幕間1.終わらない極彩庭園
切り離された世界には、時間の概念が存在しない。
そう云ったのは、おのれの主である彼であり、なるほどその通りだと思う。
この世界で見上げる空はいつだって好き勝手な色をしていたし、少女好みの色彩で塗り潰されていた。彼女は、あの色をどう思ったのだろうか。
一時間にも満たない邂逅であったが、自由に言葉を交わせたあの瞬間こそを切り抜いて永遠にしてしまいたいと、ふと思う。おのれの言葉に彼女が答え、反応し、考え込んでくれるだなんて、あんなにも幸福な瞬間があって良いのだろうか。
否、いいはずがない。許されるわけもない。
自分が本来そのような立場になれないことも、なってはいけなかったことだって、理解している。痛いほどに、などとは口が裂けても云えないが。口が裂けるほどに笑ってみせれば、彼女は笑うか、呆れるかしてくれるのだろうか?
嘲るか、罵るか、それに付随するような感情ならいいと思う。
彼女にそんな表情はさせたくないが、そうされるほどのことを自分はしてきたのだから。
ひとり、自嘲するように笑う。
笑うことが出来る猫だなんて、とてつもなく不本意な役柄を命じられたものだ。
彼女に対して笑いかける資格なんて、自分には存在しないのに。
何度も、この場に連れてきたことに対しての謝罪を求められたことを思い出す。あんなにも言葉を駆使できるようになったのに、彼女に対し誠意を込めた言葉はまるで吐き出すことが出来なかった。苦い笑いが顔に張りつく。それでも自分は嗤っているのか。
彼女はきっと、自分を許してはくれない。
それでいい。いいに決まっている。彼女は自分を許すべきではない。
もし、彼女のためになるのならば、この身が代わりに擦り潰れても構わない。
おのれがしていることは、ただの贖罪だ。それは結局、自己満足に他ならない。
自身が救われたいと願うからこそ、人は罪を償うふりをする。今の自分は、そんな人間の真似事をしているに過ぎない。
自分は道化だ。彼女の前でニヤニヤと笑うだけの、ただの猫だ。
この異様で異常な国で振る舞うには、それ以外に道はない。
「まったくもってひどいご主人様だよねえ。本当、本当にさ、あの子が僕の飼い主だったら素敵だなって、そう思うのも罪になるのかな? 主に対する不敬とか? いやいや、それはない。それだけはないな」
軽い口調で呟いて、思わず吹き出した。
ひとりごと、なんて。まるであの子みたいじゃないか。
あぁ、本当に。本当に自分は、この姿であることを有効活用できてなどいないのだと思い知る。
「もう、仕方ないからね、お仕事しちゃおう。ご主人様には逆らえませんよ。僕ってば猫らしからぬ猫なんですから」
主に忠義を尽くすなど、猫のすることではない。
そんなものは忠誠心の厚い犬にでも任せておけばいいだろうに、彼は自分を傍に置く。従えと云われるから、ただ従う。
願いを。叶えてくれると云われたから。
あの子と同じで、まったく違う。
どこまでも自己満足でしかない、最低な願いだけれど。
笑顔が影を潜めると、冷めた青灰色の目が周囲に向けられる。
目の前に広がる空間は、更に異様だ。
それでなくとも切り離された世界から更に切り捨てられたこの場所では、もはや何もかもが存在を認められていない。
履き心地の悪い靴とかいうやつのつまさきで蹴りつければ、風化した地面はさらさらとひび割れて砕けていく。ついさっきまで鮮やかに咲き誇っていた庭園の景色などすっかりと忘れてしまったようで、寧ろそんなものはなかったとでも云いたげだ。
なのにどうしてか――この空間は心地が良い。
吐き出されるのがため息ではなく、安堵のそれであるのも仕方がないことだろう。
空気は重く、そして暗い。空は存在そのものを見失い、重苦しい緞帳として垂れ下がっているだけだ。
少年は、足元にばらまかれた彼女たちの残骸を、丁寧に拾い上げていく。
体を裂かれ、切り刻まれ、首を落とされた鮮やかな色と色。無表情に凶器を振るうあの少女の横顔は、疲れ方すら忘れてしまったようだった。
パキリ、自らの表情にひびでも入ったかのような音に目を丸くする。
見れば、手のひらの中で白紙のカードが折れ曲がっていた。
あぁ、ごめんよ。小さな声でささやくと、少年は拾い集めたカードを扇型に広げていく。
「ダイヤの5に、クローバーの3――絵札はないね、さすがに数字も小さいか。スペードは――あぁ、あるわけないな。当たり前だ」
白紙のカードに描かれた絵柄が見えてでもいるように、少年の声が響く。
手の中のカードが僅かに震えているのは、恐怖に身動ぎしているからだろうか。
幼い声は、どこまでも残酷に彼女たちの数字を読み上げていく。
「さァ、起きて。君たちはまだ死ねないよ」
自分の言葉は、死刑を宣告する女王よりも無慈悲に届くことだろう。
次の瞬間――少年の予想通り、切り捨てられたはずの空間に響き渡ったのは無数の絶叫であった。
悲鳴と悲鳴と悲鳴とが重なりあって、金切り声が不協和音を立てている。
空気が蠢動するほどの絶叫は怨念にも似た感情をほとばしらせ、憎悪と化して少年へと伸びる。
「おっと、危ないなァ」
ひら、と少年が身を躱す。
足元が抉られて、土埃が立ち込めた。
乾ききっていたはずの大地には見る間に水分が満ちていき、陽の光が天井の切れ間から差し込んでくる。鮮やかな色が目の前に咲き誇り、やがてみずみずしい蔓や葉が取り戻されていく。
そのいずれもに攻撃を受けながら、少年は軽やかに身を翻す。猫のようにしなやかなその体に、避けきれなかった細かな切り傷が増えていく。
「これくらいで許してくれるなら安いもんだよ。でも、悪いけど、もう彼女はここには来ないんだ。君たちには用がないからね」
あでやかに咲く花々は、懇願するように頭を垂れている。ざわざわと揺れる色彩が待つ何かを知りながら、あっさりと少年はその願いを突き放す。
「僕の女王さまはお忙しいんだ。これ以上、お手を煩わせるわけにはいかないよ。だから君たちも、おとなしく待つといい」
蒸し返す花の匂いに酔いしれて、猫は唇の端をつり上げる。
「きっと彼女が終わらせてくれるから、待っておいでよ」
――そのときこそが、本当に眠りのときだ。
猫の言葉に惑わされ、花の動きが静まっていく。
頭を垂れろと彼女は云った。花たちは、すぐさまそれに従った。
彼女には、女王の素質がある。おのれの期待に間違いはないだろう。
ならば、誰より跳ねられるべき首は、自分であるはずなのに。
「……そのときは、まだ先にとっておかないと。うさぎの動きも心配だ。『あいつ』がどう出てくるかもわからない。他にも注意しないとならないし……あぁもう、難しい話は苦手なんだよ、絵本だって読めやしない。ご主人様は猫づかいが荒すぎるよ。まったく、人をなんだと思ってるのかしらって、あの子なら云うのかな。いいや、きっと違うよね。『私を置いていかないでちょうだい。わかりやすく説明なさい』――多分、そんなことを云って怒るんだ。本当、なんてかわいらしい女王さまなんだろう」
楽しげな自身の声に、言葉の内容に、猫はまるで気づかない。
ざわめく花びらや葉擦れの音にかき消されてしまうからだと、そんな風に云い訳をしてごまかしてしまう。
少女に忘れ去られた空間に、たくさんの花が咲いていた。
繰り返しを強いられた庭を彼女が訪れることは、二度とない。
今回は別キャラ視点。