何度でも言ってやる
思い出す。不二白のこと、海王のこと、あの護衛をしてくれた将軍のこと、そうそう、白髭の爺さんもいたっけな。
揚羽が屋敷を去る数日前、実は聞いてしまったのだ、大頼の漏らしたことばを。
「あやつもナリは男なのだから、体力があると思って期待していたが……孕まなければ話にもならんな」
体に走った衝撃を、なにに例えればよいのだろう。頭からすうっと冷えていって、足の親指の先まで血液が凍結したみたいな、あの感覚を。
「…………」
そんな理由だったか。
自分が曲がりなりにも認められたのは、そんな理由からだったか、と絶望したのだ。
確かに、揚羽は子をなすことはできなかった。
僅かながらあった月のものも、いつしか途絶えて長い。
こんな自分は、果たしてまだ女だと言えるのか。それでいて、久しく男として欲情することもなかった。
俺は何者だ、俺は……。
「はあ、はあ……」
全身が汗でぐっしょりと濡れ、痙攣も始まったようだった。
「く……くそっ」
あまりの激痛に、ふと首にかけた紅玉を思い出す。元気になるから、痛みが消えるから、と最低一日に一度は舐めるよう注意書きが入っていた。
たわいない小さな紙を、未だ捨てられずに持っていると知ったらあの主はどんな顔をするだろう。長い歳月で、変色し手垢でまみれいつしか字などほとんど読めなくなっていたけれど、揚羽は寂しいときいつも手に取って眺めていたのだ。
揚羽の持つ宝物といったら、不二白がくれたこれらぐらいしかなかった。
「……んっ」
震える舌先を近づけて、舐めてみた。
フッと楽になった気がして、今度は夢中になって口に含み、舌で転がす。
少しずつ痛みが引いていき、ほっと一息ついたときだった。油断した揚羽をあざ笑うかのように、試練は終わらない。
女の蕾に剣を突き刺されたような、激痛。
「がっ……」
気がつけば、股のあいだからおびただしい血の混じった液体が流れ出ており、口からぽたりぽたりと血がしたたっていた。
「?」
朦朧とした意識の中でも、唇や口内に痛みの元がないのを不思議に思った。実はあまりの衝撃に思わず紅玉を噛み砕いてしまっていたのだ。それは甘い甘い血の玉だったから。
「な……んで……」
掠れた声が、森の中に吸い込まれていく。荒い息を何度か繰り返したのちに、
「揚羽」
揚羽の金の主が姿を現したのだった。
白い閃光が木々の奥で見えたかと思ったら、辺りが霧がかったようにぼやけてきて、大きな白い獣がゆったりとした動作で歩いてくるのがわかった。
「…………」
驚きに時を止めてしまった愛しい環姫に、不二白はにこりと笑いかけた。
いつの間にか人型に戻っている。
「久しぶりの再会だっていうのに、名も返してくれないの? 揚羽」
そのことばにひゅうっと喉を鳴らして、咳き込んだ。下半身からはなおも気が狂うほどの痛みが鈍く伝わっており、肺も焼けつくように熱い。
もしこの聖なる存在が、天に旅立つ死者の元へ使わされた案内だとすれば、揚羽は身を投げ打って縋ってしまいそうだった。早く楽になりたい、と情けなくも弱音に支配されていたのだ。少なくとも、先ほどまでは。
わかってしまったのだ。
揚羽は、気づいてしまった。
子どものころ胸をときめかせて聞いた英雄譚、冒険物語、そんなわくわくする気持ちが生まれてくる。手に汗を握って。笑って。泣いて。怒って。眠りたくなくて。布団の中で通行人の足音ばかりが気になって。
そう言えば、まだ伝えていなかった。
不二白に、ただひとりの主に、もう数え切れないくらい唱えたことばを。まだ。
なぜ伝えなかったのだろう。まだ資格があるならば、今ならいくらでも。いつまででも。
咳が途絶えたとき、揚羽はようやくもう一度目線を上げて、
「フ……ジ……シ、ロ。な、なんで……」
主を呼んだ。
不二白は嬉しそうに笑い、足取りも軽く揚羽に近づきしゃがみ込んだ。
「ああ、辛かったろうね。よくがんばったね。あと少しの辛抱だから一緒にがんばろう」
そう言って、揚羽の下衣を躊躇うことなく脱がして後ろの茂みに投げ捨てた。更に、両膝に手を入れて大きく股を開くように押し上げる。
「あっ」
揚羽には羞恥よりも痛覚が勝った。体勢が変わることによって、痛みが本格的に下腹部から女性器へと移動したようだった。
「揚羽を苦しめるものがお腹にいたんだよ。早く出さなきゃいけない。がんばって……出して……できるよね?」
「で、できない……。だ、だって、どうすれば、いいのか……わか……」
揚羽は寄せては引く波のような痛みに、もう耐えられそうもなかった。
その手が今必死に不二白の衣をたぐり寄せていることにも自覚があるのかどうか。
主が現れた瞬間、全身を以って甘えていることに、この意地っ張りな環姫は恐らく気がついていないのだ。不二白は絹で織り上げた礼服が泥や血や汗で汚れていくのになんの感慨も抱かなかった。
ただ、目の前の存在が愛しくて愛しくてたまらない。
まだ立って比べてはいないが、不二白の背は揚羽に追いついているはずで、環姫は老いは止められても退行はしないはずなのに、主にとって久しぶりに会う姫は記憶の中よりもずっと幼く映った。
「あ……うう」
よほど苦しいのか、体が前後左右に絶えず揺れている。首元を触っただけで心臓の音が直に聞こえてくるようだった。
「ああ……」
また、揚羽が切なげにうなる。代われるものなら代わってやりたい。
涙が頬を伝う。それをゆっくりと舌で舐め取ってやりながら、不二白はそっと苦痛に歪む環姫に口づけた。
「んっ」
口内を蹂躙する舌は、一定の規則性をもって動き出す。
「吸って」
「ん……」
「吐いて」
「はっ……」
知らず知らず呼吸が整えられていくものの、意識はより遠くなっていくのを感じていた。
ああ、不二白の睫毛がきれいだ。と、揚羽は思った。
目も、鼻も、口も、髪も、肌も、体も、なにもかも全部きれいだ。
奇跡なんて、しょっちゅう起こるもんじゃない、とはよくぞ言えたもの。
この主に出会ってからは、そのそばに在るだけでほんとうは奇跡の連続だった。
「に……しから……」
西から、日など昇らない、だって?
いや、そんなもの、とっくに……。なぜなら、なぜなら……。
揚羽は精を吐き出すように、なにか光り輝く力のようなものを放出した。
「あ……あ……あ……」
ぼんやりと霞む視界の中で、揚羽の瞳は小さな生物の固まりを捉えていた。
「とら……」
「そう。双子だよ……。ふふ……可愛いね」
不二白の微笑む先、小さな桃色の物体がひくひく鼻を動かしていた。血で汚れているからなのか、まだ毛が生えていないからなのか、先ほどの不二白の姿と重ねることは難しかった。
「さすがに双子だと小さいね。……大人しいし。揚羽が食べられなくてよかった」
そんなことばを、最後まで聞くことはできなかった。
理性は本能に下る。伝わる温もりに、判断される。もう、安全だ。揚羽は幸せに頬を緩ませながら、意識をわずかな憂いもなく手放した。