愛と確信
たとえば、より良い新たな世界を
日々、神様に、渡されているとする。
けれども、わたしもそうなのだが
人の目は暗いので
より良いものだとは分からない。
また、そういう時が幾度もある。
その為
まだ知らぬもの
触らぬもの
聴いたことがないもの
見たことがないものが
身に迫って、押し寄せてくると
ひどく、恐ろしく感じてしまう。
このように
不安や緊張や怖れの連鎖というものは
発生しているように思える。
しかも、嫌な体験やトラウマなどがあれば
なおさら、その恐怖の監獄から
抜け出せられないような感覚にさえ陥る。
そこで、わたしが思うのは
性善説的であり、かなり楽観的なのだが
神様はそんな意地悪な御方ではないということを知る必要性があると、思う。
そういった不安や緊張や恐れというものは、一過性のものであり、幻想に過ぎないこと。
たとえば、自分自身を最も愛してくれる誰かや何かが、いるとして、神様は、その誰かや何かよりも、正しく深く愛して下さっていると、思って相違ないと、わたしは思う。
神様は、わたしたちの親であり、愛の御方であると、認識し、安心し、確信に到ることが必要になってくると思う。
神様が愛の手を引いていないから、わたしたちは、この瞬間も、生きていられて、存在できて、地球はぐるぐると、回っている。
少なくとも、わたしは、そのように総合の神様のある一面を捉えている。
人間だから、恐れてしまうことは、仕方がないのだが、毎度毎度、恐れて、恐れて、恐れっぱなしになってくると、これまた、話しが違ってくるように感じる。
かなり骨折りであるし、大変苦労の多い、気苦労の多い、生き方だ。 「信じる者は、救われる」と言われている。
いきなり、信じてみよ。と言ってしまうことは、とても乱暴なことかも知れない。
だが、人間というものは、慣れていき、順応し、変化していける生き物であると、わたしは、思う。
良い意味で、怖れてしまう、恐がってしまう自分自身に、慣れていく必要がある。
自分自身を受け入れるところから、はじめる。自分自身をゆるす。
そういった営みが、過去に、無ければ、現代のような文化や文明というものは、ここまで発展しなかっただろう。
蛇は脱皮すると、大きくなるが、、 人間も心の皮を何回も破り、脱皮していく必要があると、わたしは、思う。
人生をかけて、幾度も、脱皮して
成長していく。
恐ろしい、苦しい、寂しい、
と感じるときは
成長痛であると、
捉えてみては、いかがであろうか。
何事も、ゆっくりで、いいのだ。
ゆっくり、この地球に廻されて、行こうではないか。
急いては事を仕損じる。
急がば回れとは、
そういうことなのかも知れない。
結局、一周でも、何周でも回ってみなければ、よく分からないし、全体像も掴めないし、確信にまで、到らないのだから。
確信までの道のりとは
すなわち、愛への到達でもあろう。
愛と確信は等しい。
だから、だんだん、信じる者になっていけば、良いと、わたしは思う。
やっぱり、愛というものは、気長なものであり、あきれるほど、時間がかかり、
いつかは時間を忘れてしまう、
ものなのかも知れない。
きっと
愛には時間がない。
愛は時間に、支配されていない。