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産声 上

 閉じたままの目が光を感じたのは一瞬だった。女性の細い指で力一杯絞められた喉は酸素を取り入れることができず、すぐに息苦しくなっていく。それは、生まれてきたのだ、と泣き叫ぶことさえ許されなかった。やがて力を失った手足は弛緩し、何かの付属品のように揺れているのが分かる。その頃には既に脆き肉体から魂は抜け落ちていて。


「ばいばい」


 それが彼女が聞いた、最初で最後の母の言葉だった。


 ◆ ◆ ◆


〈嵐堂、今度は一体何だい?〉


 薄墨の着物を纏った男は自らの屋敷の庭先で少しばかり困ったように眉尻を下げた。一応は喜怒哀楽があるのに表情が乏しいこの男にとってこの単純な仕草はよくあることである。柔らかそうな髪はくすんだ灰色で、彼が醸し出す老成した雰囲気と合わさって男の年齢を分かりづらくさせている。事実、この線の細い男は若者のようにも中年のようにも見えた。


「……知らん。門の所に座り込んでいた」


 一方、嵐堂と呼ばれたもう片方の男はより奇妙な見目をしていた。声の感じからするとかなり若い。単純に判断するなら二十代半ばといったところだろうか。この国の一般的な成人男性よりかなり大きいその背格好の割に威圧感は無いが、どう見ても堅気の人間ではないだろう。一昔前の少しだけ使用感のある軍服の上から見ても分かるほど徹底的に絞り込まれた体つきをしており、片頬から顎にかけては鋭い刃物で切り裂かれたような傷跡すら残っている。ただ、十分にそれだけでも奇異だが、何より人目を引くのは顔の上半分を覆い隠す布だろう。目はおろか、完全に鼻辺りまで下がった藍染の布には【封】と白く、文字が抜かれている。おかげで彼の顔でまともに見えるのはその下半分だけだ。それさえ無ければどこかの戦場帰りの華族か軍人か、といった上品な風体だったのでその異常性は際立っていた。


〈だいぶ気軽に言うが……これまた奇特な子が迷い込んできたものだ〉


 灰色の男は先程から話題になっているそれを横目で見た。

 既に宵の口を迎えた、どこか浮世離れした庭を眺めることが出来る縁側にちんまりと座り込んでいるのは一人の少女だった。肩ほどまでの透き通るような白の髪にどこかぼんやりとした瞳は今にも消える淡雪のようだ。


「どうする?」

〈仕方ない。【かがりびと】として彼女の歪みを縢るよ〉


 灰色の男は一つ溜息をついた後、下駄を鳴らしながら少女へと歩み寄る。そして特徴的な足音に少女が顔を上げ、その瞳に自分が映ったのを確かめると微かに笑った。


〈ようこそ、【蜃気楼】へ〉


 ◆ ◆ ◆


 その少女が迷い込んだのは【蜃気楼】と呼ばれる不思議な屋敷だった。その中の一室に連れて行かれた少女は周囲を見回す。外見は武家屋敷のようだったが、中は一部改装しているらしく、今いる部屋もレトロな洋室だった。


〈さて、君の名前は?〉


 ビロード張りの椅子に腰かけた灰色の男の問いで少女は初めて気付く。男の唇は一切動いておらず、その声も実際に音として鼓膜に届いたものではないことに。これは俗に言うテレパシーというものだろうか。奇妙なことがあるものだ。少女はそういった感想を抱いた。


〈おっと、先に私が名乗るべきかな。私は雛形鎮目。そこの男は嵐堂だ〉


 促されて、灰色の男の傍らに控えていた顔を隠している青年は軽く会釈をする。


「よろしく」


 こちらははっきりと分かる肉声だったが、見た目同様、青年と判断してしまってよいほどに相当に若い。少しノイズが混ざったような、だが爽やかな声はなんとなく青年にふさわしく感じた。


「私は……」


 二人の紹介に対し少女も答えようと口を開き、すぐに口を閉ざす。答えなくては、と思うのに、何も浮かんでこないのだ。焦燥は脳を熱くし、少女は思わず髪の毛を乱す。

 自分は何者なのか、どこから来たのか。自分を証明する記憶が全て抜け落ちていた。

 ただ、覚えていたことも一つだけあった。

 そこは冷たくて、暗くて、埃っぽい。あの場所と違って、酷く寒々しい。


「……××駅の小さな鉄の扉の中。私はそれだけしか覚えていません」


 少女の答えに鎮目は目を細めた。何かを考えているような目だったが、鉛色のその瞳の奥を窺えるものはいなかった。


〈××駅の小さな鉄の扉、か……嵐堂、心当たりは?〉


 嵐堂はその問いに黙って首を振った。どうやら彼にもわからないようだ。すまない、と口をへの字にしているのがちらりと見える。


「でも実際に行くならついていくことは出来る」


 すると名案と言わんばかりに鎮目はパンと両手を打った。


〈ならば、とりあえず行ってみようか〉


 ◆ ◆ ◆


 少女は決まったらすぐ行動しようと動き出した嵐堂に手をひかれ、いつの間にか××駅の近くに到着していた。

 門を出た記憶はある。屋敷は既に夜だったのに何故か門の外の世界はまだ昼だったから。あまりに自然にその不可思議な時間が切り替わっていたので、少女はしばらくしてからその事実に気付いたほどだった。そして明らかにその屋敷は人気がないところにあるように思えたのに門の外は当世風の繁華街だったのも奇妙だと思った。


「鎮目さんは来ないのですか?」

「奴は基本的にあの屋敷から出られない。だから外での仕事は原則俺の仕事だ」


 その言葉通り、思い返せば、言い出した本人であるはずの鎮目はいってらっしゃいと門の所で手を振って見送るだけだった。


「それより……この駅に来た覚えはあるか?」

「いえ」


 人通りは少なくは無いが誰一人として嵐堂と少女を不審がる気配は無い。どちらも普通に立っているだけで人目を引く容姿なのだが。


「つまり普通に駅に来たわけじゃないってことか……とりあえず、その小さな鉄の扉、っていうのを探そう」


 とはいえそう簡単に見つからないか、と嵐堂がやれやれと言いたそうに布越しに額を手でおさえた時だった。

 手を繋いだままだった少女がある一点を見つめたまま、突然立ち止まる。そして。


「見つけた」


 そんな馬鹿な、と否定しようとし、その声色に思わず嵐堂は息を飲む。

 幼い可憐な声は狂気と憎悪に彩られていた。童の声だからこそ、それはどこか不気味でおぞましく感じられた。


「見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた!」


 少女は足取りも軽やかに視線の先にあるものに近付いてゆく。明らかに成人男性の腕力を越えた少女の怪力に嵐堂は引きずられていく。その頃には既に嵐堂は少女への警戒心を強めていた。

 そして改札付近の古ぼけたコインロッカーの前でようやく少女は立ち止まる。高揚したように頬を赤らめながら、常軌を逸している満面の笑みを浮かべた。


「ここ! 私の! 小さな鉄の扉!」


 それはどこか妖艶で、無邪気な童子が浮かべていい類の表情ではなかった。あまりの豹変具合に嵐堂はしばらく硬直していたが、促されるままにコインロッカーと少女を見比べ、その言葉の意味に気付いた瞬間、自然と口元を押さえていた。


「本当かよ……こりゃあ、精神的にくるものがあるな」


 いくら少女が小柄であるとはいえ、普通に考えれば鞄一つしか入らないようなコインロッカーに入るようなサイズではないのだ。そもそもコインロッカーに人を入れるなど、誰が考えるだろうか。


「あとはお母さんだけ! ねぇ、私のお母さん連れてきて!」


 くるりと嵐堂に背を向けると同時に少女の姿は消え、笑い声だけが残る。嵐堂は息を飲み、コインロッカーを開けようと手を伸ばしたが、結局止めた。途中まで伸ばされた手は行き場を無くし宙をかく。

 改札の辺りにいる乗客は相変わらず誰一人嵐堂や奇妙な笑い声を気にすることなく日常生活を送っていた。

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