この子もらうよ
「俺はさ、船乗りになりたかったんだよな。だからこの庭が好きなんだ。風が吹いたら、なんだか波が押し寄せてくる感じがするだろ?」
少し頬を紅潮させながら、男は夢を語った。
「うん、海の中にいるみたいだよね」
「だろ?」
熱心に話を聴いてくれる子どもの存在に、よほど嬉しかったのか無邪気な笑みを惜しげもなく晒している。
不二白はそんな彼を眩しそうに見ていた。
「じゃあ、どうしてこんなところにいるの?」
「え?……いや……それは……」
船乗りになりたいと言った彼。別に王宮付きの艦隊に入りたいというのでもなければ、それほど手の届かない職業ではないはずだ。
健康そうではあるし、殊にその明るい性格は海の男にも好かれることだろう。
それが、なぜ、延珠亭などにいて身を売ろうとしているのか。
「そ、それは、だな。ちょっといろいろあって」
「いろいろって?」
「と、特に意味はないんだけどな」
「ふうん?」
見るからに慌てはじめる男に、不二白はすっと目を細めた。「じゃあ、どうして?」
追究をやめるつもりはなかった。
頑固に食い下がる白い子どもに、男は目玉を忙しなく動かしながら、
「わ、笑うなよ」
と耳まで真っ赤にさせて叫んだ。
「笑うな! 呆れるな! け、軽蔑するな……!」
なにが恥ずかしいのか、もう男はうつ伏せて不二白に顔を隠してしまっていた。
「……笑わないよ」
信用していないなんて心外だ、と怒ることもできないくらい、男の必死なようすに不二白はできるだけ誠意のこもった口調で返した。
「絶対に、嫌いになったりしない」
「う? うん……」
男の足のあいだに身を滑らせ、顔を見上げる。
不二白は、感情的な人間が嫌いだった。
あらゆることを大げさにまくし立て、騒ぐ連中を、冷めた目で見下ろすのが常だった。
だが、今、目の前でくるくると表情を変える男が、可愛く思えてしかたがない。
「ねえ?」
自分が他人にどう映っているのかも知っている。なるたけ優しげに、邪気のない瞳を向けた。
「う……、……だから」
案の定、男は重い口を開ける。
「なに?」
「だからな、俺は、そのう……こんなナリだけどな」
「うん」
「……ナ、なんだよ」
「えっ?」
「……っ、だ、だからっ」
不二白は黙った。
聞き逃すまい、と微かに耳に入る草の揺れる音すら遮断して、深い金茶色の目を捉えた。
「おっ、オンナなんだよ、俺は! だから船を降ろされたの! 縁起が悪いから!」
……女……?
思わず衝撃で呼吸を止めた不二白だったが、彼の動揺は長く続かなかった。
「ぶっ、ぶっ、無礼者おーーー! でっ殿下になんの真似じゃあああーーー!」
「あっ、あっ、揚羽ーーーーーー! はっ、早く殿下から離れなさい! また反省房に入れられたいの!?」
頭の痛い存在が、ものすごい形相でこちらに向かって来たからである。
「うわっ、やべえ!」
腰を浮かせかけた男は、もう先ほどまでの頼りない雰囲気をあらかた捨て去っていた。不二白は慌てて男の腰に抱きつく。
「えっ? な、なんだ、どうした……」
その力は、想像外に強い。
男をしっかりと拘束してから、不二白は早口に問うた。
「もう、蟲は入ってるの?」
「え? な、おま……なに言っ……」
「入ってるの? もう、主人は決まってるの?」
あまりの真剣な表情に、男はつい押し切られるかたちでうなずいた。
「あ? う……。そ、だな……。なんか、北に……」
ことばは、最後まで紡がれることはなかった。
「んっ!? んっ、んっ、んんんーーー」
唇を塞がれてしまった男は、信じられない面持ちで細い銀糸が風に舞うのを目の端に映していたが、やがて侵入してきた舌に翻弄されて瞼が落ちた。
「はっ、はあっ、お、お前、な、なにを……」
ごくりと喉が鳴った。飲んでしまったのだ。子どもから送られてきたものを。
不思議と嫌悪感はない。だが、それとこれとは話が違う。
「な、なんで……」
男の見ている前で、不二白はぺろりと唇を舐めた。
嬉しそうに笑う姿からは、もはや無垢な印象は一掃されている。
男は、揚羽はまだ気づいていなかった。彼が子猫だと思っていたのは、実は虎の子だったことを。
「申し訳ございません、殿下。この子はなにぶん礼儀というものを知らない……」
謝罪しかけた店主を、手で鷹揚に中断させ、不二白は微笑んだ。
「この人にする」
「そうなんですの、お許しいただければ幸い……えっ? い、今、なんとおっしゃいました?」
吹き付けてくる風が気持ち良い。潮の匂いはしないけれど、どこまでも続く緑の海原に隣の環姫はよく似合っていると思う。
もう蟲が入っているということは、ほぼ本決まりだったのだろう。自分は、すんでのところで間に合ったのだ。
幸運に感謝しつつ、面食らっている草珊瑚にもう一度しっかりと顔を向ける。
「この子に決めた。もらうよ」
「え?」
ビシリ、と空気が凍りついたようではあった。しかし、
「早く手続きして」
不二白が短く言い捨てると、さすがに延珠亭店主、すぐに気を持ち直して、
「はっ? は、は、はいっ!!」
足早に、駆けて行った。
女の後ろ姿が小さくなるのをぼんやりと確かめたのち、白髭の老大臣はようやく我に返ったようだった。
「で、殿下! い、いえ、殿下のご趣味に口出しするような、そんな! 無礼は! したくはないのですが……。こ、この方は男ではございませぬか。よもやお忘れとは思いませぬが、殿下には女子を抱いて、子をなしてもらわねばならぬのです! そ、そりゃあ、お可愛らしい殿下が、このような者に憧れを抱かれるのは、わかります。ええ! わかりますとも! しかも、とてもお似合いだとも、実は、思っておりますとも! で、ですが、ですがあああーー」
「……」
揚羽は魂が抜けたようになって老人の長口上を耳から耳へ流していた。
西の王太子はうんざりと、呆れきった視線でわざとらしく目頭を押さえる家臣を見やった。
「爺、なにを勘違いしているのが知らないけれど、もちろん、僕が、彼女を抱くんだよ」
「そうでしょうとも、爺にはすっかりお見通し……は? なんと?」
ちりり、と頭に火種が点る予感がして、不二白は傍らの「女」の腰を更に強く抱きこんだ。温かい肌に、少し落ち着きを取り戻す己を感じる。
「あの……いやはや爺ももう年ですなあ、すっかり耳が遠くなって……」
「女だよ」
「……はあ……」
「この子、女だよ」
「は……はあっ!?」
今度こそ、老人は髭を梳く手も忘れ、固まってしまった。