君にとっての世界とは
書斎の、倒れた書物のタワーの中から見つかった古びた書物。
埃をかぶり、ところどころページは破れ、日焼けで変色した本。
好奇心から本を開くと、扉にはこう書かれていた。
「この本を手に取った、檻に閉じ込められた人々に希望と、好奇心を。
そして、『外』の世界へと踏み出す勇気を」
*****
(著者名のようだが、かすれていて読めない)
僕は、物心がついた時からこの街に住み、事故で亡くしたらしい両親の代わりにじっちゃんと暮らしていた。両親が管理していたいくつもの土地を受け継ぎ、じっちゃんや僕が働くことなく毎日は十分に過ごすことができた。
二人には広すぎるお屋敷に、四人のお手伝いさん。同い年くらいの男の子と言えば、外で騒いで遊んでいたけれど、僕は一日のほとんどを書斎で過ごした。両親が遺したという大量の書籍は僕の関心を引き出し、満足させるには十分な量だった。
今日もまた、朝食を終えていつもの通り書斎に籠り、本を読んで一日を終える。
はずだった。
「じっちゃん」
「おお、どうしたスバル。また分からない言葉でもあったか」
「うん。この本にね、『空は突然暗くなることはなく、ゆっくりと様相を変え、ある時は水を降らし、ある時は雪も降らす』って書いてあるんだけど・・・・」
これはきっとファンタジーなんだと思った。
だって、空は時間が来れば電気を消すように真っ黒に染まるし、空から水が降るなんてありえない。そもそも、この雪というものも聞いたことが無い。だから、じっちゃんに聞けば教えてもらえるだろうと思っていた。
なのに、じっちゃんは飲みかけのコーヒーが入ったカップを落として、僕から本を奪った。じっちゃんの表情は見たこともないくらい、ものすごい形相だった。
「いいか、二度とこんな本を読んではいかん。・・・・これを貸してあげるから、今日は部屋で読みなさい」
あまりにも怖くて、頷くので必死だった。本を破らんばかりの勢いで取り上げた手で、お手伝いさんに持ってこさせた別の本を僕に渡した。
あれから、部屋に戻ろうとしたけれど、渡された本は既に読み終えたものだった。だから、別の本を取りに行ってもいいかとじっちゃんに聞こうとリビングに向かってそっと部屋の様子を覗くと、先ほど同じような形相でお手伝いさんのカナエさんを叱りつけていた。
「言ったはずだろう! 『外』に関する書籍はすべて破棄しろと! この役立たずめが!」
本を取り上げられた日の夜。僕はじっちゃんが言っていた『外』という言葉が気になっていた。
このお屋敷の外のことだろうか。
それとも、このお屋敷の外の他に、別の世界が広がっているのだろうか。
そう思うといてもたってもいられなくて、夜中、普段は寝ているであろう時間にこっそりベッドを抜け出した。行先は、お手伝いさんの部屋。
本当はじっちゃんやお手伝いさんにあまり行かないように言われているけれど、こればかりはお手伝いさんにお願いするしかない。
「カナエさん、カナエさん」
軽く扉をノックすると、部屋着姿のカナエさんが寝ぼけ声で「はぁい」と返事しながら出てきた。
「あら、スバル坊ちゃん。いかがいたしました? 怖い夢でも見てしまいました?」
カナエさんは、僕が生まれた時からいたらしい。僕が怖い夢を見て眠れないときによく一緒に寝てくれた。お母さんがいたら、彼女みたいな人だったのだろうか。
「もう、それは小さい頃の話だよ。そうじゃなくて、今日じっちゃんに怒られていたでしょ。本のことで」
「ああ、あの本ですか。ええ、大旦那様の言う通りに廃棄するつもりです」
「その本が欲しいんだ」
「なりません」
珍しく、カナエさんは僕の『お願い』をきっぱりと断った。
「どうして。じっちゃんに怒られるのが怖いから?」
「そうではありません。坊ちゃんのためです」
こうもはっきりと僕の『お願い』を断るということ今までに片手に数えるほどしかない。それほどあの本の内容はなにか重要なことなのだろうか。止められれば止められるほど、益々好奇心は増す。
気が付けば、僕はカナエさんに縋るように立っていた。
「僕、どうしても読みたいんだ。ね、お願いだよカナエさん」
「・・・・明日の明け方に、ごみステーションに出します。こんなことを坊ちゃんにお願いするなど厚かましいことこの上ありませんが、明日はごみが多くて大変なのでお手伝い願えますか?」
よっぽどかじっちゃんのお叱りは怖いものなのだろう。
カナエさんはしばらく考え込んでから、渋々といった様子で妥協案を出してくれた。これで、あの本に近づくチャンスを得ることができる。
「! もちろん」
「それから、このことは大旦那様にも内緒にしていただきますよう・・・・」
「もちろん。ありがとう、カナエさん」
「それでは、おやすみなさい」
「うん、おやすみなさい」
意気揚々とベッドに潜り込んだけれど、どうも目が冴えてしまって、結局一睡もせずに空が明るくなってしまった。
胸の高鳴りを抑えつつ着替えを済ませると、約束通り、僕はカナエさんのごみ捨てを手伝った。
「スバル、何をしておる」
じっちゃんの声が聞こえるまでは。
「じ、じっちゃん」
「お前はそんなことをしなくてもいい。カナエ、何を手伝わせているんだ」
「も、申し訳ありません」
カナエさんはじっちゃんの叱責にあっというまにしょぼくれてしまった。その二人の間に僕が入る。
「違うんだ、僕が無理やり手伝ったんだよ。いつもお世話になってるカナエさんが、たくさんのごみを抱えていたから、僕はもうカナエさんと同じくらいには力もあるし、たまには体を動かすことも大事だって、じっちゃんも言っていただろ?」
しばらく、黙っていたじっちゃんは、何か言いたげな表情をしつつもため息をついて去っていった。もしかしたら、あとでまた怒られるかもしれない。申し訳なさに、カナエさんの方に振り返ると、カナエさんは頭を下げていた。
「ありがとうございます、坊ちゃん」
「いいんだよ。僕が無理やりお願いしたことだし」
寧ろ、感謝するべきはこちらの方だと思いつつ、目当ての本をカナエさんが見ていないうちにこっそりと持ち出し、布にくるんで庭の植え込みの下に隠した。
そのあと何事もなかったかのようにごみ出しを終え、部屋に戻るとベッドのマットレスの下に隠した。
それから、夜寝る前になるとこっそり持ち出した蠟燭の、僅かな明かりを頼りに少しずつ読み進めていくと、どうやら僕が今まで『普通』のことだと思っていたことは、この本に描かれている世界では『異常』らしいことが分かった。
空は時間が来れば暗くなるのは同じだが、突然暗くなるのではなくゆっくりと絵の具を混ぜるように空の色は変わるし、空から水や、水を凍らしたものが降ってくるという。つまり、氷が降ってくるということだ、危なくて出歩けないのではないだろうか。
また、『季節』というものがあり、『暑さ』や『寒さ』があるらしい。更に、塩水が溜まった場所があり、その場所は『海』と呼ばれる、など、聞いたことのない単語が詳細の説明と共にまとめられていた。
『暑い』とは、『寒い』とはどんなものなのだろう。山は周辺にいくらでもあるが、『海』とはどんな場所なのだろう。
「行ってみたいなぁ・・・・」
ポツリと呟いてから、咄嗟に口を手で覆った。
暗闇に呟きは吸い込まれ、他の誰の耳にも入らなかったらしいことにホッと胸をなでおろす。特に、じっちゃんに知られたらどうなるか。先日の初めて見る形相を思い出して身震いする。
一人で行くには心細い。まだ大人とは言えない自分一人行っても、きっとすぐに、じっちゃんに見つかって連れ戻されるだろう。
共通の秘密を持つ人と言えば、一人しかいない。
「カナエさん」
「あら、坊ちゃん。いかがいたしました?」
翌日、休憩中らしいカナエさんの元へ行き、例の本の話をした。
もちろん、周りにじっちゃんがいないことを確認して。
「そう、ですか。『外』の世界に・・・・」
「でも、僕一人ではきっと力不足だ。唯一、カナエさんはこの本のことを知っているし、できれば一緒に来て欲しくて」
カナエさんはこれ以上になく真剣な表情で僕の話を聞いていた。
俯いたまましばらく思案した後、吹っ切れたような表情をして顔を上げると、いつもの微笑みが戻っていた。
「それでは、その本を書いた方に会いに行ってはいかがでしょう。ただ『外』の世界に行く、では行ってからどうすれば良いかわからなくなってしまうかもしれません。本を書いていらっしゃるほどですから、きっと『外』の世界に精通しているでしょう」
「そうだね、そうしよう! そしたら、突然会いに行くのも失礼だし、先にお手紙を書いたらどうかな。本の巻末に住所が記されていたんだ」
「では、私が書きましょう。文面はいかがいたしますか?」
新たな秘密を共有してから数日、カナエさんと会うたびに『外』の話ばかりしていた。もちろん、じっちゃんにバレないようにわずかな時間にさりげなく。今までも、お手伝いさんの中で一番仲良くしていたのはカナエさんだったためか、じっちゃんもあまり不審に思わなかったようだった。
カナエさんに代筆を頼み、どういった経緯で手紙を出したのかは知らなかったが、手紙を送った数日後に返事が返ってきた。
意気揚々と封を開くと、一枚目にはたった一言。
『真実を知る覚悟はあるか』
この一言だけが、一枚の便箋を占めていた。たった一行の一言だけなのに、便箋が重く手にのしかかるようだった。
どこか重苦しい雰囲気を二人を包み込んだが、今更膨れ上がった希望を萎ませるわけにもいかず、二枚目の便箋を読み進めた。
二枚目には、地図が描かれていた。僕はそれを見て、歓喜の声を上げる。
「これ、地図だ。街の地図。もしかして、ここが別世界と通じる場所なのかな」
指さす先には街のはずれにある砂漠で、そこで線は途切れていた。
「ここに行けば、『外』が・・・・!」
嬉々としてカナエさんを振り返ると、相変わらず微笑んで僕を見返した。
だが、僕は知らなかった。この時、僕が見ていないときにカナエさんがどんな表情をしていたのかを。
決行の日。僕たちは空が明るくなる前に屋敷を抜け出し、地図の場所へと向かった。
砂漠の砂に足を取られながらも、木々が生い茂る道を過ぎると、なにかじんわりとした膜の様なものを通ったような気がした。
そこを通り抜けると、体が途端にふらついて、この症状は『暑さ』だと本に書いてあったことを思い出すが、その時の僕は驚いて思わず尻もちをついてしまった。
「大丈夫ですか?」
そうカナエさんに手を差し伸べられて、照れつつもその手を取った。
「これが『暑さ』なんだね。カナエさんも、上着脱いだら?」
初めて感じる暑さに、僕は上着を脱いだが、彼女は「私は大丈夫です」と上着を脱がなかった。もしかしたら、肌を出すと『日焼け』というものをしてしまうから気にしているのかもしれない。
尻もちをついたときに付いた砂を落としてもらっていると、目の前の景色に思わず悲鳴を上げて走り出してしまった。
「ぼ、坊ちゃん!」
「ねぇ、見て! 見て見て! こんなに綺麗な景色、見たことない!」
相変わらず続く砂漠を走りながら、前方を指差す。その先に視線を送ると、僕たちの世界では見たことのない、『海』が広がっていた。
「すごい・・・・」
空を見上げると、白くてふわふわしたものが浮いていた。僕らを照らす『太陽』が、『海』の方へと沈んでいくのが見えた。すると、反対側は紫から藍色、藍色から紺色へと段々と暗くなっていき、空にはポツポツと光る粒が塗されていた。
今なら、彼女にこの気持ちを伝えられるだろうか。
母のように、姉のように優しくしてくれたカナエさんに、告げられなかった思いを今ならきっと。
意を決して、彼女と向かい合おうとした。
「カナエさん?」
振り返ると、先ほどまで微笑んで僕の後を追っていたカナエさんが、砂の上に倒れこんでいた。
「カナエさん、砂がついちゃうよ。星なら座ってでも見えるじゃないか」
以前、『外』に行ったら寝転がりながら空に浮かぶ星を眺めたいと言っていたのを思い出して、慌てて起こそうとした。このまま眠られたりしたら、風邪を引いてしまうかもしれない。
「ほら、カナエさん・・・・カナエさん?」
腕を引っ張っても、だらりと体を地面に放っていて、もしや体調でも崩したかと背中に腕をさして抱き起す。
「カナエさん? カナエさん!」
彼女の口元に耳を持っていくと、呼吸音の代わりにギシギシと耳障りな音が聞こえた。
『エネルギー不足及ビ電波外ノタメ電源ヲ一時的ニ停止シマス。〈マニュアル〉ニ従イ、再起動ヲ行ッテクダサイ』
「は・・・・?」
エネルギー不足? 電波外? 再起動?
理解が追い付かず、僕は茫然とただ彼女を見下ろすしかできなかった。
「おい、少年」
「・・・・?」
座り込む僕に後ろから男性が話しかけてきた。
疲れたような目で、憐れむようにカナエさんと僕を見下ろすと、僕の隣にしゃがみ込んだ。
「その人はまだ助かる。街に戻るんだ。そうすれば、彼女を助けられる」
「貴方は・・・・?」
「君たちだろう? 俺に手紙をくれたのは」
「! じゃあ、」
「あの本を書いたのは俺だ。まさか本当に信じてくれる奴がまだいたとはね」
「真実って・・・・このことですか? カナエさんが、人間じゃないって」
「いいや、それだけじゃないさ。真実の奥の真実が知りたきゃ、俺のところにくるといい。少なくとも、彼女とは別れを告げることにはなるが、彼女を助けることができる」
彼は、どこまで知っているのだろう。少なくとも、僕のカナエさんへの想いは既に見透かしているようだった。
「大切な人なんだろう? 俺の時は間に合わなかった。さぁ、戻るんだ!」
彼女を背負うと、声に後押しされるようにふらつきながらも元の道へと歩き出すと街へと急いだ。街の外れにある医師に運び込み、彼女の無事を確認した後、彼女への手紙を書いて残すと後ろ髪を引かれつつも彼女のもとを去った。
それから、暗闇に乗じてじっちゃんの追っ手に見つからないよう、例の男のもとへと向かった。
その後はというと、僕は彼の元でかれこれ数年暮らしている。
思えば、カナエさんは命がけで僕を『外』に連れてきてくれたのだと思う。
『外』に来てから、カナエさんの動向は分からないけれど、きっと『生きて』いてくれることを信じている。
ここでは他にはっきりと書き記すことはないが、ただ一つ言えることは、もし『外』への憧れを抱いているのなら、まずは彼や僕のもとに来て欲しい。きっと手助けができるだろうと信じている。
それが、真実を知った者の義務なのだから。
君にとっての世界とはなんだろう。
閉鎖的で居心地はいいが情報を支配された世界か、はたまた開放的で美しい世界だが不安定な世界か。