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卅と一夜の短篇 

をとめの姿しばしとどめむ(三十と一夜の短篇第38回)

作者: 惠美子

 天平十五年五月

 癸卯()。宴群臣於内裏。皇太子親儛五節。

     『続日本紀』より


 天平十五年五月五日(ユリウス暦七四三年六月一日)、内裏での宴に於いて、皇太子阿倍内親王が天女か女神のように清らかな装いで、五節の舞を舞った。

 阿倍内親王が五節の舞を披露した場には、群臣たちのほかに、両親の聖武天皇と光明皇后、そして大伯母の元正太上天皇が臨席していた。

 聖武自身、皇太子の時代に在位中の元正の前で舞を舞ったことがある。帝やかつて帝位にあった者の前で、その継承者が舞い踊るのは、群臣たちへのお披露目や立場の強調の意味がある。

 阿倍内親王が皇太子の地位に就いたのはこれより前の天平十年の正月。

 女性の身で皇位に就くのは前例があり、元正太上天皇は女性、その前の元明天皇も女性で阿倍内親王の曾祖母である。しかし、これまでの大兄(おおえ)皇太子(ひつぎのみこ)と呼ばれる地位に就いてきたのは皆男性皇族たちであった。女性天皇は天皇や皇太子の未亡人で、自らも皇族出身の女性たち。元正のみが、母の元明が体力の衰えを感じ、皇太子の聖武がまだ帝位に就くには年弱であるからと、独身を通していた娘の氷高内親王に譲位して誕生した未婚の女帝であった。元正は立太子をしていない。甥の聖武の成長を見守り、ほかの皇親たちの牽制をする為の中継ぎの存在といえた。

 阿倍内親王は女性で初めての皇太子である。

 天平九年の春から秋に掛けて藤原氏や橘氏の伯父たち、国中の多くの者たちが流行り病で相次いで亡くなり、その後、藤原広嗣の叛乱、異母妹不破内親王とその配偶者塩焼王の芳しからざる振る舞いがあった。地震が度重なり、いつまでも不安で揺れ動く平らかならぬ世であると、風前の灯に身を例えたくなる日々が続いていた。

 父の聖武天皇は誇り高く、また生真面目な性格から、天災や世情の乱れに深く思い悩み、天子としての責任を果さんが為、権威を示そうと行幸や遷都を繰り返し、国家の安寧を図ろうと深く仏教に傾倒していった。

 天譴思想と仏教への篤い信仰からくる聖武天皇の行動が成功したかどうかは、問うても意味がない。

 世の穏やかならざるは、天皇の行状だけでなく、病勝ちな天皇の皇嗣が定まらない所為もあった。聖武と光明の夫婦の思惑が複雑に交錯し、阿倍内親王が皇太子に定められた。

 阿倍内親王には十年下の異母弟安積(あさか)親王がいる。また、天智天皇や(聖武の父方の曾祖父である)天武天皇の孫王たちが幾人も生存している。一旦内親王を立太子、皇位を踏ませたとして、阿倍内親王が独り身である以上、阿倍内親王が自身で皇嗣を得るのはかなわず、次はどうするのか、気を揉む流れが存在している。

 天武天皇の皇孫の一人、塩焼王が聖武の勘気を被ったので、塩焼王以外の皇親、或いは安積親王が健康で大器の持ち主と見込めそうならば、阿倍内親王が皇位を継がなくても、皇太子を交代させるのが良策と群臣たちはそれぞれの利害関係を慮り、ひそひそと、または大胆に自分たちの意見を交わし合った。

 聖武の眼前で行われなくても、その雰囲気や情報はどこからともなく、聖武や光明、元正側に伝わってくる。阿倍内親王が立太子してから五年を経て、五節の祝いの席で臣下たちに改めて皇嗣としての姿を示さねばならなかった。

 阿倍内親王が舞い終わると、聖武は右大臣橘諸兄を通して元正に述べた。


「口に出すのも畏れ多い飛鳥浄御原の帝(天武天皇)は天下を治めたまうに、上下を整え乱れなく平穏にあらしむるには、『(らい)』と『楽』の二つを並べ、平らかに長くあるべしと思し召して舞を始められ、造られたと聞き及び、天地(あめつち)とともに絶ゆることなく受け継いでゆくべきものであると、皇太子であるこの(みこ)に学ばせ、我が太上(おおきす)天皇(めらみこと)のおん前に奉りました」


 元正は聖武に言葉を返した。


「我が子の帝(聖武)が、口の出すのも畏れ多い帝の始められ、造られた舞を国の宝として、この王につかえまつらわしめたまえば、天の下に立てたまい、行いたまう(のり)は絶えることがないと見聞でき、喜ばしい。

 また、今日行いたまう(わざ)は遊びではない。天の下、人に君臣・親子の(ことわり)を教えたまい、導きたまうものと思う」


 次いで、この日を忘れず、群臣たちは清き(あか)き心で長く仕えるようにと詔が出され、位階が上げらる旨が伝えられた。

 宮廷の中、関係者一同の前で踊るのが伝統で、それによって世の中が安らかに治められる、皇統が続いていくと、如何に信心深い時代であってもまともに受け止めた者がどれほどいただろう。

 阿倍内親王は周囲から皇嗣と認められていない、かなしさと地中に潜む水流のような激しい憤りを抑えこみ、堂々と振る舞おうとする、父譲りの誇り高さと、自負心を秘めていた。

 律令の規定を守るのが前提とするならば、宮廷内の儀式が行われる場で、阿倍は二十一歳からずっと男装しなければならなかった。私室に戻ってからはともかく、儀式の無い時も公の場では男装に近い姿をしていた可能性がある。

 律令にある皇太子の礼服(らいふく)は、礼服用の冠、黄丹の衣に白い袴、白い帯、錦の(しとうず)、鳥皮の(くつ)。親王の礼服は一品(いっぽん)の場合、やはり冠に、深紫の衣、白い袴と定められている。

 内親王の礼服は、一品で(ほう)(けい)の髪型と飾り、深紫の衣、蘇方、深紫の紕帯(そえおび)、浅緑のひらみ、蘇方、深き浅き紫、緑の(ゆわた)()、錦の襪、緑の舃となっている。

 皇太子の衣服は男性を想定されて定められているとしか言えない。

 五節の舞は、天武天皇が琴を弾いていると「神女」の如き者が姿を現し、曲に合わせて踊ったとの言い伝えからくるらしいので、阿倍内親王はこの舞台では女性の服を纏っていたのに違いない。

 当時の感覚では、二十六歳は男性なら若くこれからが期待されるが、女性としては若いと見られない。

 この五節の舞の宴では、儀式のめでたさや長久を寿ぐ御製が伝わっている。皇太子の容姿を形容するのは論外とされたのか、阿倍内親王の姿そのものを褒め称える言葉はない。

 女性の若さの盛りを男装やそれに近い振る舞いで過してきて、この日天女と見紛うほど美々しく装った阿倍内親王を、麗しいと、または痛々しいと見詰めた者はいただろうか。

 侮られまいと常に気を張り、高い矜持で身を守っている皇女の姿。

 阿倍内親王のその後の、孝謙・称徳天皇の御代はここでは語らない。ただ、誕生してから男児であったら良かったと言われ続け、やがては男児と同じ役割を果たせと期待され、教育されてきた女性の十代、二十代の時間が、その後の人生、天皇としての治世に影響を与えたのは想像に難くない。

 せめて、五節の舞姫の扮装をして、夢のようにきらきらしかったと綴っておきたい。公の場での「をとめの姿」、注目を浴び、喝采されたと。

 参考文献

『続日本紀 前篇』 吉川弘文館

『寧楽遺文 中巻』  竹内理三編 東京堂出版

『衣服で読み直す日本史 男装と王権』 武田佐知子 朝日選書

『孝謙・称徳天皇』 勝浦令子 ミネルヴァ書房

『元明天皇・元正天皇』 渡部育子 ミネルヴァ書房

『国史大系 令集解』 国立国会図書館デジタルコレクション


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― 新着の感想 ―
[一言] 当時は男女の装いに明確な差があったでしょうから、望まない男装をしなければならなかったをとめの心情は、現代しか知らない自分には想像も及びません。 そんな方が公に女性の衣服をまとって女性らしく振…
[一言] テレビで舞踏会にはまる人の話を観ましたが、「きれいに着飾る」ことで瞬間の存在を刻みつける......というような、私なりに解釈しています。
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