6.アリスのゲーム
赤茶けたペンキの小道をなぞって辿り着いたのは、うさぎの云う通りに庭園だった。
ただし、あの日扉の向こうに見た色鮮やかな花と涼しげな噴水のある庭とは違って、そこに規則正しい美しさは存在しない。
ありったけの色という色を無理矢理に詰め込んだ花壇は目に痛いほど鮮やかだし、サイケな色調はどうしようもなく落ち着かない。
極めつけは、植えられた名前も知らない花々の迫力だ。
然程身長の高くない私よりもはるかに高く伸びた花に囲まれていると、自分が縮んでしまったかのような錯覚を受ける。だけれど私の身長は飲み食いで伸び縮みするほどにこの国には馴染んでいないし、そうすると目の前の花が規格外であるとしか考えられない。
六枚切りの食パンよりも分厚い花びらや、人の腕ほどに太い茎。子供の絵本に現れる挿絵みたいに傘として扱えそうな大きな葉っぱ。赤茶けた土から顔を覗かせる太い根は蠢いていて、更にはどこから発しているのかもわからない、言葉にしがたい奇声が聞こえてくる。
とんでもない恐怖映像だった。ただし実体験。目の前の風景。
色彩や形に美醜を感じるよりも先に、気圧されてしまう。
……これのどこが花なんだろうか。きれいなお庭なんだろうか。
こんなものを相手取れと云うのだから、うさぎの奴は本当にどうしようもなく最悪だ。
全然、軽い仕事じゃないんですけど。
――と、最初はそう思っていたのだが、やってみたらまぁ可哀想なくらいに簡単な、簡単すぎてうっかりと現実逃避を二重に重ねたくなるような、そんな作業が待っていたのである。
何故なら、相手が抵抗をしてこないのだ。ひたすらに切り刻んで、切り刻む。それ以外にすることがないくらいに。いっそ無心になってしまうほどに。
これを草刈りと呼ばずになんと呼べばいいのだろうか。
「それで、さっきからずっと刈り取ってるの? 包丁で?」
チェシャ猫のまなざしがどことなく生温い。
そんな目で見るな、憐れむな。私だって自分の行動に疑問しか抱けないでいるんだから、客観的に可哀想な子だとか思うのはやめてほしい。
「なんか、可哀想な子に見えるよ?」
「わざわざ口にまでしないでくれる!?」
「うん、そうだね……君も頑張ってるんだもんね。僕にはわかるよ……」
思っていた以上に憐れまれていた。ちょっと悔しい。
いくら反撃を喰らわないとは云え、包丁片手に恐怖の巨大花に立ち向かう少女のどこがアリスなんだろう。ジャンル違いな気がしてならない。魔法のステッキでも持ってこい。
自分の役割に心底疑問を抱きつつ、それでも仕方なしに気を取り直す。
無駄話をしていたおかげですっかり作業の手が止まってしまっていたけれど、目的はまるで達成されていない。
「わかってくれたなら、その包丁返してちょうだい。まだ全然終わってないのよ」
チェシャ猫に向けて手を伸ばすも、相手は凶器を渡す素振りを見せずにこちらを眺めているだけだ。手のうちでリズミカルに黒い柄を回し、危ないと顔をしかめる私を見てにこやかに笑う。
「こうして見ると、君の方が背が高いんだね。ちょっと残念」
私も先程確認したことだが、猫もようやく気づいたようだ。目線の高さはほとんど同じと云っていいのだけれど、底の高い靴を履いているからという理由以外にも単純に、私の方が身長は高いらしかった。(おそらくは)男の子である猫的には気にすることなのかもしれないが、正直私としてはどうだっていい話だ。
「……あのね、世間話はもういいから」
「うん、でもさ、包丁で草刈りなんて効率悪いよ? それにまるで現実的じゃない」
私の嫌う言葉を効果的に使って動きを止められる。
こんな非現実的な世界に引きずり込んでおいて、その台詞を云うのは正直ずるい。
「じゃあどうしろって云うのよ」
思わずふてくされた声を出せば、まるで隠れていない忍び笑いが聞こえた。
「これ、使えばいいんじゃないかな」
なにげない呟きと共に、目の前に刃物が降ってくる。時計の振り子のように右へ左へ揺れるそれは、猫のニヤニヤ笑いと同じ形をしていた。逆さまに弧を描く刃は、チェシャ猫の笑みを更に大きくしたようだ。逆から見れば、ひょっとしたら私も笑っているようにでも見えるのだろうか。……ふざけてる。
「そんなものがあるなら、まずはじめに渡しなさいよ。この役立たず」
「ごめんごめん。渡そうと思ってたんだけど、君と話せるのが楽しくて、つい」
危ないから気をつけてね、などと今更に口添えてチェシャ猫が差し出してきたのは、少しばかり大振りな草刈り鎌だった。受け取って、切れ味のよさそうな刃を見つめる。もっとも、少女である私や中学生程度の見た目をしているチェシャ猫に対してなのでそこまで大げさなサイズではないのかもしれないが、立派な凶器であることに違いはない。
ともあれ、草を刈るためにあつらえられた道具ならば、作業効率は格段に上がるだろう。
「にしても役立たずなんてひどいなぁ。僕は君の役に立つためだけに動いてるのにさ」
軽く握って鎌の重みを確かめていると、猫の声が追いかけてくる。
「そう思われたいなら、そう見える働きをしなさいよ」
「はーい。……なんだか君って、命令口調が板についてるよねえ。時計うさぎともそんな感じに話してるの?」
「大差はないと思うけど」
「へえ。……それは、よかったのか悪かったのか」
なんだかよくわからないことをぼやくチェシャ猫。意味のない言葉の羅列には飽きてきていたので、ほとんどを聞き流して背を向ける。そんな私の背後で猫が嘯く。
「君には寧ろ、女王さまの方が向いているのかもしれないね」
――この者の首を跳ねよ。
思わず、そんなフレーズが脳裏を過ぎった。
アリスの物語に登場する女王といえば、やはりハートの女王だろう。
事あるごとに死刑を宣告するわがままな国の妃。刑はろくに執行されたことすらないが、本人はすべての首を跳ねたつもりでいるらしい様子はどこか滑稽にさえ見える。
――気に入らないことがあるのなら、首を跳ねてしまえばいい。
そんなものが向いていると云われてもあまり嬉しくないのだけれど、実際にやっていることは変わらない気がして口をつぐんだ。
黙り込む私には気づかずに、猫の言葉が続く。
「僕もせっかくなら君みたいな女の子にお仕えしたいなぁ。ご主人様が選べないのもなかなかに辛いよ。ねえ、そうは思わない?」
「…………」
「アリス?」
「――えっ? あぁ、そう、ね?」
浮ついた声を上げて振り返れば、猫はきょとんとした表情を浮かべて。
「君が僕の飼い主だったらよかったのにって、そう云ったんだよ」
聞いてなかった? と確認されて、素直に頷くわけにもいかずに考え込む。聞き流していたのは事実だし、それよりなにより。
今のはもしかして、皮肉だろうか。
「……アンタのご主人様って、公爵夫人だったわよね」
物語の途中でアリスが出会う、激しく泣き叫ぶ赤ん坊と子どもを豚扱いする公爵夫人と胡椒まみれの料理人。投げつけられる包丁は、本来料理人が持っていた。
本来ならチェシャ猫は公爵家の飼い猫として、その場面で初登場するはずのキャラクターだ。だけれどそこに猫の姿は見当たらず、家の中には胡椒とむせ返る血の臭いが充満していて、目も当てられない惨状だった。
そう、惨状である。
彼女らは、昨日私が、一家惨殺した。
その事実を既に知っていて云われているのならそれはまぁ申し訳ない話だし謝りたいところでもあるのだけれど、猫は特に気にした素振りも見せなかった。
「え? あぁ、そういう設定なんだっけ?」
どころかそんなことまで云う始末だ。
やっぱりこいつは、どこかがおかしい。
物語をまるで理解していないような、いっそ読んだこともないような気さえする。
「じゃあ、やっぱりアレも君の仕業かぁ。大丈夫だったの?」
「……私はね。ちょっと食欲なくなったくらいで。夕飯代わりのタルトが食べられなくなったわ」
「へえ、おかしな味でもしたのかな?」
「胡椒の味ならしなかったわよ」
呑気な口調で云われても困るのだが、仕方なしにそう答えた。
今日は花を刈り取るなんていう時計うさぎ曰く簡単な作業をしているし、確かに飽きが来る以外ではそこそこ簡単なお仕事だとも思っているけれど、昨日は本当に大変だった。
どうにもうさぎは私の力量を勘違いしているのか、妙に期待を持たれているのか。
いくら自分から殺されに来たからと云って、アレはひどい。
包丁を手渡されて、「さぁ刺してください」なんて云われるのだから、気が狂っているとしか思えない。云われるままに行動した自分が一番おかしくなっているのも否定できない。せめて飼い猫が被害者の顔をしてくれれば、異常なのだと思い直せるかもしれないのに――まぁ、加害者たる私が云うことでもないんだろうけど。
……そういえば、昨日も結局はしていなかったんだ。殺し合い。
あれだって一方的な殺戮で。私はまるで単なる殺人鬼のようで。
気がつけば、私を囲む茨は真っ赤な返り血に染まっていて。
血の海にはカードが三枚浮かんでいた。
公爵夫人、豚になった赤ん坊、それから料理人。
私が昨日手に掛けたのはその三人だ。昨日私に殺されに来たのが、その三人だ。
今使っている包丁も、そのときと同じ。
「……うん。思ったよりひどい有様で、正直反応に困ったよ。うさぎの奴、順序立ててものを考えられなくなってるのかな」
見てきたということは、血の池地獄と化した公爵家の風景を思い出しているのだろう。眉間に皺を寄せる猫の険しい表情を眺めながら、口を開く。
「さぁ? アイツが云うにはね、私は優等生なんですって」
だから、無駄に期待されているのかもしれない。
なんたって、私は不思議の国に入る前からカードを入手していたのだから。
――あのとき。うさぎに出会う、少し前。
オレンジ・マーマレードをぶちまけたべたつく海に浮いていた『それ』が、私が一番に手にしたカードだ。
赤黒く染まっていたのはそいつが流した血のせいで、空中で手放したマーマレードの瓶に頭をぶつけたのが死因らしい。粉々に砕け散った硝子瓶の様子を思い出せば、さすがに即死だったろうと思う。
時計うさぎは『それ』を見て、だからこそ私に声をかけたのだ。
自分がルール説明をするよりも早くカードを手にした私が、アリスにふさわしいかどうかを見極めるために。
「……こんなゲームで優等生扱いされて、君は嬉しいの?」
ぽつんと。投げ捨てるように、吐き捨てられた。
「さあ? でも、こうするしかないんでしょう?」
私は笑う。笑うしかない。
チェシャ猫の疑問はもっともだ。時計うさぎが仕掛けてきたのは、至極簡単で、どこまでも真っ当さから外れた最低のゲームだったのだから。
この世界におけるアリスの行動理由と、その条件。
『条件1、不思議の国の住人を殺害する』
殺害方法は問わず。ただし、必ずアリスが手を下すこと。住人が自ら命を絶った場合は違反とし、クリア条件を満たさないものとする。自殺の手助けは認められる。
『条件2、住人殺害後はカードを回収する』
不思議の国の住人を殺害せしめた場合、その遺骸はトランプのカードへと変化する。アリスはこれを集めること。規定枚数に達した場合、ゲームクリアと見なす。
『クリア報酬、アリスの願いの成就』
不思議の国に不可能はない。どんな願いでも必ず叶えられるものとする。また、ゲームプレイに不都合な事情があり、それが願いに付随する場合は、先だって願いの一部を有効とする。ただし、クリア条件を満たせなかった場合はその願いは取り下げられる。ゲーム期間中に与えられた有効条件も返上されるものとする。
時計うさぎが私に告げた数少ない情報は、それくらいのものだった。他と云えば、私が奴を追い回した結果もたらされた『ターゲットの居場所』だけだ。
不思議の国に足を踏み入れるその前に殺したのは、アリスが最初に出会ったネズミだったそうだ。それからすぐに時計うさぎの家に連れて行かれ、着替えを与えられた。
アリスらしい服装にと云って真っ赤なワンピースとエプロンを持ってきてくれたトカゲのビルは、「キレイなお召し物を汚してはいけないから」と云って、屋根から突き落とされることを望んだ。ドードー鳥は溺死がいいと、涙の池で頭をエメラルド色の水に押し込まれて息絶えた。公爵家の三人は、「さぁどうぞ」と包丁を差し出してきては私の構えた刃物に次々と飛び込んだ。
既に六人、殺している。私がこの手にかけてきた。
『殺し合い』というよりも、一方的な『殺戮』に既に慣れきっている。
こうすることが当然なのだと思いながら、流されるままに、大好きなはずの物語を踏みにじる行為を繰り返して。気づけば私は真っ赤なアリスになっていた。
相手の命を奪うことに抵抗がなかったのかと聞かれると、今でもよくわからない。
はじめのネズミは完全に無自覚だったし、トカゲのビルは背中を軽く押しただけだ。
その時点で音を上げていればよかったろうに、翌朝私はドードー鳥に会いに行った。うさぎに云われて来たと告げればドードー鳥は鷹揚に頷いて、それならばと涙の池へ私を案内したのだ。「溺死がいい」と、自ら池に頭を突っ込んで。
あのときはまだ状況に流されながら倦み疲れていたくせに、次の日は公爵家で血の海を見て食事が喉を通らなくなったくせに、今日は平気な顔をして朝食をとって紅茶を飲んで、おまけにケーキまで食べてきて花を刈り取っているのだから笑えてくる。
笑えてくるのだけれど、笑えているのかはわからない。
私は一体、なにをしているんだろう。させられているんだろう。
足が、動くからと云って。
自由に歩けるからと云って、誰かを殺し歩くなんて、おかしいに決まっているのに。
でも、だってほら、おかしいじゃない。
「アンタが、私をここに連れてきたのよ。最初からわかってたんじゃないの?」
願いを叶えるためには、不思議の国の住人を手にかけなくてはならない。
そうしなければ、私の願いは叶わない。
願いを叶えてくれると云ったのは、方法を教えてくれたのは、チェシャ猫、アンタじゃないの。
「……邪魔、しないでよ」
こんなところで、私の思考を止めないでほしい。
私は今、夢を見ているんだ。夢の中でなら、どんなに現実から外れたことだって起きてしまう。私は何度も何度でも墜ち続けては死んでしまう。だったら私が誰かを殺す夢を見ることだってあるだろう。殺人鬼にだって身と落とすだろう。
私は夢の中にいる。最悪に赤くて黒い、嫌な厭な夢の中に。
願いを叶える、それだけのために、もがきながら歩き続けている。
お願いだから、邪魔をしないで。
案内したのは、アンタでしょう?
「…………そうだね、君の云う通りだよ。アリス」
どこか疲れた声で猫が云う。素直に呆れてくれた方が余程に気楽なのに、ただの同調でご機嫌伺いでもするかのような言葉遣いに嫌気が差して顔を背けた。
「現実主義者の君が、こんなに早くこの国に染まってしまうなんて思わなかったけど」
そうして責め立ててくれた方が、本当に気楽でいい。
あぁ、もしかして、ずっと感じていた猫の視線の意味はこれだったのかしら。
自身の願いのために誰かを殺すような薄情な女の子は、アリスに向いていないとでも云いたいのか。まったくその通りだと思う、けど。
「それでも僕には、君を止める理由がないよ。だから止めない。君がゲームをクリアしてその願いを叶えるまで、僕は君のために働くよ」
それこそ、女王にかしずくようにして。
猫が、視界の端で頭を垂れる。
「僕がこの世界で出来ることは、君を助け、君に従い、君を守る、それだけだ。僕のご主人様は君ではないけれど、僕は自分の意志で君のためだけに行動しよう。それが僕に出来うる最上級の親愛表現で、最大限の贖罪でもあるだろうから」
「――――贖罪?」
耳慣れない言葉に首を傾ぐ。
それは確か、罪を償うという意味そのままだった気がするのだけれども。
顔を上げた猫が喉を鳴らす。笑ったのか唸っているのかはわからなかった。
ただ、青灰色の瞳はまっすぐに私を映している。それはまるで、涙の池だ。
「こんなところに君を招待したのは僕だからね。償いは、必要だろう?」
本心を語らない猫の言い草は、どこまで信用できるともわからない。
けれど真摯な口調と声に、反論も文句も云えるはずがなかった。
たとえそれが猫の自分勝手な自己満足でも、私に否定する資格はない。それほどまでに、強い意志で吐き出された言葉に思えたから。
「……そう思うなら、これ以上邪魔しないでちょうだい」
気圧されて言葉を失くした私がようやく絞り出せたのは、繰り返しの一言だけだった。
時間がないのとうさぎの口癖を重ねれば、猫は身を引いてさっきまで寝そべっていた木の幹へと背中を預ける。それ以上口を開く様子もなく、視線を向けてもニヤニヤと笑みを浮かべているだけだ。黙ったまま背後に立たれているのも厭な話ではあるけれど、邪魔をするなという私の命令に従ったのだろう。
真実までを口にしなくとも嘘はないチェシャ猫の言葉は、時計うさぎのそれよりは幾分安心できるはずなのに。どうしてだろう。
今はひどく、彼の言葉が怖かった。
チェシャ猫に渡された草刈り鎌を強く握る。目の前には鮮やかな色と色。悲鳴じみた絶叫を生み続けているあでやかな花めがけて、大ぶりの刃を振り下ろす。
血しぶきのような声が上がり、切り裂かれた花の形状が変化する。
しおれて、しなびて、収縮して、最後には植物であったことすら忘れて、小さなカードとなって地面に落ちていく。
真っ白なカードが一枚、出来上がった。
口の端から、苛立ちを含んだため息がもれる。
地面には芝生を覆い尽くさんばかりの勢いでカードが広がっている。そのどれもこれもが真っ白で、模様ひとつ存在しない。トランプの中に入った予備の白紙カードが大量生産されている状況なのだ。
……話が違う。時計うさぎの奴、今度はなにを伝え損ねているんだろう。
住人を殺害すればカードになるはずなのに、目の前には白紙が山積みになっていく。
殺害対象が間違っている、というのはありえない。花を刈り取ればそれでいいと、うさぎは確かに云ったのだ。
「――ねえ、アリス?」
「…………何よ、チェシャ猫」
おそるおそるとかけられた声に、ゆっくりと時間を持って返事をする。舌の根も乾かないうちから声をかけてきた相手に振り返ると、苛立っているはずの私よりも更に憤りを滲ませた表情を浮かべた猫がそこにいた。
「まさかとは思うけど――うさぎの奴、そんなことまで君に教えていないのかい?」
「……なに? なんのこと?」
猫の云うことがわからずに首を傾げる。それが決定打となったらしく、私に対しては少なくとも笑顔を保っていた猫の顔がはじめて歪んだ。
外された視線が憎々しげに誰かを――おそらくは時計うさぎを睨めつける。舌打ちが響いて、唇だけが早口で動いた。
――あの野郎、ふざけやがって。
多分、そんなことを呟いたように思う。
やがて困惑した私に気づくと、急に取り繕った笑みを貼りつけて声を上げる。
「あぁ、ごめんごめん。なんだか非効率なことをしているとは思ってたんだけど、まさか知らないなんてさ、気づかなくって」
「だから、さっきからなんの話をしてるのよ? この白いカードのことを云ってるなら、ちゃんと教えてちょうだい。これ、こいつら、どうしてカードにならないの?」
「カードにはなってるだろ? ただ白紙なだけで」
当たり前のように云われてしまう。それはそうなんだけど。そうじゃなくて、と口に出すより先に、いつの間にか目の前まで近づいていたチェシャ猫の手が差し出される。
「今まで集めたカード、出してごらんよ」
「……? えぇ、いいけど……」
別に取りはしないからさ、と念を押されてエプロンのポケットから『それ』らを取り出す。促されるままに手渡すと、チェシャ猫は両の指で受け取った六枚のカードを扇型に広げて見せた。目が泳いで絵札を順に追い、止まる。
…………あぁ、本当に。どうしてこんな単純なことに気づかなかったんだろう。
自分に呆れ返るしかない。
目の前に並んだカードは、全部で六枚。そのどれもが一様に同じ色で、同じ柄だった。
赤く染まった心臓を示す模様。
ハートマークだけが、上下に十二個、並んで咲いていた。
「アリスは、集められるスートが最初から決められているんだよ」
赤のハート、青のスペード、黄色のダイヤ、緑のクローバー。
指折り数える必要もないほどに明快な分類だ。
チェシャ猫が云うには、不思議の国の住人はスートで分類されており、アリスはゲーム開始時に集めるスートを決めるらしい。
赤いハートのアリスなら集められるのはハートのカードのみ。その他のカードはたとえ手にかけたところで白紙にしかならず、収集するのは不可能だ。
私の場合、おそらく最初にマーマレードの瓶を当ててしまったネズミのスートがハートだったのだろう。故に、うさぎがそのまま私にハートの担当を割り振ったのだと考えれば実に自然な流れではある。とは云え。
「あいつ……本当にそういう大事な情報を前もって伝えておかないのね。ここまでひどいとは思わなかったわ」
無駄な労働を課せられたことに対する怒りは、そう簡単に拭えるものではない。
苛立ちを含んだままに振り返り、広がる花壇を睨んで云い放つ。
「私が探しているのはハートのカードだけよ。該当する者は、今すぐここに頭を垂れなさい。一枚残らず、刈り取ってあげるから――!」
号令と共に、花の動きが一斉に止まる。顔を見合わせてひそひそ話でもするように揺れていた色彩は、やがてたった一輪の白薔薇を残して引いていった。
思わず、自分の足元に目を落とす。
周辺に広がっていた茨は、今は見えない。
胸を撫でおろして正面にそびえる花へと目線を移す。他に進み出てくる花はなく、どうやら刈り取れる花は元からひとつきりだったらしい。
本当に、ひどい重労働を課せられたものだ。
大輪の花の前に立ち、鎌を振りかぶる。
死刑執行を待つ罪人のように深々と首を垂れた薔薇は、真っ白だった。
あの人の、好きな色。いつもあの人が着ている色だ。私を覆う茨と同じで、厭な色をしている。
その者の首を跳ねよと、女王は叫ぶ。
――馬鹿馬鹿しい。
首なんて、自分で刈り取ればいいだろう。
右手に持った重たい凶器を振り下ろす。
鈍い音が響いて、地面に落ちたのは軽いカード一枚だけだ。
ハートのマークが散らばったカードを拾い上げる。
傍に寄ってきたチェシャ猫から、残りのカードを受け取る。――これで、七枚。
「お疲れ様、アリス。今日のお仕事は終わりみたいだね?」
「……えぇ、そうね。本当ならもっとすぐにケリがついていたんでしょうね」
ふつふつと、怒りが込み上げてきて止まらない。
あのうさぎ。今ならまだ森の奥で呑気にティータイムでもしているだろうか。
走って帰って、文句のひとつでも云ってやらないと気が収まらない。
握りしめて折りそうになったトランプをエプロンのポケットにしまい込み、右手で草刈り鎌を強く掴む。耳があったら、切ってやるのに。
「チェシャ猫、悪いけど、もうアンタの相手をしている暇はないわ。私、時計うさぎを追いかけないといけないの」
「うん、知ってるよ。またね、アリス」
チェシャ猫は相変わらずの笑みを浮かべて手を振ってくる。先程までの憤りなんてとっくに忘れたと云わんばかりの顔で、尻尾が左右に揺れている。
ついてくるかと思ったのにそんなこともなく見送られ、特に別れの挨拶もなく踵を返した。これが時計うさぎなら、次はどこへ行くのか強引にでも聞き出すところだけれど、チェシャ猫に対してはそんな気も起こらない。
きっとその辺の木を見上げれば、いつものように笑っているに決まってる。
だって、それがチェシャ猫の役割なんだから。
そんな風に思えたから、それ以上を云わずに別れを告げた。
切り裂かれた花びらの破片が風にあおられて視界を覆う。
振り返ると、そこにあったはずの庭園は既に姿を消していた。
***
「どういうことなの」
道すがらに溜め込んできたはずの文句は、時計うさぎの顔を見た途端、たったこれだけに凝縮されてしまった。
先ほどまでとまるで変わらない場所にティーセットを広げてくつろいでいた男は、テーブルの上に叩きつけられたトランプを見ても特に表情も変えない。
「行儀が悪いぞ、メアリ・アン」
小さなため息を吐き出され、もう一度テーブルを叩く。
男の眉間に皺が刻まれたが知ったことではない。機嫌が悪いのは、寧ろこちらの方なのだから。
「このトランプ、よく見たらハートマークしかないじゃない。庭園で花を刈っても、全部白紙のカードになったわ。手に入れられたのはたったの一枚だけ。これは一体どういうことなのかしら、うさぎさん?」
手元にあるのはハートの数字が羅列したカードが七枚。いわゆる絵札と呼ばれるA、J、Q、Kはまだ出現しておらず、一揃えにも及んでいない。それでもこの並びを見れば否が応にも気づくだろうし、気づいておくべきだった。
「私がハートの札しか集められない理由、あるんでしょう? ちゃんと説明なさい」
猫に揶揄された高圧的な口調でもって問い詰める。
対する時計うさぎの返答は、相変わらずの慇懃無礼で偏屈な声。
「驚いたな、今更気がついたのか。既に理解しているものと思っていたが」
……これだ。これだからこの男は。
荒っぽく椅子に腰掛け、ティースタンドに並べられたサンドウィッチを取り上げて、口に運ぶ。もう何時間もそこにあるはずのパンは少しもぱさついておらず、はさまれたレタスもみずみずしさを保ったままだ。
示し合わせたように差し出されたティーカップを取り上げて喉を潤すと、少し気が鎮まった。本当に、こういうことはできるのに、どうして必要な情報開示ができないのか理解に苦しむ。もはやわざとやっているとしか思えない。
チェシャ猫もそんなことを云っていた。もしくは順序立てて物事を考えられなくなっているのではないか、とも。
目の前に座り、ポットを傾けて自身のカップに紅茶を注いでいる男は、朝見たときとまるで変わらず陰鬱な表情を鬱蒼とした前髪の下に浮かべている。元よりこいつが正常な思考回路を持っているとは思っていないけれど、それでも端々に感じられる異常さはチェシャ猫のそれをはるかに超えている。
物語の中に登場するチェシャ猫曰く、
『この国の住人は、どいつもこいつも気が狂っている』――のだそうだ。
確かに、ここの住人はみんなして一様におかしくなっているだろう。自ら望んでアリスに殺されにくるのだから、気が触れているとしか思えない。
そもそも住人を殺すことを前提として、それが成り立ってしまうゲームが開催されているのがありえないのだ。そんなことを何度も繰り返せるわけもない。いつかは住人がいなくなってしまうに決まっている。だから本当にこんな状況はおかしくて――
「あ、れ?」
…………なんだろう。今、なにかとてつもなく重大な見落としをしたような。
空になったカップを下ろすと、ソーサーが小さく音を立てる。
途端に私の思考はうやむやに消えていき、怒りや疑念といった矛先が、すべてうさぎへと方向転換する。これ以上うさぎのいいようにされるのは我慢ならない。こうなったら、こちらから必要な情報を取り上げるしかないだろう。
「状況を整理するわよ、時計うさぎ。私はここにあるように、ハートのスートしか集めることが出来ない。ここまでは間違いないのね?」
「その通りだ」
悪びれた風もなく、鷹揚に頷くうさぎ。
白い手袋をはめた手が、指折り数えるように曲げられる。
「ハートのAからKまでを十三枚。それが赤いお前に集められる一揃えのデッキだ。メアリ・アン、まさかトランプをすべて集める気だったわけではあるまい?」
「そのまさか、とは云いたくないけど。集める枚数が格段に減った事実はありがたいわね。もうひとつ確認よ。今までアンタが提示してきた六枚――最初のネズミは除くけど、他の五枚、私に殺されに来たあいつらはハートのスートを持っていた。今日の花も、最終的には私の声に応えたわ。カードになる住人自身と、それからアンタは、住人がどのスートに分類されているのかを知っている。そういうことね?」
――該当する者は、今すぐここに頭を垂れなさい。
ハートだけを求めた私の声に、花は答えた。顔を寄せ合い相談するようにして、たった一輪が進み出た。つまり、自我の薄そうだった花ですら自身のスートを理解しているということになる。そして、今までの行動から鑑みて、うさぎは住人すべてのスートを認識していると思っていいだろう。
ここまでの考えは間違っていなかったようで、再びうさぎが首を縦に振った。
要するに、今日もはじめから刈るべき花の種類ぐらいは教えてくれればもっと簡単に作業が済んでいたという事実も同時に証明されたので、一旦押し込んだ腹立たしさがぶり返してくる。そこまでをねだるのは贅沢だとでも云うんだろうか。
「紅茶にジャムはいかがかな、メアリ・アン」
人に行儀を問うくせをして、携えたステッキの先端でつついて小瓶を移動させてくるのだから厭な大人だ。更に、勧められたのが薔薇を煮詰めたジャムなのだから、通り越して厭味ったらしい。
「どうせ聞いたところで無駄でしょうけど、他にはなにを隠しているのかしら。ねえ、ミスターラビット? 私に云っていないことがあとどれくらいあるのか、そこのクッキーでも重ねてみせてくださらない?」
「食べ物で遊ぶのは感心しないな、メアリ・アン」
答える気はさらさらないらしい。本当に、腹の立つうさぎだ。
ムカつく、と口に出してしまえば簡単なのだが、レディらしからぬという思いに邪魔をされる。こんなうさぎを相手に淑女を気取るのもどうかとは思うんだけど。
まだまだ隠されていることは多くあるようで、前途は多難といったところか。時計うさぎは確かにサポートキャラクターではあるけれど、ゲームの難易度はそんなにやさしくないらしい。
「ともあれ既に半分以上を手にしているのだから、そろそろ本気を出してもらいたいものだな。メアリ・アン、時間がないんだよ。わかっているな?」
改めて念を押されることでもない。
手のうちには、既に七枚。集めるべきは十三枚。うさぎの云う通り、折り返し地点は通過していると云っていい。
チュートリアルは終了で、本編に移行しろということだろう。
テレビゲームなんてそこまで熱中してやったことがないから、それらしいことを云ったところで本当はよくわかっていないのだけれど。多分、現状で必要な支度とやらは完了したと思っていいに違いない。
勝利条件は、十三人の住人の殺害。
武器はある。情報も、時計うさぎから無理矢理に引き出せば問題ないし、必要とあらばチェシャ猫もいる。便利アイテム扱いしたら拗ねるかもしれないが、うさぎよりは余程に信用のおける相手だから問題ない。
そしてなにより――今の私には、フィールドマップを動き回れる足がある。
もしも私を置いていくと云うのなら、追いかけて、追い回して、追い詰めて――
首を、跳ねてやればいい。
私を置いていくなんて許さない。
置いてかれるのなんて、大嫌いなんだから。
この国の住人は誰しも狂っているから、そんな心配は無用だろうが。
あぁ、今日も――真っ赤な夢が、ワンピースを染めていく。
本当に返り血で染まっていくのは、茨だけだっていうのにもかかわらず。
「大変だ。遅れてしまう。時間がないんだ、メアリ・アン」
仄かに甘ったるい香りが空気を満たしていく。
うさぎの声は、紅茶に溶けた砂糖のように甘く耳朶に響く。
私の思考も散漫に溶けて混ざってしまう。
そんなことを云いながら、やさしい顔をして私に紅茶を注いでくれる時計うさぎは、どこか世話焼きのお兄さんのようでもあった。
明日はストロベリーパイが食べたいわ。
ささやけば、時計うさぎは頷いて。わがままを云う私を、愛おしげに見つめていた。