは間宮を応接間へと誘導する。そこでは菊場がチェアに腰かけていた。
「なじむ?」
菊場はとろけるような声で彼女を呼び、うっすらと笑う。隈はあいかわらずだが少々顔色は改善されている。だが間宮はかえって表情を険しくした。
「……怒るわよ。貴方は本当の正一さんじゃない。正一さんを貶めないでくださらない?」
菊場は少しだけ驚いたように目を見開き。
次の瞬間にはその姿は溶けるように鎮目のそれに変わっていた。
〈お見事〉
「残念、僕声真似頑張ったのに」
チェアの死角からは静が飛び出してくる。間宮は更に苛立ったように顔を歪めた。
「……正一さんと私を悪夢から解放してくれたお礼、言うのは止めようかしら」
〈それだ。何故君は自力で脱出しなかったのか? いくら何らかの要因であのように弱体化していたとはいえ、それぐらいは出来たはずだ〉
鎮目は感情の読めない灰色の瞳で間宮を見定めようとしていた。
「ええ。確かに私の化け狸としての能力を全部使えばあの夢を止めることもできたし、夢に囚われて行方不明になんてことにもならなかったでしょうね。でも……そうしたら正一さんに私も妖怪異だと知られてしまうじゃない」
ミカゲは驚いた。間宮はどう見ても人間にしか見えなかった。尻尾や尾も無く、体格もすらりとしていて狸の片鱗も無い、いかにも華奢な少女といった様である。
「菊場も怪異だろ?別にかまわないじゃないか」
「お黙り、人間。正一さんはほとんどが人間よ。人間として生きた方が彼は幸せになれるわ。そんなことぐらい予想もつかないのかしら?」
厳しく言われた嵐堂は何故かしばらく不自然に黙り込んだ。外から見えない何かに困惑しているようにも見える。そんな様子を静は大きな瞳を曇らせながら窺っていたがやがて何か企んでいるように笑った。
「つまり、君は彼を人間として付き合って人間として愛しているってことかい?」
「そうよ」
「でもそれだけじゃないよね。君のように長生きしている存在がそんな浅い理由で不自由を甘受するとは思えない」
静の言葉はあまりに核心をついていた。間宮は少し動揺したらしく視線が泳いでいたが静は逃げを許さない。
「そもそも人間として暮させたいなら何故彼に夢を喰わせた?」
だが、間宮はきょとんとしたように声を漏らす。
「……え?」
ミカゲは空気の変化を感じた。今のやりとりで静達の認識と間宮の認識がどうしようもなくずれているのに気付いたのだ。
「待って、それは私ではないわ」
「なら誰の仕業さ」
彼女はしばらく考え込むが、やがてゆっくり首を振った。
「分からない。ただ、そこの灰色の人外と同じような背格好の男が関係していると思う。顔は見られなかったけれどその男に話しかけられて気を失って……あの夢の中にいたのだから」
つまり別にこの事件を引き起こした人物がいる。その上その素性も分からないのだ。鎮目の表情が陰った。とはいえ証拠が無いので今はまだ野放しにしておくしかない。静が深い溜め息をついた。
「じゃあ、質問を変えるよ。君、さっき視線が泳いだよね。君が脱走を躊躇ったもう一つの理由は?」
間宮は俯き、やがてそのまま覚悟したように呟いた。
「……正一さんが私の最期を悲しんでくれるのが嬉しかったのよ。彼は寿命の関係で私より先に死ぬでしょう。だから看取ってくれる。実際にはありえないそれが、たまらなく愛おしく感じたの」
それはあまりに理解し難い愛の形だった。ミカゲは口を覆う。歪んでいるとは頭ではわかりつつも最愛の男の前で最期をむかえられるという喜びが分かってしまったのだ。
だから彼女は自らが何度も惨たらしく死ぬ悪夢でさえ、あまりに甘美な夢に思えてしまったのだろう。
そこまで考えていると、鎮目がようやく目元を和ませた。
〈……だそうだよ、菊場正一〉
「え?」
その言葉に間宮が驚いたように顔を上げる。すると応接間にある本棚の前には少し照れたような菊場が立っていた。鎮目の指示で本棚の陰に隠れていたのだ。
「ごめん、盗み聞きした」
「愛されてて良かったじゃないか」
静に茶化されて更に菊場の顔が赤らむ。一方間宮は頭の中がパンクしたのか口をパクパクさせている。あまりに恋する乙女らしい反応をする化け狸を鎮目は優しく見守っていた。
「でもさ、なじむ……せっかくならそんな辛い夢より、僕は君との幸せな将来を夢みたいなぁ、なんて……忘れて! 恥ずかしい!」
菊場はすぐに手で顔を覆い隠す。だが耳までは隠せない。恥ずかしいのは傍でこれを見せつけられる此方だ。呆れたように溜息を吐いた嵐堂はそう言いたげだった。
◆ ◆ ◆
三人が屋敷を去った後一同はすっかり遅くなった朝御飯を食べていた。流石というべきか嵐堂の作る料理は時間をおいても十分においしかった。
〈ミカゲ、一つ面白い言葉を教えてあげよう〉
不意に鎮目が言い出す。干物を慎重にほぐしていたミカゲは首を傾げた。
「何でしょう」
〈同じ穴の狢。意味は…まぁあの二人みたいなことだよ〉
ヒーロー願望のある少年とヒロイン願望のある少女。あまりに御揃いな二人組。
藍染めの布から覗く口元におひたしを運んでいた嵐堂の手が止まる。そしてポツリと呟いた。
「……確かに」