第2話 見える人(司の場合)
中学の体育教師の父と、小学校教頭の母を持つ中学生の司は、金銭的な苦労は特になかった。しかし、彼女の毎日は実に味気ないものだった。目立たない彼女には、つるむような友達もいない。中一の夏に転校してきた彼女は、部活に勧誘されることもなく、中三の今までずっと帰宅部だった。部活の指導には熱心な父親も、娘に対しては無関心だった。むしろ年頃の女子ということで避けていたのかもしれない。母親は教頭になってからというもの、ほとんど家に居なかった。朝早く家をでると、夕方遅く帰ってきた。
「面倒は起こさないでね。」
これが、母の口癖だった。成績のことは二の次。とにかく学校から呼び出されるようなことがあると、その日は一日不機嫌だった。
家に帰ると、宿題もそこそこに、彼女は自室のベッドの上で本を読んでいた。誰も居ない家で、コンビニ弁当を食べる日々《ひび》。それでも、本の中に入れば、豪華なディナーをほおばり、にぎやかな家族に囲まれることができた。あるときはプリンセスに、またあるときは女剣士として荒野を駆け回ることもできた。こうして、読んだ本をSNSで紹介。彼女の的確だが斬新な解説は、一目置かれ、フォロワーもそれなりについた。SNSの中では彼女も注目される存在でいられた。
三年になり新学期が始まったある日、彼女は市内の図書館にいた。小説の類はほとんど読みつくしてしまったが、たまに入る新刊が目当てだった。電子書籍は便利だが、嫌いだ。彼女は紙の手触りとインクの臭いが、たまらなく好きだった。さらに関係があるのか、便秘もしたことがない。
小学校の頃は、送迎を母方の祖父がしていた。司という名前はその祖父がつけてくれたものだ。家族のまとめ役となって欲しい。そんな願いが込められていたようだ。祖父はよく本を読んでくれた。司は、一度聞いた話は、すぐに覚えてしまう。そんな彼女の能力を見越してか、二度目からはすぐに、他の本の内容に脱線する祖父に
「ちがう!」
と、突っ込みを入れるのが、二人のささやかな楽しみだった。中学校に上がると、ほどなく安心したかのように祖父は亡くなった。それまでは祖父の家から通学していたが、両親の家の近くに転校せざるを得なくなった。彼女が読書にのめり込むようになったのも、その頃からだ。
ふと目を上げると、一人の老人が本棚をよじ登り、最上段の本を取ろうとしていた。年を取ると肩が挙がらなくなるものだ。
「取ってあげるよ。あぶないから降りな。」
普段は人のことなど構わない司だったが、その老人はどことなく死んだ祖父に似ている気がした。
クラスでも背の高い彼女は、いとも簡単に棚から本を引き抜き老人に渡そうとしたが、老人はどこにもいなくなっていた。
数日後、司は自宅への道を足早に歩いていた。後ろから薄気味悪い老人がつけてきていた。春の夕方。まだ周囲は明るかったが、車の入れない細い路地の抜け道は、近所の人でもあまり通らないところだ。
路地を抜けて、そっと後ろを覗くと老人はいなかった。脇道のないはずの路地。引き返したのだろうか?そう思って前を向いた瞬間、心臓が止まるほど驚いた。後ろにいたはずの老人が目の前に立っている。
「じいさん、何者?」
これが司と徳司との出会いだった。
その週の土曜朝早くに、『死なない老人と死にかけの若者』を読みに、郊外にある例のデイサービスに向かった。帰宅部の彼女にとっては土日は完全なオフだった。両親はすでに部活やPTAの打ち合わせで朝から出かけてしまっていた。今日はまだ、誰も読みに来ていない。職員は迷惑そうだったが、事務所から本を持ってきてくれた。所有者がわかるまで、事務所で預かっているらしい。閲覧名簿に住所と氏名を記入すると、窓際の静かな席でその本を読み始めた。そこには彼女の知らない世界の話が広がっていた。まるで、魑魅魍魎が蠢く地獄のような世界。鬼のようなわがまま老人と、理不尽な責め苦にあえぐ若者。
「こんな大変な仕事なら、さっさと転職すればいいのに。バッカじゃね?」
その後、徳司が告げた印刷所に向かい、健次たちと出会った。
このころの司の家では両親の口論が絶えなかった。コネも無く苦労して郊外の学校の教頭になった母は、親が校長というコネだけで中央の学校に勤める父親を筋肉バカと蔑んでいた。父は、家事をしないくせに小言の多い母にうんざりしていた。
健次たちとの集会は、家庭から逃れられる、初めての友人たちとの楽しいたまり場だった。SNSとは違い、本当の自分が認められた充実感があった。
しかし、健次が借金を抱えて、奔走しているころには、司の両親は離婚。彼女は母親に引き取られることになった。中三の夏。進学は絶望的だった。