おくすり
「ほら、これを飲むといいよ」
みっちゃんママから手渡されたその丸薬は、なんとも言えないものだった。
みっちゃんのうちは、みっちゃんと、妹と弟、お兄ちゃんの四人兄弟だ。遊びに行っても別に嫌な顔をされることはないので、わたしも、一緒に遊びに来たまみちゃんも、みんなで小さなアパートで、所狭しと遊んでいる。
ジュースをもらって、テレビのアニメを眺めながらお人形遊びをしていた。お兄ちゃんは漫画を飲んでいた。
花模様のレースのカーテンから夕日が差し込みはじめ、もうそろそろ帰らなきゃというとき、わたしはお腹が痛くなった。気持ちも少し悪かった。お便所に行っても、なんら解決しない。
ママー、るみこちゃん、具合悪いんだって、と、みっちゃんがママに言いに行った。
「大丈夫、るみこちゃん」
と、優しいまみちゃんが肩を支えてくれている。
ごめんね大丈夫だよ、もうおうちに帰るとわたしは言った。
台所で夕食を作っていたらしいみっちゃんママが、エプロンで手を拭きながら現れた。
背の高いみっちゃんママは、ちょっと怖い顔をしていて、わたしは苦手だ。
そのみっちゃんママがしゃがみこみ、わたしの顔を眺め、冷たい手で額を触ったりして様子を見てくれた。
それから、「ううん、風邪っぽいようでもないしねえ」と呟いた。
「ママ、こういうときはあれだよ」
と、みっちゃんが言った。みっちゃんの妹も「そうだ、あれだよ」と、無邪気に手を叩いた。
向こうで寝そべって漫画を読んでいたお兄ちゃんまでが「具合悪そうだな、そうだ、あれなら一発だと思うよ」と口を挟んできた。
凄い特効薬らしい。
「正●丸かな」と、わたしはよく知っているお薬の名前をあげてみた。
みっちゃんは「違うよ、もっと凄いやつだよ」と言った。
みっちゃんママは立ち上がって薬を取りに行き、また戻って来た。茶色い、ありふれたお薬の瓶の中に、もう残り少なくなった、その丸薬がころころと入っていた。
「もうね、残りがあんまりないんだよね」
ママは言い、ころころと瓶の中を転がした。
高いんだよねえこれ。それに買いに行く時は遠くまで行かなきゃならないし、注文してから時間がかかるからねえ、本当に必要かな――ぶつぶつ言っている。
そんな貴重なものはいただけないから、わたしはますます怖気づいて、もういいです、おうちに帰れば治りますと言った。
その腕を、まみちゃんが掴んで放してくれなかった。きらきらと心配そうに光る目をして、まみちゃんは言った。
「だめだよるみこちゃん。おうちに帰るまで、苦しくなって倒れたら大変だよ」
そうだよ、そうだよ、ここで飲んでいってよとみっちゃんも言い出した。
みんな真剣に心配そうにわたしを見つめている。
そんなに見つめられたら、余計に気持ちが悪くなり、おなかも痛くなった。
「ううっ」
と、わたしは思わずうなった。
みっちゃんママは瓶からころころと丸薬を出すと、ほらこれ、と、わたしの掌にあけてくれた。
三つぶの丸薬は、すごい匂いをしていて、まともに嗅いでいたら眩暈がしそうな程気持ち悪かった。
真黒な中に、赤いものが毛細血管状に入り込んでいて、ところどころ深緑色のものがもさもさと生えている――黴かもしれない――それが、三つ、手のひらにあけられた。
飲んでごらんと言われて指でつまんでみると、ぶよんと柔らかいのだった。しかも、なんだか生温かくて、うわっとわたしは小さく呟いた。
「水を使わずに、舌の上に乗せて、唾液でよく絡ませるようにしてから飲み込むんだよ」
と、ママは言った。
そんな飲み方をしたら、余計に気持ち悪くなりそうだった。
わたしは指でつまんだその丸薬をもう一度見た。
むにゅむにゅした感触の、黒いそいつは、指の中でくるっと動いた。あろうことか、顔がついていて、まともに目を合わせてしまった。
丸薬は飲み込まれることを悲しんでおり、大きく見開いたつぶらな目に涙をいっぱいためて、ぶるぶるぶるぶる指の中で震えているのだった。
「お願い、お願い、飲まないで飲まないで」
(飲みたくねーよ)
思わず汚い言葉でわたしは思った。
しかし、周囲はものすごく心配していて、わいわいと言いたてている。
「るみこちゃん、それすごく良く効くから」
みっちゃんが真剣な顔で言っている。
「あたしが運動会の時、緊張で走れなくて、もうおうちに帰るって泣いた時も、ママがそれをくれたの。それで、飲んだら緊張がおさまって、一番を取ったんだよ」
緊張ほぐしの薬でもあるのか。これは。
指に挟まれた黒い丸薬は、相変わらずぶるぶるぶるぶる小刻みに震えている。おまけに細い毛ほどの腕が映えてきて、前でお祈りの形に組んで、上目でこちらを見上げて来た。
どうしても、飲まれたくないらしい。
「あたちも飲んだ」
みっちゃんの妹が舌足らずに言った。わたしを見上げるようにして、すごく心配そうにしている。
「かつみも、夜中に高い熱が出た時、それを飲んだら一気に治ったんだよ」
みっちゃんが解説してくれた。みっちゃんママも、うんうんそういうことがあったねえと頷いている。
熱さましの効果もあるらしい。
それにしても、匂いがひどい。指にねちゃっと何かが着くような感触も嫌だ。
くりくりの目で、丸薬はわたしをガン見している。涙をためながら、お祈りポーズで、しかもなんだかぷっくりとした唇を艶っぽく湿らせて、突き出してきているじゃないか。
「お願いお願い、助けてくれたらチューしてあげるから、ねっ……」
(いらねーよ)
勘弁してくれよとわたしは丸薬から目を逸らす。逸らした先に、目を潤ませたまみちゃんがいた。
まみちゃんは眉をひそめ、顔を紅潮させている。心配のあまりに、ちょっと怒りぎみだ。
「早く飲んで。ねっ、遠慮しちゃだめだよ。飲んだら良くなるんだから、ねっ」
まみちゃんは真剣に言っている。わたしは再び丸薬に視線を戻さねばならなくなる。
「かずやも丸薬を砕いて舐めさせたことがあったよね」
みっちゃんが思い出したように言った。
まだ一歳にもならない赤ちゃんの弟は、寝転がっているお兄ちゃんの側をハイハイしている。
ロボットアニメの派手な画面に大喜びだ。きゃっきゃと笑っていた。
(あんな赤ちゃんに、こんなん飲ませたんかよ)
わたしは驚愕する。
丸薬はどんどん、どんどん、グロテスクになってゆく。
自分の身の安全が確保されるまで全力を尽くすつもりらしい。
目をちょっと逸らしている隙に、そいつはパタパタとパフで顔をはたいたり、コンパクトを覗いて目の上にラインを入れたりしていた。唇の色を吟味し、ついにチェリーピンクのグロスを選んだ。艶やかジューシーだ。
(色仕掛けのつもりかよ……)
「夜泣きがいっぺんにおさまったわぁ」
ママが言った。
うちでは常備薬なのよね、これがないと安心できないの。
でも、今見たら切れそうになってるじゃないの。おかしいなあ……。
ママの意識がわたしから逸れた。
ぶつぶつ考えながら茶色の瓶を眺めていたが、やがてはっと思い当たったように後ろを見ると、お兄ちゃん、と、おおきな声で叱ったのだった。
「あんたまた、黙ってこれ飲んだでしょう。だめだよこれ高いんだから。病気の時だけって言ってるでしょっ」
ママの唐突な叱責に、ハイハイしていた赤ちゃんは驚いて目を見開いた。
漫画を読んでいたお兄ちゃんは、げっという顔をした。気まずそうに目を逸らしている。
「やっぱりあんただね。これ勝手に飲んだでしょっ」
ママがぷんぷん怒っている。とうとう赤ちゃんが泣いた。ママは慌てて赤ちゃんを抱っこしてあやし始めた。
それでも口だけはお兄ちゃんを怒っていて、駄目でしょっと怒鳴っている。
「だってこれ、おやつみたいで美味しいんだもん。腹が減ってたんだよっ」
赤ちゃんをあやしながら向こうに行ってしまったママに向かい、お兄ちゃんが怒鳴り返した。
(美味しいのかこれ……)
厚化粧を完成させ、しあげにコロンをシュッシュッと吹いている丸薬は、どう見ても気持ちの悪い変な生き物だった。
ぷるるん唇に、つけまつげの目。しかもカラーコンタクトを入れたらしい。色は赤だ。
ばっちんばっちん瞬きして、しなをつくりながらジレジレと両手を組み合わせている。
「うふんあはんだめんいやん、おねがい、あたしを好きにしていいから、飲まないでえ」
と、丸薬は言っている。
これを口の中に入れるということ自体、強い抵抗がある。
わたしは途方に暮れた。
だけどお腹は痛いし気持ちも悪くて、わたしはどうやら冷や汗をかきはじめていたらしい。
「はやく飲んでね」
ハンカチでわたしの汗をふいてくれながら、まみちゃんが心配そうに言った。
みっちゃんも「はやくはやく」と言っている。
「おねえちゃん、具合悪そう」と、みっちゃん妹も言い出した。
「うう」
わたしは手の中の丸薬から顔を背けつつ、ちらっとお兄ちゃんを見た。物ほしそうにしているじゃないか。
「もう具合治ったから、良かったらこれ」
と、わたしが言いかけると、ものすごい勢いで女の子三人から怒られる。
だめだよ、明らかにるみこちゃん具合悪そうじゃん。
さっ、これさえ飲めば良くなるから。これ万能薬だから。すごいから。
のんでー、はやくのんでー。
……。
「ごめん、本当にもう良くなったから」
と、わたしは言った。
こんなもん飲めるか。断固拒否だ。飲んだら余計に気分が悪くなる。というより、この気持ち悪い丸薬を持っているだけで症状が進んできた。
本当に大丈夫だから、心配してくれてありがとう、その気持ちだけで十分だし、とても嬉しかった。
まみちゃんもみっちゃんも大事なお友達で大人になってもお友達のままだから。
なにがあってもあたしたちの友情は壊れないし、結婚して子供ができた後も、ママ友として一生付き合っていこうね。本当に大丈夫。本当に大好き。みんなありがとう。こんなに素敵な友達を持てて、わたしは幸せだよ。
と、言ってから、わたしはそっとみっちゃんの手を引き出し、その掌に丸薬を返したのだった。
「ああっ」
と、けばい化粧をした奴もみっちゃんの汗ばんた掌の中に転がっていった。その救いを求めるような目が、いつまでもわたしに付きまとうようで、心底ぞっとした。
「じゃあねっ、また明日ね」
そそくさと玄関に置いたランドセルをとりあげ、うちに帰ろうとした時、後ろから手を握られた。
はっと振り向くと、目に涙をいっぱいためた、うるうるのまみちゃんがいた。
「るみこちゃん、あたしたち友達だねっ」
がしっと両手を掴まれてしまう。
みっちゃんのうちは、心なしか、あの気持ち悪い丸薬の匂いが漂っている。
吸っているだけで憂くなるようだ。嫌だ早く帰りたい、外に出たい。でもまみちゃんが手を握り、感激しているのだった。
「永遠に友達だねっ。うん、約束だねっ」
ああはいはい、約束約束。わかった。友達だよねうん。
そこに、強烈な丸薬のにおいと共に、みっちゃんが駆け寄ってきた。同じくうるうるの目をしているじゃないか。
わたしの手の上に、まみちゃんの手。その上にみっちゃんの手。
三人の硬い友情の握手だ。小学四年の永遠だよ。そうだよ友達だね。
(どうでもいいから、はよ帰せ)
「るみこちゃんっ」
「まみちゃんっ」
「みっちゃあんっ」
二人して感無量で叫びあっている。わたしも合わせて、ふへへふへへと笑っておいた。
ものすごい匂いが立ち込めている。ああもう勘弁。
じゃあ、わたしはこのへんで。
言いかけた時、みっちゃんがポケットから何かを取り出した。
「三人は友達だね。これはその証」
そう言って、さっきの丸薬をポイポイとわたしたちの手に一つずつのっけたのである。
丸薬はちょうど三つ。
おねーちゃん、わたしもほちいー、と妹がスカートを引っ張っているのを、みっちゃんは無視した。
「さっ、これ飲んで友達の誓いをしよう」
みっちゃんはそう言うと、その物凄い丸薬をいとも簡単に口の中に放り込み、ぐっちゃんぐっちゃんと舌の上で転がして、よく噛んで、惜しむように飲んだのだった。
「きゃあああ、いやああああ、やめええええええ」
……というような悲鳴が、みっちゃんの口の中から聞こえて来た。けれど、みっちゃんはお構いなしだった。
だけどまみちゃんは真剣な顔をして、こっくりと頷くと、わたしとみっちゃんを見つめながら、自分もその丸薬を飲んだのである。
ぐっちゃんぐっちゃん、ん、ごっくん……。
「んはあああああ、やあああああ、おねがいいいいいい」
……。
……。
わたしの指の間には、奇しくもさっきと同じ奴が、厚化粧をして見上げている。
ばちばちの目をうるうるにして、頬を紅潮させ、ぶるぶるの唇から純白の歯をのぞかせている。
「お願い、あたしを好きにしていいから」
と、丸薬はアニメ声でそう言った。わたしは嫌悪感で怖気がはしり、全身に鳥肌が立つのを止められなかった。
「……」
「……」
みっちゃんとまみちゃんが、じっとわたしを見つめている。
きらきらした目で、まっすぐにわたしを見つめている。
わたしもまた、涙ぐんできた。
(早くおうちに帰りたい)
「お願いたすけ」
て、とまで言わないまま、丸薬はわたしの口の中に放り込まれた。
変な汗が一気にぶしゅーと全ての毛穴から吹き出し、目は白目になりかけ、足はがくがく、手はぶるぶる、頭の中はぐわんぐわん。すぐそこには玄関の扉があって、ノブを回しさえすれば外に出ることができるというのに。
(一生の友情なんて)
口の中のものを飲もうとしては受け付けず、どんどん涙が目に溜まって来た。
だけど目の前の友人二人は、つやつやうるうるのお肌をして、黄金の気が放たれるほど生気に満ちているようだった。二人は言いあっていた。
「すごーい、あの薬即効性があるねえ、なんだか元気が湧いて来たよ」