日は西から昇らない
「揚羽?」
呼ばれて、緩慢な動作で振り返った。
不二白は、もちろんまだまだ子どもだったけれど、50年のあいだで少し背が伸びた。今はもう揚羽の肩くらいまでにはなっている。
「延珠亭から人が来たそうだね」
「……うん。草珊瑚が……」
「そう」
言いながら、外套をそのまま脱いで床に落とした。横から慌てたように手が伸びてくる。別の者が茶の用意を整えたのを見計らって、小さく手を振った。最初から決められた合図だったかのように、人が滑るように引いていく。
椅子に座ってぼんやりとしていた揚羽の瞼に、唇が押しつけられる。それはやがて口元まで降りていって、気がつけば息を荒げるほど夢中になってその行為に耽っていた。
最後に唇を舐められて、瞳を覗かれる。
「で? 船長が死んだらしいね」
すうっ、と重い緞帳が上げられたように視界が明るくなった。
「お前っ、知ってたんだな。ずっとずっと、黙ってたんだろっ」
その叫びは、あたかも悲鳴のようだった。
不二白はゆっくりと揚羽の膝から身を離した。背を向けて、程よく葉が開いた紅茶に手を伸ばす。
その手が震えているのを、揚羽からは見ることができない。
「それが? どうしてわざわざ揚羽に言わなきゃならないの。揚羽を売った男なんだよ? ほんとうにしつこかったよ。何度も何度も延珠亭から確認が入るんだ。まだ手放す気はないか、ってね。その度に売らないって……僕は返す気なんかないって言ってるのに! 揚羽、わかる? それがどれだけ煩わしいか」
ガシャン、と音がして、見ると卓が倒れている。湯気の立つ大元を探ると、内匠がどれほどの心血を注いでつくりあげたか知れないものが、今やただの陶器のくずとなって死んだように打ち捨てられていた。
「ごめん」
思わず、口に出たのはそんなことばで。
「なに謝ってるの。揚羽は悪くないでしょう。それともなに? あの男が好きだった?」
「ちがう……」
「いいよ、別に。当人は死んでるんだし。僕だってそれほど狭量じゃない。はっきり言ったらいいんだ!」
「ちがう、不二白。ごめん……俺」
必死に首を振りながら、揚羽は糸がぷつりと切れた音を聞いた。
もう耐えられない。
……もう、ここにはいられない。
出ていく、と言ったとき、西の王太子は予想に反してひどく冷静だった。
戸惑いを隠せないまま、そのくせどこかで強く引きとめてくれるんじゃないかと浅ましく期待していた自分を見透かされた気がして、揚羽はただ恥じ入った。
「もう、十分だろ? 俺はお前の子どもなんて産んでやれない。き、聞いたんだ。もうすぐ、生まれるって。に、妊娠してるって、さ」
「…………」
不二白の后のことに触れたのはこれが初めてだった。
否定しない……。
やっぱり、そうだったのかと傷つく勝手な己が憎い。
「五十年なんてお前らにとったら僅かな時間かもしれないけど、あのまま生きてたら俺はとっくに死んでるころだ。もう、辛いんだ。ここにいるのは。俺は海に帰りたいんだ」
環姫の訴えを静かに聞いていた主は、視線を合わせようとしない相手の瞳を見据えてふと口を開く。
「……揚羽。本気で言ってる?」
その声色が思いがけなく絶望の色を含んでいる気がして、揚羽は焦った。
「契約だろ? 約束したよな? 無理だったら解放してくれるって。自由をくれるって、言っただろ?」
「僕を好きにはなれなかった?」
「……そんなんじゃない。そんなんじゃないんだ」
「……そう。ふ、ふふ」
不二白は笑った。
おかしそうに、ひどくおもしろい話でも聞いたように。しかし、その目は決して笑ってはいないのだ。
「わかった。契約したのは僕だしね。……必要なものはすべて用意させるよ。なんでも言って。いつ出発する?」
「……そうだな。じゃあ、葉が全部散ったときに」
「そう」
言われて、外に目を向けた。
木々は赤く燃えるように染まり、どこまでもどこまでも夕日が照りつけたように広がっている。
出立の朝。揚羽はこれ以上ないくらい軽装で、無理やり着せられた外衣がなければあわや散歩と間違えられるほどだった。
まだ吐く息は白く曇ることはない。
長い時を過ごした屋敷の前で、揚羽は旅立つことばを見つけられないでいた。
「じゃ、じゃあ」
とぎこちなく言ったとき、不二白がその白い手を絡めてきた。
「……奇跡がね。起きたと思ったんだ。揚羽に会ったとき」
「……」
「僕にも、訪れるんだ、訪れたんだって、そう、思ったんだよ」
泣きたくない。
そう思った。
泣くなんて卑怯だ。俺にはそんなこと許されない。
環姫は、主から離れたらどうなるのかな。それでも環姫っていうんだろうか。
揚羽の頭に巡るのは、町で鬼ごっこをする姿でも、汗だくになりながら甲板掃除をする姿でもない。不二白に甘やかされて、浴槽で湯を掛け合って遊んだ、そんなたわいない日々だ。
「ごめんな。役立たずで。お前の子ども、産んでやりたかったよ。でも、しょうがないよな。奇跡なんてそんなにしょっちゅう起こるもんじゃないしさ。日が西から昇るようなもんだ」
「そうだね」
不二白は笑った。それは揚羽が今まで見た中で、一等奇麗な笑顔だった。
森を抜けようと歩く揚羽の腰で、絶え間なく響く音がある。
袋を開ける前から、カチカチと中で鳴っている。
やっぱり金貨じゃないか、と息を吐いた。
「これ、餞別だよ。持っていって」
「……金ならあるから要らないぞ」
「いいから。言うこと聞く」
「ん……」
そんなやり取りがあって、断れずに受け取ってしまった。
金は、海王からもらったもので十分足りる。自分の身代くらいは受け取ってやるつもりだった。銀貨や銅貨は家族に返そうと思って別に分けてある。
「あんまり大金を持ち歩くと危ねえんだって知らないんだろうな、坊ちゃんだから」
あまりに気が散るので、背負った荷のなかに入れてしまおうか、と考え、丁度良い切り株を見つけて腰を下ろした。
ったく、と口を尖らせながら、やや乱暴に袋を開ける。すると……。
「あっ……」
指に弾いて、中身が何個か零れてしまった。ころころと転がるものを見て、揚羽は喉を鳴らす。
「…………っ」
赤い赤い、鮮やかな色の球体。
紅玉だった。
同じものが、いくつもいくつも飛び出てくる。こんなにもたくさん、いかほどの血を抜けばつくれるのだろう。
「無理しやがって。あいつ……」
揚羽はついに嗚咽を漏らした。
海王が死んだと聞いて、悲しかった。でも、これほど身を切られる想いがするのは、隣に不二白がいないからだ。あの主のそばに、自分の居場所がないからだ。
環姫は主なくして生きられない、とはよく言ったもの。
揚羽だってほんとうはどこかでわかっていた。不二白が自分を抱くのは、別に毒を中和させるためではないことを。子どもを産む体を生き延びさせるために、大切にするのではないことを。
「馬鹿だ。馬鹿やろう」
さくさく、一歩をゆくごとに地面が鳴る。落ち葉が積もって、風にゆらゆら揺れる。揚羽は今さらながら気づいた。揚羽の海は、いつしかここにしか存在しなかったことを。
西の王子が無事生まれたことを知ったのは、それから間もない冬の朝のことだった。