産声 下
嵐堂が屋敷に戻ると午後の柔らかな日差しが当たる軒先で鎮目が茶を飲んでいた。
〈おかえり。団子もあるよ〉
「おい、鎮目……あの子の正体は何だ?」
相当急いだらしく息を切らした嵐堂は言い方こそ穏やかだったが、微かな苛立ちを隠し切れていなかった。それでも鎮目が差し出した串をおとなしく一つ手に取ったのを確認して彼は説明を始めた。
〈あれは都市伝説、俗に言うコインロッカーベイビーだよ〉
「コインロッカーベイビー?」
串を咥えたままきょとんと首を傾げた嵐堂を意外そうに鎮目は見ていたが、しばらくして、嗚呼、と納得する。
〈そういえば君は話が通じてしまうから忘れがちだけれど、戦がある時代に生きた男だったね。実際に体感していないから、君はその時代については知識としてしか知らないのか。高度経済成長期だったかな、一時期荷物を預かるシステムとして誕生したばっかりのコインロッカーへの子棄てや死体遺棄が横行してね。そこから生まれた都市伝説によるとかつて子を棄てた母親がそのロッカーの近くを通ると亡霊と化した子が襲いかかる、という話だ〉
表情こそ布で見えないがはっきりと嵐堂が気分を害したのが分かった。なるほど、確かにこれは彼にとっての地雷だ。いくら嵐堂の記憶の大半が封印されていたとしても度し難いはず。その証拠に今しがた音を立てて彼の手の中でへし折れた串の残骸を横目に見つつ、鎮目は飄々と自分の分の団子を平らげていく。
「つまり母さんを連れてこい、っていうのは復讐のため?」
〈だろうね。これで母親を襲ったらあの子は確実に怨霊になる。誰かを呪う前の今なら穢れなき水子として成仏できるのだが〉
二度と取り返しがつかなくなる本懐を遂げさせてやるべきか、それとも安寧のために無理矢理成仏させてしまうか。
嵐堂は静かに口を開いた。何かを懇願しているようだった。
「鎮目」
〈分かっている。だから嵐堂、君の魔力を分けておくれ〉
その反応さえ予想通りといった様子で鎮目は口元を笑みに歪めた。
◆ ◆ ◆
××駅には嫌な思い出がある。だから絶対××駅は使わないで別の駅を使い、特にコインロッカーの類は徹底的に避けてきた。
かつて私は産んだばかりの娘をコインロッカーに棄てたのだ。結局父親であるはずの当時の彼はすぐ別れてしまっていて当てにできるわけもなく、両親も未婚の母となった不名誉な私を勘当し最期まで見て見ぬふりした。ようするにあまりに孤立無援で私は精神的にも不安定だったのだ。だから咄嗟に衝動のままコインロッカーに邪魔な荷物を棄てた。そして私はそれを忘れようと必死に努力した。仕事に打ち込み、新しい人と結婚して、家庭生活を充実させて。
私は悪くない。私をそうさせるように追い込んだ周りが悪いのだ。
事故で電車が止まってしまい、いつもの駅が使えないためやってきた××駅で私はそんなことを考えていた。と、足早に改札に向かおうとして気付く。××駅では駅舎の改修工事をしているせいでコインロッカーのすぐ前を通らないと改札に辿りつけないという事実に。
「……最悪」
覚悟して一歩踏み出した時、ふとある一点に目を奪われる。見知らぬ学生服姿の少年が狂気を感じる笑みを浮かべて少し離れたところから私を見ている。それはどこか不吉で、あれを理解することは破滅に繋がっているような気さえした。
なんだ、これは。あわてて周囲を見回すが実際には少年はそこにいなかった。今のは気のせいだろうか。空気が悪いのか、それともすし詰めにされていたせいか、頭がズキズキし始めた。それでも早くこの場を通り過ぎようと歩き出した途端、私はふらついてコインロッカーの隅に手をついてしまった。
「あっ」
思わず声が出てしまう。いつの間にかこんなに近づいてしまったのだろう。悪寒が背筋を駆け抜ける。一刻も早くコインロッカーから離れなくては、と顔を上げた時だった。
目の前には奇妙な、だがとても可愛らしい少女がいた。日光を知らないような白い髪に色素の薄いぼんやりとした瞳、そして珍しいことにアルビノ体質のようで肌の色もミルクのようだ。彼女は泣きそうな顔で私が着ている花柄のワンピースの裾に縋った。
「お母さんは、どこ?」
あくまで推測でしかないが、この少女は迷子らしい。だがこれだけ可憐で目立つ容姿だ。放っておくのは危険だろう。早く母親を探してあげなくては。
「えっと……お母さんはどんな人?」
すると少女の唇がにやりと歪んだ。
「お母さんは……あな」
〈―――探しましたよ〉
私の首元へと伸びた少女の手をその前で掴んだのは、私、だった。
〈貴女の親は此処にいます。こんなところにいないで屋敷に帰りましょう。ご飯が冷めますよ〉
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!」
少女は私と同じ顔、同じ髪型、同じ服装をした女性に向かって駄々をこねる。女性は溜息をつきながら少女のもう片方の手もそっと私のワンピースから引きはがした。何故だろうか、それは私に対しての、この子に触るな、という拒絶に思えた。
〈いい子になさい。まったく……〉
宥めすかす鈴を転がすような声。少し困ったような表情だが、それでもその女性は幸せそうだった。優しく細められた眼差しは慈愛に満ちている。その様子はどう見ても極々普通の仲睦まじい親子の姿で。
いつしか私の目からは涙が零れていた。
そう、気がついてしまったのだ。あれはもう一人の、そして人として歩むべき道を正しく歩んだ結果の私だったのだと。
私が、あの子を殺していなければ、目の前の親子のようにあの子と些細なことで笑いあえていたのだ。ちょうど育っていたならあの子と同い年ぐらいのはずの少女を前にし、懺悔が止まらない。私は楽になりたいという身勝手な理由で生まれたばかりで抵抗一つ出来ないあの子の未来を摘み取ったのだ。
悪いのは私だ。私が、この手で殺したのだ。
親子の姿はいつの間にか消えていた。そして一人慟哭する私を行き交う人々は怪訝そうに見ていた。
◆ ◆ ◆
〈ただいま〉
「おかえり」
屋敷で待ち構えていた嵐堂は当たり前のように少女の腕をしっかりと掴んでいる初対面のはずの母親の姿をしたそれに言った。二人が門をくぐると同時にその姿は表面から溶けるように鎮目のそれに変わる。手を繋いだままの少女は唖然とした様子で鎮目を凝視した。
「鎮目、さん?」
〈如何にも〉
鎮目は唇だけで薄く笑う。そしてようやく少女から手を放した。
「あっ……」
屋敷は少女が出て行った時と同じく夕陽が沈み、既に一部は宵闇に包まれ始めている。
〈確かに君はあの身勝手な女性に殺された被害者だ。だがあのまま恨みのままにあの人を呪ったら、たちまち加害者になって怨霊と化してしまう。それが私にとっては嫌だった〉
そんな中、くすんだ灰色の瞳は闇に紛れることなくあたたかな優しい眼差しを向けていた。
「とは、いえあんたの思いは分かるから復讐はさせてやりたい。だから鎮目が一芝居打った。今頃、あんたの生みの親は自分の罪を自覚して死んだ方がましな気分になっているだろうよ。もっとも自分と寸分違わぬ姿になった鎮目に会ってしまった時点で……いや、これは野暮だな」
嵐堂も飄々と嘯く。表情は顔布のせいで見えないが、晴れやかに違いない。
〈これで君は自由だ。君の心の歪みは私が縢った。来世を期待して成仏するもよし、この屋敷でお休みしている嵐堂と同じように一緒に暮らすもよし、だ〉
「……え?」
少女はきょとんと首を傾げる。鎮目の言葉の真意が分からなかったし、何より何故そんなに親切にしてくれるのか見当がつかなかったのだ。だが、鎮目は当たり前のように続ける。
〈この屋敷はそれなりに広いから私の娘として暮らす分には問題無いだろう。亡霊だろうとも術で器ぐらい容易く用意できるしね〉
少女は鎮目と嵐堂を見比べた。嵐堂は少女の視線に気付いたらしく、口元だけで笑いながら軽く手を振る。どうやら意外なことに二人とも少女のことを歓迎している雰囲気だ。
「いいのですか……? 私のような、親を呪った、娘が、貴方の娘になっても…?」
いくら鎮目達が実の親を祟らないようにしてくれたとはいえ、ふとした拍子にまた亡霊として無意識のうちに誰かを呪ってしまうかもしれない。少女は本能的にそれを感じ取っていた。それほど今際の時の恨みとは業が深いのか、とも思いながら。
だが、鎮目はそんな不安を一笑した。
〈もっとも私は人の親になったことがない。故に君に呪われても仕方がないことをしてしまうかもしれない。だが、それは決して君の罪じゃない。私の罪だ〉
その言葉は死んでも捨てられ優しさを与えられなかった少女にとってあまりに優しすぎた。少女は生まれて初めて、そう、ようやく初めて泣いた。慌てて嵐堂が駆け寄りその薄い背中を優しくさする。その手が伝えてきたのは人間の体温だった。
〈そうだ、一緒に暮らすならば名前が必要だね〉
鎮目は泣きじゃくる少女に手招きする。
〈……ミカゲ。雛形ミカゲ。今日から君は私の愛しい娘だ〉
そして少女は泣いたまま笑顔で差し出された手をとった。
それが雛形ミカゲという少女の産声だった。