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あるミュージシャンの日記{変容の時代}

作者: 縞 虎ノ介

日記タイトル:アナログ派とデジタル派。2008年10月18日17:02                                                                                                 『なんば屋』{西成、あいりん地区}のライブを

コーディネイトしてくれている友人は、

パソコン、インターネットはやらない。


彼が昨日、電話をくれて

『いつ大阪に入るんや?

 こっちもチラシとか作ってやってるし

 

 お客は労働者ばっかりやけどナ、、』


 彼の、ちょっと客層のミスマッチ感を気づかう口調に、

『ありがとう、

 やっぱり、ゲットーでやっとかんと、あかんやろ

  レゲエやし、、』と、

オイラは、やる気をアピールして

返事した。                              


漫画『じゃりんこチエ』の父=テツ=のような

キャラクターのその友人の普段のオーディオは

カセット・テープレコーダーが主流だ。


デジタル全盛の時代に、なんともアナログな男である。


クラッシックが趣味で楽古窯のファンである

大学教授の知人が、

オイラとアキちゃんを彼の自宅の食事会に招待してくれた時だが

彼の普段のオーディオはアナログ・レコードと

オープンリールのテープレコーダーだった。


音源集の中には、市販されている8ミリのオープンリール用の

クラッシックのアルバムが有り、

さっそく、それを再生してもらった。


アナログ・レコードからデジタルのCDに移って行く時に

その音質について、マニアの間ではかなり論議されたが、


オープンリールで再生された、チェロやバイオリンの

生楽器の臨場感は、アナログ・レコードさえも

はるかに、上回っていた。


そんな大学教授の彼も帰り際に

携帯電話のメアド交換の時に、

アドレスの打ち込みに、かなり手こずってられた。


デジタルがいいとか、アナログがいいとか

そんな論議には、あまり関心がないが、

{アナログがいいに決まっているから、論議にならないし

 そこにデジタルの環境が有り、それが便利で楽しければ

 それを使用するのは、あたりまえで、

   これも論議にならない、、}


ただ、デジタルのルーツは明らかにアナログであり


このアナログの良さを

多感な青春時代に、洗礼を受けたゼネレーションが


絶滅の危機にさらされるまえに、、、


何ができるのか?


何を伝承できるのか?


それは誰にかかっているのか?


 {今夜、布団の中でじっくり考えてみよう、、}



   2008年10月22日 16:24

じっくり考えても、なんらアイデアは出ない。


ただ、アナログ世代とデジタル世代と言うのは

単に、音の問題だけではとどまらない考察には至った。。


例えば、食べ物。。


アナログ世代のオイラが子供の時に食した、

魚、野菜、果物などの庶民的な食材は、

今思えば、本当に安くて美味しかった。


下町の商店街育ちのオイラは、

近所の八百屋さんや文房具屋さんのおカミさんに、

手招きされては、頻繁に他所の家で

晩御飯を食べていたものだ。


この世代の母親は、自分の子供とか他所の子供とか

あまり区別なく、愛情をそそげたのだろう。


二十一世紀の現在、デジタル社会、グローバル社会の

恩恵を受けながらも、確実に失われつつある、

アナログ的ハート、創造、慈悲。


現在の社会に起こっている、

考えられないような事件は、

そのルーツに現存する宝{アナログ的良さ}の

その欠如、その忘却に他ならない!


と思っているのは、オイラだけだろうか?


   2008年10月22日 22:31

これからの数年は、個人的洞察においても、

科学的データ、あるいは秘教的あらゆる予言が、

示しているが、、


たいへんな混沌と変容の時期に入っていくのは、

疑う余地はない。


この時代をサバイバルして行くオイラの

個人的指針は、、


多数派情報に依存して生きるのは危険であり

自分の本来的な知、直感、にこだわることだ。


これは、色々なリスクも伴うだろうが、

{例えば、安易に組織、団体に関われなくなり

 それによって得られていた利益は消滅し

 一種の孤立した状態に成るカモ}


この混沌の時代を生き抜くには、

個人が内側に見出す宝{情報による知識ではなく、

個人が体験で得た知、人に認められる為ではない

自分の喜びに対する純粋な創造、慈悲、反逆の魂}に

よって可能になるのでは、、、


多数派情報に依存して生きる人々は、


幾多のバカげた組織、{政治、宗教派}などを


支持してきた。


それは、歴史が示しているが、


数多くの、戦争、侵略、差別、等を


同時に支持して来たのだ。


これからの時代、


多数派情報は役に立たない


個人の内側の宝を見出す以外は。。


  2008年10月23日 16:22

もう、アナログ派とデジタル派と言うテーマで始まった

オイラの考察の流れは、違う流脈に移行してしまっている。


そもそも、思考などと言うものは

そんなもので、なんの役にも立たない糞である。


だが、その思考するのが人間でもあり、

『人間は考える葦である』

なんて説いた哲学者もいたものだ。


そこに思考が在るのであれば

好きなだけ思考することの何が悪い!


多数派情報に依存しないで、

個々人の内側の声に従って生きる。


確かに、これは多くの多数派の人にとっては

許しがたい生き方であり、

周囲からは、変わり者として出世や利益には

つながらない可能性が大で、

一人孤立するリスクはあるが


いいではないか、

人は一人で生まれ一人で死んでいく、

この不変の現象のなかで、


妥協して、多数派に合わせて大勢の人に

尊敬されたところで、自我は大いに満たされても、

本人の、内側の乾きが満たされる訳では無く、

いつも他人の評価を気にしながら、

内面はビクビク多数派意見の奴隷の如く生きるより、


個人の一人あることの透明さ、

                                その無垢な創造の報酬である、

無心感、充実感から生まれる喜び、


何より、自分自身を偽らなかった、

真性なる人生のいさぎよさ、誇り、、


このような宝を一人ある個人は

その可能性として受胎しているのだ。。


平均寿命が延びたとはいえ、

オイラを含めたアナログ世代は、本来的にはもう晩年である。


実際、同年代がパタパタと他界している現状で


もう迷ったり、見過ごしたり、


他の誰か{偉大な指導者とか聖者}に責任を転換したり


している時では無い。


吠えるんだぁーーー!!。


それが正しかろうが、間違っていようが、


その責任は他の誰でもない自分にあることを

全面的に受け入れて。。


たとえそれが間違っていたとしても、


自分自身の真の表現であれば、

そこから何かを学べる。。。


たとえ、それが正しかったとしても、


他の偉大な誰かの借り物であれば、

そこからは、なにも学べない。。。

                


                               

  2008年10月24日 16:59


ところで、この『内側の声』とは、いったいどんな声なのか?

それは誰の声なのか?


これは、その道の探求者の間で=ガイド=と呼ばれているもので、

この、 内なる=ガイド=を自分のなかに

発見、見出し、それと共に歩むことが、

彼のワークの全てだと言っても過言ではない。


そこで、ひとつの疑問が生まれるが、

真の内なる声と多数派情報に慣れ親しんだ{刷り込まれた}思い。


この違いを、どのようにして識別できるのか?


これを知るには、まずどんな思い、

どんな声であれ、それが消えずに

自分の声、思い、として残り続けるようであれば

それを、外側の世界で表現したり、

現実に行動してみることだ。


ゆえに、この道を探求する者に、まず試されるのは、

思いを実際に行動に移す


勇気とガッツなのだ。


内なる声や思いを実践していく者には

色々なことが起こり続け、

一定の洞察を得る。


最初のうちは、内なるガイドと

自分の慣れ親しんだ習慣的思いのギャップに

自分の置かれている状況{住んでいる場所、仕事、人}に

理論的理由を見つけ出せなくなる。


自分が何故ここに居るのか?


何故、このような仕事や創造をしているのか?


なんのためにこの人と暮らしているのか?


このように自分の習慣的思い、教え込まれた道徳、心構え、

などは、グラグラになり、


そんな思いとか、教育的思想などを越えた

いわば、無為自然な在り方、

自然な秩序が、ムクムクと

その存在をあらわにして、姿を現してくる。


=出かける時間だ!=つづく=


   2008年10月25日 15:57

 >いわば、無為自然な在り方、

>自然な秩序が、ムクムクと

>その存在をあらわにして、姿を現してくる。


この時に、最初の一瞥が訪れる。


この一瞥は、ある意味最後の一瞥とも言える。


過去の自分に終焉を告げる一瞥だ


家族、教師、友人などの声に刷り込まれた、

偽りの自分に別れをつげる一瞥でもある。


この最初の一瞥は

自分は何処の誰でもなく、

この全存在の一部であり、


苦もなく自我もなく、至福に満ち、


生まれもって備わっている、喜び。


見るもの、触るもの全てに対する敬愛。


子宮の中にいる胎児のリラックスゼーション。


全存在が我が家であり、そこにくつろいでいる。


このような一瞥を垣間見た者は、

過去の自分は死に絶え、

変容した新人類に向かう旅に、

出航することになる。


もちろん、これは一瞥であり、

この境地が定着する訳ではない。


慣れ親しんだ過去は、頑固であり執着し

なかなか、しぶといものである。


内なるガイドに従いながらも、

幾度も古い習性的思考、多数派的価値観が

ガイドを曇らせて、

古いパターンの自分に至ってしまうこともあるが、


この一瞥を垣間見た者は、、


それのバカバカしさ、深刻さ、退屈さなどに

気づかずにはいられず、


安定した保証された生活にもかかわらず、

その古いパターンから脱出をはかり、


再び、明確な理論的理由の無い

ガイドの声に従った生を生きていくのだ。


この道を歩く者には、

ほどなくすると、ある洞察が起こる。


古い自分のパターンから

表現や行動を起こす場合は

体と心に変調があらわれる。


肩のあたりに、しめつけられるようなテンションを覚えたり、

体全体が硬くなったように感じられたり


気持ちが、表現や行動の結果を、短時間で求めたり、

イライラしたりする。


真の内なる声から

表現や行動を起こす時は

体に特にテンションは感じず、


嗚呼、これだ!って言う、

疑う余地の無い、スッキリ感があり、

そのことの、結果などより、

表現や行動をしている、そのこと自体に

満足感、充実感を得ている。


さらに進んでいくと、

何かの表現や行動の衝動やアイデアが

思い浮かんだ時にすでに、


それが真の声からだと

気持ちが軽くなったように感じられ、

『どっちでもいいんだけど』みたいな、

一種の無欲感を覚え、


古い思考、自我の声からの場合は、

気持ちが重く、深刻になる。


そして、それぞれを行動したら、


真の声の行動は

物事が楽しく、スムーズに幸福感を伴って進み、


自我の声からの行動は

何らかの、障害が起こったりして、

物事が進みにくくなる。


そうして行くうちに、徐々に徐々に、

無為自然な表現や行動以外は、

物事が進まなく、成り立たなくなり、


『それが成功すればそれで良し、


それが失敗するなら、それもまた良し』


このような、競争社会の価値観に一撃を与える洞察を、


この道を歩く者は得ていく。



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― 新着の感想 ―
[一言] ふらりとタイトルに惹かれて開きました。 その地区になじみがあったからです。 読後はああ、この文章に出会えたのは良かったなと思いました。 なんとなく好きです。
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