30.絶望した少女.
キャロは、屋敷からそう遠くない森の中にいた。奇しくもライガーがはじめて目を覚ました場所と同じだった。
「嗚呼、キャロライン。ついに貴様を食らう日がきたな。食べごろに育ったではないか」
「……」
うっとりとした声を出す、ブラックドラゴンに対して、キャロはなにも言わない。
おそれ以上に、黒龍を喜ばせたくない気持ちが優っていた。
家族を痛めつけられた少女が唯一できる抵抗だった。
「ほう。泣き言も、恨み言も、なしか」
だというのにドラゴンは楽しそうな声音を崩そうとしない。
「貴様の父親は懸命に争い、食われた。貴様の祖母は、泣きながら息子への愛を語ったのだが――」
「……ッ」
冷静になれ、とキャロは自分自身に必死に言い聞かせ、今にも怒鳴り散らしたい感情を制御する。
顔を知らぬ父と祖母の最期を聞かされ、天真爛漫な少女であっても怒りが津波のように押し寄せてくるのを止められない。だが、ここで感情をあらわにしたら、黒龍を喜ばせてしまうだけだ。
「キャロライン、なにか言いたいことはないのか?」
「あります。ですが、あなたに聴かせるものではありませんの」
「……つまらん。まあ、いい。では、さっそく我が飢えを満たしてもらおうではないか」
「その前に」
「なんだ? 命乞いでもするのか?」
「命乞いはしませんの。しかし、確認をさせてください。わたくしを食べたあと、この領地から本当に去ってくれると」
「無論、約束は守ろう。我が誇りに誓って」
キャロは安堵する。
理不尽に家族と引き離され、生贄になることを受け入れたのは、ひとえに自分の犠牲で領地が守られるからだ。
「ありがとうございますの」
「我が誇りに誓って、キャロラインを喰らい、この地に住まう人間どもをすべてくらい尽くそう」
「――な」
「食料がなければ、もう用はない。約束通り、この地を去ろうではないか」
「そんな!」
目を見開き、黒龍の言葉を信じられないとばかりに叫んだ少女に、ドラゴンが牙の並んだ口を釣りあげた。
「そ、それでは約束が違いますの!」
「実にかわいらしいことを言うではないか、キャロライン。貴様との約束は、貴様を食らうまで我慢をすることではないか。たしかにこの領地から出ていくと言ったが、我が約束したのはそれだけだ」
体が震える。悠然と佇み、こちらを見下ろす黒龍のことを誤解していたとキャロは自分の過ちを自覚した。
「あなたは、領民を襲わないと言ったではないですの!」
「言った。だが、それは貴様を食らうまでの間だ。かってに都合のいいように解釈していたのは、貴様だ。キャロラインよ」
涙が溢れる。それではなんのために、こうしてひとり生贄になる覚悟をしたのかわからないではないか。
どうせ食われることが決まっているのなら、逃げ出せばよかった。
「我が、貴様のような人間ごときと約束を守っただけでも感謝してもらいたい。だが、疑問がある。なぜ、そうまでして無関係な人間の命を守ろうとする? 我は知っているぞ。貴様は呪われし子と呼ばれ、領民から疎まれているではないか」
「……それは」
「そんな人間をなぜ守ろうとする? 家族ならいざ知らず、貴様はその人間たちのことをよく知っているわけでもあるまい?」
黒竜は、わざとではなく、本当に疑問に思ったことをぶつけているに過ぎない。しかし、その問いかけが、キャロの心を折りかけているとは思っていないようだ。
「教えよ、キャロライン。なぜ貴様は、そうまでして赤の他人を守ろうとする?」
「……それは」
答えなどなかった。
キャロにとって生まれた瞬間から生贄として人生を終えることが決まっていた。
父がそうであったように、自分もまた先祖と同じように食われ死んでいくのだと幼いながらに覚悟した。いや、諦めてしまったと言うべきなのかもしれない。
それでも、自分の命が誰かを助けられるなら、たとえ自分を忌み嫌う人たちであっても、助けることができれば、その人たちの記憶にキャロライン・グリンフィールドという人間がいたことを覚えていてもらえるかもしれない。そう子供ながらに考えたのだ。
だが、それは逃げでしかない。
少女には、生まれながらに選択肢がなかった。
幼いゆえに戦えず、諦めたゆえに逃げ出すこともできない。
そんなキャロを支えたのは、父をはじめとした先祖たちのように、この身を犠牲にして領地と領民を守ること。
そんな高潔な想いを抱いたのは、ひとえに亡き父たちがそうであったと聞いたから。
実際は、そんなことを考える余裕などキャロにはなかったのだ。物心ついた時から心が折れていた少女は、父の意思を継いでいると思わなければ日常を過ごすことができなかったのだ。
「……わかりません」
ゆえに、ドラゴンの問いかけに対する答えを持ち合わせていない。
キャロはただ、自分の心を守るため、高潔な自己犠牲を掲げていたに過ぎない。だが、誰が少女を責められようか。
しかし、黒竜は、
「つまらん」
としか感じなかった。
「気丈に振る舞っていると感心していたが、所詮は子供か。時間を無駄にした」
「お願いです。どうか、どうか、領民の方々を、見逃してください」
地面に膝をつき、額を土につけて懇願する。
心が折れてしまった少女にできることは、黒竜に乞うことしかできない。
「ならぬ」
だが、少女の願いを、黒竜は一蹴した。検討する価値がないとばかりに即答だった。
「なぜ愚かな人間を、食料でしかない人間に、我が仏心を出す必要がある? この国は、愚かにも我を討伐しようとした。貴様の先祖も、もとをたどれば国の命令で我を打とうとしたのだぞ。そのような国を許せるはずがない。安心しろ、キャロライン。お前だけは楽に食らってやる。苦しみなど与えないと約束してやろう。ただし、この国の、民も、貴族も、王族も、すべて食い散らかしてやる」
「……そんな。それでは、わたくしは、なんのために」
絶望に襲われたキャロは、嗚咽をこぼすことなく、ただ呆然と涙を流す。
「そうだ、その姿が見たかったのだ、キャロライン。矮小な人間が分不相応に竜に挑むから、子孫まで祟られるのだ。さあ、飢えを満たそうではないか!」
「だれか」
「……なんだ?」
「だれか、たすけて」
「く、は、ふっ、はっ、はははははははははははっ」
少女の声に、黒竜は嗤う。
心底面白いと言わんばかりに、嘲笑する。
「愚かな。愚かだな、キャロライン。誰が貴様を救えるというのだ。守ろうとしていた領民から忌み嫌われ、国でさえ、我を討伐できない。そのような哀れな、貴様を、誰が救うと言うのだ!」
「俺だ」
竜の笑い声が木霊する中、はっきりとした声が聞こえた。




