枯れたる海に置く霜の
揚羽が目覚めたとき、手を滑るのは柔らかで光沢のある肌触りの良い毛布……とはいかなかった。
「くしゅっ」
悪寒がして、自分のくしゃみで起きてしまったのだ。
あれ? ここ……どこ……。
記憶がすぐに戻らない。
腹が痛くなって、森に入って……、
「ふっ」
不二白!と叫ぶ前に、髪を撫でられた。
「起きたね? 揚羽」
頬と頬がくっついてしまいそうな近距離に、不二白の顔がある。幹にもたれながら抱きかかえられていたらしい。
「寒い? ごめんね。まだ迎えが来ないんだ。もう少し我慢できる?」
「う……うん……」
夢じゃなかった。
恐々と、頬をすり寄せてみる。温かい。
幻じゃない。
「どうしたの? なんだか甘えてる」
くすくすと笑う主は、少年と青年の中間にいるような危うい美しさを感じさせる。
毎日会いたいと思っていた人物が、これほど近くに起きがけに目の前に現れて、もうどうすればよいのかわからない。
「いや……ひ、久しぶり」
「うん」
照れているのか、揚羽の顔は茹で上がったみたいになっている。さっきまで寒そうにしていたのに、今やとうとう肩までかけていた不二白の外套から逃げ出すように身をよじっていた。
「だめだよ、風邪をひく」
「え? ああ……」
落ち着いた物言いに、揚羽の心臓は早鐘を打ち鳴らしはじめた。初めて会ったときは、奇麗な子どもとしか思わなかった。こんな感情を抱くようになるなんて想像もできなかった。
「あ、不二白……」
「うん?」
伝えなきゃ、いけないことが、ある。
後回しにすれば難しくなっていくだけだ。今、今なら、今なら言えるかも……。
「不二白、あのな、俺……」
言いかけて、ちりっ、と下腹部が痛んだ。
……あれ?
そう、腹が痛くなって、森に入って、不二白が来て。そして気絶して、起きて。
……あれ?
なにか、忘れているような。
「俺……お前に、まだ言ってなかったことが……」
あ、る、のに。
枝がしなって、葉が降ってくる。突風に、目を瞑った。背中に回される腕。温かい。幸せ。幸せ。
「あっ! ああああああーーーーー!」
思い出した。
「虎……」
そう、虎を産んだのだ。
子を産んでやりたいとは言ったが、まさか人の子の姿をしてないとは思わなかった。しかも、どうして今さら。何十年腹の中にいたのか。
人なら十月十日、神であれ獣であれ、同じとはいかずともせめて元人間の常識に引っかかる程度の生態系を保ってほしいものだ。
悠久の歴史の中、虎の子を見て発狂する后がいなかったわけではない。人の精神は脆い。覚悟なんて、実際目の前に理解の範疇を超えるものに遭遇したときあっけなく崩れ去る。
だが、揚羽は嬉しかった。呼吸をする生物が己から生まれ出でたことに歓喜で震えた。主との証しだ。どんなに望んでも、手に入らないと諦めていた、希望だった。
「こっ、こどもっ! 俺の、子どもは?」
どこだ?と目を血走らせると、そこは秋深き森の中央。木と枯葉と草と土が延々広がっているだけだ。
「あああっ、お、俺……どうしよう、あんなに小さかったのに! 不二白! どこ? 俺の……俺たちの……」
気が動転して舌も回らなくなってきたようで、揚羽は涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら主に詰問した。
こんなに寒い中、もし、万が一、なにかあったら……、
「どうしよう……」
不二白が、あんなに待ち望んでいた子どもなのに。
「ふ、不二白っ」
しかし主は、まったく動じているようすがなかった。相変わらず愛しい環姫の髪をほっそりとした手で梳きながら、安らかに微笑んでいる。
「大丈夫」
「……ほ、ほんと……?」
「うん」
笑みを絶やさぬまま、不二白はのんびりと近くの地面に視線を流した。
「その辺に転がして、枯葉を積んでおいたから凍死することはないんじゃないかな」
ひくり。
揚羽はしゃくりあげるのを一時、放棄した。
「……いま、なんて……?」
なっ、なっ、なんて奴!
思いつく限りの悪口雑言を胸中で煮詰め、四つん這いになりながら必死に虎の子を探している環姫がひとり。
西の国主は手伝おうという気すらないのか、変わらず幹に背を預け、狂ったように動き回る環姫の姿を嬉しそうに眺めていた。
「な、なに見てんだよ。お、お前、お前も手伝え!」
思わず叫ぶと、
「いやあ。そんなに僕の子を気にかけてくれるなんて嬉しいなあと思って」
「は……」
思わず脱力しかけたが、慌てて力を入れ直す。そう、そうだ、こいつはこんな奴だった。舌打ちするのをぐっと我慢して、場所を変えて探そうとすると、
「ああ、あんまり動くと危ないよ。踏み潰すかも」
言われて、文字通り固まってしまう。
赤と黄色と茶色の葉は、掻いても掻いても目当てのものが見つからない。しかも風と一緒にくるくる回るものだから、いったいどこを探したのかわけがわからなくなってくる。
それに乱暴に手を動かして、万一傷つけたら大変だ。加わって、もう揚羽はこの両手を地に置くことすらできなくなっていた。膝もすでに一寸たりとも動かせない。
「ど、どうしたら……」
半泣きになりそうな顔で不二白を振り返ると、実に優雅な動作で歩いてくる。目を剥いたのは揚羽だ。
「だっ、駄目だ、ふ、踏むっ! 踏むぞっ!」
「平気だよ、案外丈夫だから」
「そんな問題じゃないっ!」
と、環姫がここまで喚いたところで、大地が揺れる。
馬の嘶き、蹄の音、人の気配、金属が擦れる音、がらがらと車輪も回っている。
「来たか」
迎えがようやく到着したようだった。
西の王宮から参上した者、百名を超える。いったいなんの祭りか、と呆れるほどの大行列だ。
陣頭を取るのは白髭の大臣、まず、上品に腰を折ろうとして失敗に終わった。
近年稀に見る上質の糸で織らせた国主の衣は泥だらけになっており、それにはどうにか耐えた。そばに同じくらい小汚い格好をした、行方不明の環姫が地面に蹲るように硬直して座っているのを見た。これにも仰天したが年の功でどうにか流した。
しかし、事の真相を聞いたとき、あわや倒れそうになってしまった。もちろんそれにも、
「た、倒れるなっ! 潰されるっ」
とか言う、環姫からのありがたい忠告に従ってどうにか堪えることができた。
「ふ、ふはは」
血相を変えて全員を指一本動かさぬよう命令したのち、汗だくになってようやくふたつの輝く生命体を目にしたとき、疲れた笑いが自慢の髭を揺らした。腹の底から湧き上がってくるものは、老人がついぞ得ることのなかった不思議な感情だった。
確かに、己の主が選んだ者は歴史に名を残すほど例外だらけの環姫だ。
これと同じ時代を生きたことを、大頼にとって僥倖に恵まれたと解すのは、恐らく正しいのだろう。