いつだって真実は闇の中
酒場の窓は小さい。
それでも急に聞こえ始めた人々の声に、町の活気が高まっているのを感じる。
ぼんやりと擦り硝子の嵌め込まれたあたりに視線をさまよわせると、船長が残った酒を飲み干す音が耳に入った。
「外が騒がしいな。どうやら王太子の婚姻が成立したらしい」
「……婚姻?」
体が不自然に痙攣した。気づかれただろうか。恐々と正面を向くと、
「ん? そうだ。式はまだ先になるだろうがな。今日が顔合わせとかって聞いたぜ」
忌々しいほどの笑顔がそこにはあった。
揚羽は呆然と海王の話を聞き流していた。
「おい、どうした。大丈夫か? とと、もう終わりか」
ちっ、と舌打ちした視線の先を追うと、将軍が勘定を支払う姿が映った。途端、海王は身を乗り出して早口に耳打ちした。
「揚羽、もしお前が望むなら、いつか俺が身請けてやる」
突然提示された誘いに、揚羽は目を剥く。
「む、無理に決まってんだろ。もう蟲が入ってる。他の奴のものにはなれない」
「……いや、方法はある。主人替えなんてあまり知られてないがな。やってできないことはない」
「えっ」
そこまでだった。
将軍が優雅に腰を折る。「さあ、もうお帰りになる時刻ですよ」
柔らかい声で告げられて、伸ばされた手を取った。いつもなら、女扱いするな!と怒鳴るような行為だ。だが、揚羽はひとりでは立ち上がれなかった。
「揚羽、またな」
耳元で囁かれたことばも、揚羽には届いていない。
「身請けなんていらねーよ」
そんな台詞も、結局言えずに終わった。酒場の扉で振り返ると、揚羽の残した酒に手を伸ばして、乾杯、と空に掲げていた。向けられる瞳は、とても温かなもので、揚羽はこれでようやく船長を忘れられる、と思った。
人々の喧騒を掻き分け、馬車に乗り込む。
町はお祭りのような盛り上がりを見せていた。
そうか、婚約か。
相手は女だ。自分と違って完璧な……。
「お前が好きなんだ。男でも両性でも関係ない」
男でも関係ない、とあの男は言ってくれた。
じゃあ不二白は? ……不二白は……。
揚羽は笑った。
決まっている。あいつは後継者が要るんだ。ちゃらんぽらんな海王とは違うんだ。
男なんてただ喘ぐだけでなにも生み出さない。非生産的なことをなによりも嫌う主だ。はじめから見向きもされないに決まって……。
……それは、未熟な両性だって同じことだ。
「ははは……」
揚羽は笑った。
顔を合わせたときちゃんと笑えるように、口角の筋肉を動かす練習を屋敷に到着するまで休みなく続けていた。虚しい行為だということは、百も承知だった。
「遅かったね」
笑顔を貼りつけた主人は、まだ礼装のままで揚羽を迎え入れた。
「ああ、ちょっと、知り合いに会って」
「へえ?」
どうせばれるのだから先にこちらから言っておいたほうがいい。そんなふうに打算的に考えてしまう自分が嫌になる。
「俺、風呂に入っていいか? なんか汗臭いし、肉の匂いもするし」
「……行っといで」
「うん」
嘗め回されるような視線を感じる。苦しい。
揚羽が浴室に向かうのと入れ違いに、将軍が不二白に報告のため近づくのが見えた。あとのふたりは離れたところで直立している。
ふと思い直して、揚羽は外の廊下を通ることにした。
さわさわと揺れる葉が、小さく小さく、それでいて雄大な音色を奏でている。海もそうだった。ひとつひとつの波の音は微かだが、目まいがしそうなほど続く大海原全体から迫ってくる、あの躍動する旋律。
海が好きだった。一生、船の上で暮らそうと決心していた。
船長みたいになって、筋肉で盛り上がった太い腕で指揮を取り、あの精密な部品が詰まった羅針盤で航路を決める。そう、決めていたのに。
いつの間にか自分は森の中で女みたいにめそめそしている。そんな自分が厭わしいはずなのに、男になりたい、という望みもいつしか失くしている。
矛盾していた。
「風呂入ろ……」
熱い湯船に浸かって、そうだ、今日はそのまま寝てしまおう。
どうして不二白がこんなに早く帰ってきているのか、とか。
婚約者を置いてここにいてもいいのか、とか。
式はいつ挙げて、女はいつ子どもを産むんだろう、とか。
そういうことを考えなくてすむように、揚羽は急いで廊下を進んだ。
ほんとうは、不二白が入ってくるかと思ったのだ。
侍女たちから下半身を隠すための浴布も浴槽の縁に置き、準備万端とばかりに待っていたのだ。
なにしろもう夜も遅かったし、礼服のままいるのは窮屈に違いなかったから。
だから、揚羽はもう全身が茹で上がって煙が出そうになるくらい我慢して、いつまで経ってもがやがやと人が近づいてくる気配がないのに嘆息し、ようやく湯から上がった。
ほんの二口三口だったが、久しぶりに酒を飲んだせいもあって、夜着を体に巻きつけたときは宙に浮いているような気すらあったくらいだ。
「はあ……」
あまりに色々なことが起こって、錯乱している。
「あーあ」
真っ赤に染まった皮膚に、冷んやりとした夜気が心地よい。いつの間にか秋に入っていた。まだ緑が多いけれど、あと一月もすれば見事な紅葉が辺りを包むのだろう。
「ちくしょう。……もう寝てやる。寝てやるからな」
馬鹿やろう、と誰にともなく悪態を吐いて、西の環姫はすぐに規則正しい寝息を立てた。
待つ必要はなかった。
揚羽の主は、その夜もう一度宮に赴いて、そのまま帰ってこなかったのだから。
「あら不細工な顔」
言われて、揚羽はますます眉間の皺を深くした。
「なにしに来たんだよ」
延珠亭の店主が現れたのは、揚羽が売られてから50年の歳月を経てからのことだった。
王族といい、延珠亭の化け物といい、人とは異なる時間軸の持つ奴らの常識にはほとほとついていけない、と元人間である西の環姫はそうひとりごつ。
あれから何十回もの秋が巡り、揚羽は相変わらずの風呂好きだった。
結局、一度も王宮には連れていってもらえないまま、揚羽の主はいつの間にか西の国主となり、后も立てて、彼女は今や国が待ち望んだ懐妊中の身ときている。
「ちょっと報告にね。まあ、ついでにあんたの顔を見に」
「けっ」
森の中、草珊瑚が遠慮なく二杯目の紅茶に手をつけようとしている。
お互いに、なにも変わっていない。もちろん外見上だけのことだが、揚羽の髪はやはり艶々と光に反射していたし、草珊瑚の嫌味な目の下にも皺ひとつ刻まれていない。
「……なんだってんだ。早く言えよ。その用事ってやつを」
蒸らしの時間が待ちきれなくて、まだ薄い茶をさっさと注いで飲み干した。それを罪悪なものでも見るみたいに顔を歪ませ、店主はそばに控えていた召し使いから布の袋を受け取った。
「はい。確かに渡したからね」
「……なんだよ、これ」
どすん、と乱暴に置かれる袋。小さいけれどそこそこ重量がありそうだ。
「預かってきたの。もう必要なくなったから、渡してくれって頼まれたのよ」
そう言って、わざとらしく肩を擦る女を、揚羽は無視することにした。陶器の杯を置き、紐で縛られた口を開いて、絶句した。
「……な、ど、どういう意味だよ」
声が震える。
「……あんたを買い戻そうと何度か来たんだけどね。結局、西の国主さまは返品なさらなかったし、しかたないでしょう」
「…………」
カチリ、と高く硬い澄んだ音が手の中で響いた。
「海王っていったかしら。船長さんね。亡くなったわよ。遺言だって言ってお孫さんが持って来たの。まあ、なんというか、律儀なことよねえ」
揚羽はどうことばに表せば良いかわからなかった。
袋の中には、揚羽を売ったときの金だと思われる金貨が数枚と、少しずつ稼ぎを足していったのだろう、数え切れないほどの銀貨と銅貨が溢れんばかりに入っていた。