2、金平糖の味は
雨に扉のある町で、幸運にもその扉の向こうを覗けた私の前に広がったのは、甘い香りの立ち込める洋菓子店だった。
甘いものはそれほど得意ではないので、個人的には、外れもいい所である。話に聞いた雨具店であれば傘を新調出来たのに、と少々残念に思ったが、こればかりは仕方がない。折角なので、話のタネに何かしら。そう思い、華やかで繊細で、それでいて、思ったよりも安価な品々をぐるりと見渡す。クッキーやチョコレートのような、分けやすいありがちなものを…… と思った筈なのだが、何故か私が手を伸ばしたのは、片隅にひっそりと置かれた金平糖だった。気付けば手に取り、支払いをし、店の外に出てしまっていた。ハッとして後ろを振り返ったが、時すでに遅し。扉はおろか、雨すら降っておらず、会社近くの見慣れたアスファルト道が、黒く塗れているだけだった。手元には、水滴柄が滲むように入った、淡い水色の紙袋。
どうにも狐に摘ままれたかのような心持で自分の机に戻ると、時計の針は昼休憩が終わる少し前をさしていた。傍から見ても随分ぼんやりしていたらしい。何かあったのかと遠慮がちに問われたので、実は…… と口を開くと、私の周りには一気に人だかりができた。
しまった、と思ったが、もう遅い。微にわたり細にわたり、根掘り葉掘りとはこのことかと言わんばかりの質問攻めに、しどろもどろで答える破目に。
洋菓子屋であったことを話せば、甘いもの好きが瞳をきらめかせ、しかし熱の無い私の感想に、自分であったらと歯噛みをした。金平糖を買ったと漏らせば、場違いな可愛らしい紙袋に、周りの視線が集まる。…… これはお裾分けしなければいけない空気。甘い物はさほど好まない私ですら、つい菓子を買ってしまったのだ。甘党であるならばその興味は如何ばかりか。
紙袋を開いて、瓶入りの金平糖を取り出すと、そちらに視線が集中する。雨の雫を模した凹凸がついた棗型の壜には、中央に摘まみがついた金属の蓋が嵌っている。後に調べたらしい誰かが言っていたが、あめや瓶、というようだ。レトロさが如何にもそれらしい。そこに、青系の色で統一された金平糖がいっぱいに詰まっていた。
「きれいだね」
「何味かな」
「コンペイトウに味とかあったっけ?」
「色だけで全部砂糖味じゃなかった?」
「底のラベルに何か書いてない?」
やいのやいのと言い合いつつも、流石に遠慮してか、手を出そうとする者はいなかった。なので、自分で瓶をくるりと返し、ラベルを見ると、
『叶わなかった初恋の味』
集まる視線が痛い。違う、そうじゃない。ラベルなんて見なかった。ただ何となく買っただけなんだ!見ていたら絶対に買っていない。何だこのこっ恥ずかしい商品名は!
そうと知れば、手にしていることすら恥ずかしい気がしてきて、デスクに手荒くガタリと置いたところで、休憩終了の音楽が柔らかく響いた。
一日の業務が終了し、大きく伸びをしたところで、集まってくる人の気配を感じた。例の金平糖が気になるのだろう。丁度いい。あんな恥ずかしい名前と知れた今、持ち帰って独り占めするのも気が進まない。一人一粒配っていると列が出来、結局全員に配ることになっていた。個別包装など当然されていないので、それぞれその場で口に放り込む。
「甘い!」
「シュワシュワして…… っ、鼻にツンって…… 」
「甘いけど、ビター…… 」
「すっぱ!なにこれすっぱ!」
「ヤバい、某乳酸菌飲料の味がする」
「レモネードとか…… なにこのド定番! はっず! 」
驚いたことに、皆それぞれ味が違ったようだ。やいのやいのと一頻り騒いだ後、ちらちらと視線が集まる。これも人付き合いかと、金平糖を一粒口に入れ、口の中でコロコロ転がしてはみたものの。
「…… なんだか、よくわからない…… 」
私の漏らした一言に、皆なんとも言えない表情になった。おそらくは私も似たような顔になっていたことだろう。金平糖とは甘いもの、という先入観に対し、口に含んだそれは、甘いような、そうでもないような、酸味があるんだかないんだか、苦いような気がするけれども、気のせいのようでもある。薄らぼんやりとした、本当に「よくわからない」としか評しようの無い味だった。
「恋の自覚が無かったってことですかね」
「えっ、それって寧ろ甘酸っぱくないですか!?」
「当人の主観にもよるんじゃないかなぁ」
「あれ、感想言った人のプライバシー駄々洩れ?」
「漏れたんじゃなくて漏らしたんでしょ」
「はっ、そういえば何も言ってない人たちが……」
「黙秘します」
「言うわけないでしょ」
「っていうか味なんてなかった」
「「「初恋未経験だと!?」」」
一頻り騒いだ後、騒ぎ足りない同僚たちは、飲み会へとなだれ込んでいった。元気な事である。外では飲まない主義の私は、幾つかの金平糖を賄賂に、同行を見逃してもらった。
突風のような一日が過ぎれば、どこか浮ついて空気も徐々に落ち着きを取り戻し、それに併せ、仕舞い込んだ金平糖の事は日々の雑事に紛れ、忘れてしまっていた。
思い出したのは、久方ぶりの同窓会からの帰り道。それなりに懐かしい面々と十何年かぶりに顔を合わせ、浮かれていたのだろう。偶には家で飲もうか、という気になった。途中のコンビニで気になったチューハイや、気に入りのカクテルの材料をそろえて帰宅したものの、うっかりとつまみの用意を忘れていた。何かあったかと冷蔵庫を開いたところ、目に留まったのが件の金平糖だ。
購入から数か月は経つだろうに、流石というかなんというか、ちゃんと形を保っている。よくわからない味とはいえ、このまま消費せずに死蔵するのもどうかと思ったので、冷凍庫から発掘したピザと一緒に片付けてしまうことにした。
酒を並べ、ピザをトースターに入れ、焼きあがるまでの間つなぎとばかりに、残っていた数粒の金平糖を、ビタミン剤よろしく口に放り込んでバリバリと噛み砕き―― そのまま、飲み込むのを、忘れた。
それは、よくわからないぼんやりとした味ではなかった。
煮詰めたカラメルを思わせる甘い苦味が、舌の上で余韻を残して消えていき、それを追うように、私の瞳から、涙が一粒零れ落ちた。
同窓会。懐かしい級友たち。近況報告と、幾人かからの結婚報告。そのうちの一つを聞いた時、何故か微かに痛んだ胸の奥。
そうか。
恋を、していたのか。
ラストの同窓会だの近況報告だのの下りは暫く入れるか入れまいか悩んだ。
入れない方が個人的には好みとはいえ、入れないとわかりづらすぎるだろうかと思い、入れてみた。