5.a grin without a cat
ラブコメ回です。
そんな、長い長い夢のような一時に浸れるほどの時間を、私は作業に費やしていた。
うんざりとするくらいの時間はとうに過ぎているはずで、ちょっとばかり回想でもして気を紛らせたところで、迫り上げてくる思いに変化はない。
私は私として、アリスとして、存外に強い信念を持ってこの現状に身を投じているし、それを受け入れたと信じていた。だけれどその想いに揺らぎが生じているのも事実である。
どうしよう。
正直云って、飽きてきた。
今日の作業、すっごく面倒くさい。
目の前には色鮮やかな花壇が広がっている。
赤、青、黄、紫、ピンク、オレンジ、それから緑、緑緑緑緑緑。
花弁がちぎれて葉が舞って、茎が折れて蔓が裂ける。
刃物を入れる度に絶叫がこだましては、次々に朽ちていく。
あとに残るのはすべてが白く、そして白い。
地面の上にばら撒かれた『それ』に視線を落として、自然とため息が口からこぼれた。
ハズレもハズレ、大ハズレ。
こんなのは、本当に一方的でしかないだろうに。
確か私は、殺し合いに来たはずだったのに。
しっかりと握った柄が汗でべたついて気持ちが悪い。こらえながら手を振り上げて、そうして下ろす。それだけで終わってしまうものを、果たして殺し合いなどと呼べたものだろうか?
いや、違う。どうしたってこれは、一方的な殺戮だ。
だって私、今まで殺し合いなんて、一度だってしていない。
「あーあ、いけないよぉ、お嬢さん。ため息ついたらしあわせが逃げちゃうんだから」
と、呑気な声が背後からかかり、作業に没頭せざるを得ないでいた私の手を止める。
正直云ってこの流れでは一番聞きたくなかったし、むしろタイミングが良すぎて笑ってしまいそうな展開に、ちょっとばかり腹が立つ。
なので振り返る遠心力を利用して――思い切り手の中の凶器を離してやった。
結構前に考えていたことだけど、前言撤回。暴力的な行為は、脳内で考えるだけでは我慢できないタイミングもある。
「っとわぁ!? あっぶね!」
「……ちっ、避けたか」
思わず少女らしからぬ舌打ちをひとつ。はしたないのは承知の上だ。
「ちょっと、なにその全力で悪役な台詞! 僕の知らない間に君になにが起きたの!?」
全力投擲したはずの包丁は目的をはるかに逸れて、木の根元近くに突き刺さっていた。
私の背後から数メートル先の木の枝に腰かけているのは、見覚えのある、ありすぎる生き物だ。たった一度くらいしか会っていないけれど、厭ってほどに記憶している。
回想に重ねられた回想の中とまるで変わらない飄々とした態度が、本当に癇に障る。
エプロンの裾で汗ばんだ手のひらを拭って、息と共に文句を吐き出す。
「アンタが人をとんでもないところに寄越してくれたおかげでね、ここ数日で信じられないくらいに進化してるのよ。少し前の私が見たら、多分大泣きすると思うわよ」
「僕も少しばかり涙目になったよ……? だって今、君ってば本気で投げたよね?」
明らかにドン引きしましたとばかりの態度と仕草で肩をすくめられた。
うるさい。なんとでも云えなんて云ってやらないから黙ってろ。
口をつきかけた雑言を飲み込んで、全身で向き直りながら木の枝を睨みつけてやる。
枝の上に座っている姿は大人しい子供のようで、だけれどにやつく口元はちっともいいこになんて見えない。淡い琥珀色の髪はやわらかく揺れていて、ブルーグレーの瞳は今は木陰の下で丸い瞳孔をその中心に据えていた。印象的な色合いの髪や瞳と違い、パーカーにハーフパンツといったラフな服装は、不思議の国というメルヘンチックな世界観とは少々不釣り合いに思える。
私より華奢にも思える容姿は、見た目だけなら少しばかり背伸びした中学生といったところだろうか。三十路前後の時計うさぎよりはこいつの方が年齢的には近そうだけれど、実年齢なんてまるでわかったものじゃない。
第一、見た目からして人間なのかすら判別ができない。
時計うさぎは、あれはもう名乗っているだけのようなものだ。どこからどう見たところでアイツを白うさぎだと瞬時に断言できるような人間はいないだろうし、云われたところで信じがたい。
本人が「そうだ」と宣言しているから仕方なく認めているだけであって、キャスティングとしては盛大に誤っていると思わずにはいられない。
その点、目の前のこいつなら話は別だ。
一応は多少なりとも人間に見えなくもない肉体構造はしているけれど、光の収縮で大きさを細長く変える瞳孔だとか、やわらかな髪から覗く毛に覆われた三角形の耳だとか(当然、あるべき場所に人の形をした耳は見当たらない)、だぼついたハーフパンツから垂れ落ちて左右に楽しげに揺れている尻尾だとか。機嫌でもいいのかそれとも悪いのか、たっぷりとした毛で覆われた尻尾は以前見たときよりも膨らんで、羽箒みたいになっていた。
見たままを述べるならば、猫耳と、それから尻尾。にやつく口元には尖った八重歯が見えていて、光の加減で細長くなる瞳孔なんてまるでそのものでしかない。
「……アンタ、チェシャ猫だったのね」
「うん、そうだよ。云わなかったっけ?」
云われていたら、もう少し楽にことが運べた気がしないでもない。
悪気なく木の上で笑うその生き物――チェシャ猫を見上げて、もう一度ため息をついた。
すぐさま「しあわせが逃げるよ」なんて声が追いかけてきたけれど、無視をした。
アリスの物語の中でなら、時計うさぎと同じくらいに知名度があるのだろうか。
チェシャ猫――ニヤニヤ笑いのおしゃべり猫。
いくら神出鬼没だからといって、先んじて向こう側に顔を出すなんて卑怯じゃないのか。
私にこの国の行き方を教え、ご丁寧にも突き落としてご招待してくれたことに対する謝罪なり誠意なりはまるで顔に出さず、チェシャ猫は尚も楽しげにこちらを見下ろしている。深夜に私の部屋へ唐突に現れたときと同じく今回もひどく突然に現れたのにあんまり気にならないのは、やはりこいつがチェシャ猫だからなのだろうか。
それとも単純に、私が望むときにちょうどいいタイミングで出現するのが無意識に嬉しいのか。……いや、それはないな。うん、ない。だって腹立ったもの。
「なんだか反応鈍いなぁ。僕の正体を知ったらもう少し驚いてくれるかと思ったのに」
残念、なんてオーバーリアクションで両手を広げられても困る。なにを期待されていたのか知らないが、あいにく私にそんなサービス精神は存在しない。
なので、表情ひとつ変えずに云ってやる。
「なによ、変なコスプレだと思ってごめんなさいとでも云ってほしいの?」
「え、そんなこと思ってたの?」
猫の耳がぴくりと動く。
「まぁ、多少は」
正直に云えば、あのときはそう考えていたはずだ。
今だって現実的に考えれば、ちょっとファンキーな格好をした中学生が出来のいい猫耳をつけて遊んでいるようにしか見えないだろうに、どうしてか自然と「こいつはチェシャ猫なのだ」と認めてしまっている。
もっとも、深夜に乙女の寝室へ不法侵入してきたことだけでも十分に非常識極まりないのだから、この生き物が普通じゃないことは最初からわかっていたのだけれど。
「えぇえ、ひっどいなー。耳も尻尾も本物だよ、現物だよ。なんなら触ってみる?」
「結構よ。私、猫ってそんなに好きじゃないの」
かわいこぶって傾げられる首の動きと一緒に尻尾が揺れる。多少なりとも可愛いと思えればいいのかもしれないが、残念ながらまるでそんな感情は湧き上がらない。
猫は、好きじゃない。
だから仕方ない。
「むー、なんでさ。猫の方がうさぎよりよっぽど可愛いし、良心的なのにな」
良心的な生き物は人を鏡の中に突き落としたりしないと思うが。
とは云え、なんで、と云われても。
……なんでだっけ。
とっさに言葉が出てこなくて、口だけがぱくぱくと動く。
あぁ、と喉から呻き声みたいな音がして、適当な答えを絞り出す。
「……とにかく、好かないものは好かないのよ。嫌いじゃないだけマシでしょう?」
「それってそんなに大差ないと思うんだけど」
「そんなことないわよ。好きと嫌いと興味ないは、まるで別物だもの」
好きの反対は無関心だという説がある。
ならば嫌われていることは強く意識されているということであって、許容してしまえばそれもまた良しという解釈もできるんじゃないだろうか。そんな方向性を間違えたポジティブシンキングは、私ならごめんだが。
「うぇー。それでもなんか不満だぁ……」
その点に関してはチェシャ猫も同様だったようで、その後もしばらく不満そうに尻尾を羽箒のように振っていた。木の葉が頭上に墜ちてきて邪魔だったので睨みつけながら髪をはたいていると、今度は木の枝に器用に体を寝そべらせながらこちらを見下ろしてくる。
「なにをニヤニヤしてるのよ」
余裕ぶった笑みが癇に障って、思わず低い声を出す。
どうしてだろう。うさぎとは違う意味で、この猫は私の中のなにかをひたすらに逆撫でしてやまない。
なにに苛立っているのかは、自分でもわからない。
猫は好かない。だからだろうか。
「僕はそういうキャラなんだよ。知ってるでしょ?」
不機嫌な私とは反対に軽い口調で当たり前だと笑い声を立てるくせに、細められる目はちっとも笑っているようには見えなかった。
ずっと、そうだ。
口元ばかりでにやつく笑いを浮かべながら、この生き物はまるで楽しそうな目をしていない。鬱屈とした色は時計うさぎといい勝負になりそうなほどに淀んでいて、私を眺める目線はどこか物悲しげに渇いている。
時計うさぎは、「歓迎する」と私の手を引いた。
けれど本来なら、チェシャ猫が私をこの国へ案内した張本人だ。
それなのに、まるで歓迎されている気がしない。
何故来てしまったのか、と無言で責められている気さえしてくる。それはさすがに錯覚だろうし、被害妄想なんだろうけど。
「まぁ、でもさ。当初の目的はまずクリアできたんだし、君はきちんと話を進めてもいるようだから、良かったんじゃない?」
「……そうね、誰かさんが叩き落としてくれたおかげでね」
「根に持つなあ。あのせっかちの興味を引くには、あぁするのが一番だったんだよ――ちゃんと時計うさぎは捕まえられたでしょう? ならいいじゃないか。それにその格好、すっごく似合ってるよ」
頬杖をつきながら空いた手が弧を描き、指先が足の先から頭の上へとゆっくりとなぞり上げていく。
つまさきの丸くなった黒いエナメルの靴。そこから伸びる両足は白と黒のニーソックスに包まれてスカートのフリルの中へと消えている。フリルとエプロンは白く、ひたすらに白い。
けれどワンピースは、違う。これだけが私がまとう衣服の中でただひとつ、異様な色彩に染まっていた。
まるで、血を吸い込んだみたいな赤。目に痛いほどの、紅。
胸元で光る小さな銀色の懐中時計も、不吉なほどの赤を反射している。
似合っていると云われてもピンと来ない。それよりも何よりも。
「……ちょっと聞いてみたいんだけど、いいかしら?」
「なんだい?」
不意の問いかけに、チェシャ猫は素直に応じてくる。
今まで一方的な物言いのうさぎとばかり戯れていたので、猫が逐一反応を返してくれるのは実に話しやすい。
おかげで、ここに至るまでひとりで抱え込んでいた疑問を口にする気がようやく起きた。
……実のところ、初めから違和感はあったんだ。
「アンタ、私がアリスに見える?」
真っ赤に染まったワンピースに白いエプロン、黒い靴にモノクロボーダーのニーソックス。髪の色だって少し茶色がかっているけれど、黒と云い切っても支障はない。
この姿、私の知っている童話のアリスとはまるで色合いが違うのだ。
有名なアニメーション映画で広まったアリスの色合いは金髪に青のエプロンドレスだし、原作のモデルとなったアリス・リデルは黒髪のショートヘアだったと云われている。
勿論、世界中に広く愛される『アリス』に衣装に違いは多々あるかもしれない。だけれど、そういったのとは違う疑問が私の中には生じている。どうにもしっくりこないのだ。『今の私はアリスではない』――そんな違和感を、そのまま着込んでいる感じがしてしまう。
「……んん、君がどう感じているのかは、僕にはよくわからないけど」
口元にはニヤニヤ笑い。目を細めてこちらを眺め、猫が嘯く。
「今の君は、とっても魅力的だと思うよ」
甘ったるい声。どことなく自分の言葉に陶酔気味な言葉を一蹴して、私は云う。
「お世辞を聞きたいわけじゃないんだけど」
「だろうね、でもさ」
木の上で器用に肩をすくめると、猫はぽつりと呟いた。
「不思議の国が認めたのなら、君はアリスにしかなれないよ」
それまでの気さくな口調とは一転して、いやに淡々とした言葉だった。
にやつく笑いも一瞬影を潜め、無表情に近い顔で告げられる。
それが本来の姿なのだろうか。
チェシャ猫は、息を呑む私を見つめている。青灰色の瞳はどこまでも淀んでいた。
――『涙の池』。
不意に、あのエメラルド色の湖面が頭に浮かぶ。
どうしてかはわからない。色だって違うのに、何故だかチェシャ猫の瞳はあの静けさをたたえた水際を想起させた。
それにしても、国が認めたというのはどういう意味なのか。
私はてっきり、アリスとして扱われる基準は時計うさぎを捕まえることにあるのだと思っていた。現れたうさぎは確かに私を認めて、手をとった。
そこからすべてが始まったように考えていたのだが、ひょっとしたらなにか勘違いをしているのかもしれない。
第一、 私が選ばれたのはどうしてなのか。考えたこともなかった。
私をこの国へ連れてきたのは時計うさぎだ。
けれど、『はじまり』はどこから始まっていた?
顔を上げる。猫が嗤っている。
そうだ、本来は、こいつが。
「ねえ、チェシャ猫さん?」
そんな呼び方でいいのかはわからなかったけれど、他に思いつきもしなかったので呼びかける。
猫は少し唇の端をつり上げただけで、特になにも云わなかった。厭がる素振りは見せなかったので、そのまま続ける。
「アンタは、私になにをさせたいの?」
人を唆して、鏡の中に突き落とした。願いを叶えるすべを教えてくれた。
深夜に人の部屋に勝手に入り込んできて、現実感のまるでない夢に叩き込んだ。
私は確かに叶えたい願いを抱えていたけれど、アリスが私である必要性は本来どこにも存在しない。そもそも、私が抱えたこの願いをどうしてチェシャ猫は知っていたのだろう。なにがしかの理由で私を選んだというのなら、こんなにも歓迎されない謂れはないはずだ。無意識に責め立てるような視線の意味がわからない。
「さて、なんの話かな」
なのに、猫はつまらなげに肩をすくめて木の上で体を伸ばすだけだ。
「なにかをなしたいのは僕じゃなくて君だろう? だから僕は君をここに連れてきた。それ以外に理由が必要? ないよね。これは僕の意思じゃなくて君の願望だ。僕は確かに少しばかり強引だったかもしれないけれど、君の意思は尊重しているつもりだよ」
「人を突き落としておいてよく云うわね」
「……わかったよ、そのことについては謝る。ごめん。と云うか、アレに関しては君の行動範囲を考慮してなかったのが原因。うさぎを追いかけようにも、あのままじゃ無理だったでしょ」
いい加減に観念したのか、起き上がって姿勢を正すと深々と頭を下げる。琥珀色の髪から覗く猫耳が小刻みに揺れているので本心からの謝罪かは判別がつかないが、まぁよしとする。
それに、あのときの私に人よりも起動力に欠ける部分があったのは事実だ。だからと云って問答無用で突き落とすのもどうかとは思うが、自分が逆の立場だったら同じことをしそうだったのでこれ以上の追求はやめにした。
「なんにせよ、国が君をアリスとして受け入れている以上は問題ないよ。君の抱えてるその願いはきっと叶う。君がなすべきことを遂げればね。今は仮初でしかないけれど、未来のビジョンは見えただろうし」
願いが叶えば、欠けているものだって取り戻せるよ。
それが君の望みなんだから。
なんて、甘い言葉をささやかれる。
欠けているもの。なくなってしまったもの。取り戻したいもの。
あぁ、確かにそれは必要だ。誰にも譲れそうにない。
「まぁ、そう、ね」
あからさまに話をそらされながらも、つい頷く。
それは、そうだ。その通りだ。
云ってしまえば、現時点で私の願いは実のところは叶ってしまっている。
最終的にこの状態を維持できることこそが私の悲願であり、到達すべき目標だ。そのことについては重々理解しているし、故にこうしてアリスとして動いているのだ。
時計うさぎは、別に私の願いを叶えてくれる魔法使いではなかった。
代わりに、私の願いを叶えてくれるのは不思議の国そのものなのだと教えてくれた。
だからうさぎは起点であり、始点でもある。
それならば、用意された舞台にまで私を引き上げ、もとい引きずり落としたチェシャ猫は一体なにを目的にしているのか。それがはっきりしないのにもかかわらず、猫は尚もにやつくだけだ。なにも教える気はないと暗に云われているようで腹が立つ。
結局のところ、徹頭徹尾こいつは言葉足らずを貫くつもりらしい。
「それにしてもさ。さっきはお世辞として流されちゃったけど」
やっぱり君は素敵だよ。
そんな浮ついた台詞ばかりを吐き出して、満足気に笑うのだからひどいと思う。
「色々不満があるようだけど、その服、君にとても似合ってるよ。うん、スカート姿もいいね。僕は案外向こうでの君も好きなんだけども、そうしているともっといい」
「別にアンタの好みは聞いてないわよ」
「感想くらい云わせてくれてもいいじゃないか。本心だよ」
………………どうだか。
内心のぼやきでも通じたのか、「信用ないなぁ」と苦笑じみた顔で述べて、猫の体が揺れる。
どこまでがご機嫌とりのつもりなのかは知らないが、猫のこういった言葉はどうにも苛立ちを感じさせる。堂々とした態度で吐き出されているはずなのに、どこかで怯えのような感情が見え隠れする。壁の向こう側から顔を半分覗かせてこちらを伺われてでもいるみたいで、気持ちが悪い。おそらく猫自体にも自覚症状はないのだろう。当人だか当猫だかは上辺ばかりの笑みを浮かべているだけだし、私に対する飄々とした態度は一切崩そうとはしていないのだから。
ただ、こぼれる言葉が時折妙に苦しげなのが、厭だ。
気づいてほしいという無意識の懇願を受けている気がして、戸惑ってしまう。
なにをすればいいのかもわからないし、きっと望んでもいないだろうに。
猫は、本当に嘘つきだ。
「ともあれ、僕としても第一段階はクリアできて安心してるんだ。君をこの国に送り届けることができたし、君は無事にアリスの筋書きに収まった。今後はおとなしく役割を演じながら裏方でもさせてもらうよ。なにかわからないことがあるなら、訊いてくれればいい。元々そういったポジションだしね」
「あら、それはちょっとばかり助かるわね。あのうさぎ、必要最低限の情報すら教えてくれなくて困ってるのよ」
チェシャ猫の申し出に、胸の前で手を打ち合わせる。これまでは必要な情報がなさすぎたばかりに出来事に振り回され続けていたが、いまいち信用できないとは云え、多少なりとも情報に通じているだろうチェシャ猫がいるならばありがたい。
原点でも物語を引っ掻き回しているようで、アリスをそれなりに導いてくれているキャラクターだ。期待こそしていないが、少しくらいは役に立ってもらいたい。
ところが、猫は私の言葉を聞くと僅かに顔をしかめた。
「……なにしてるんだか、うさぎの奴。わざとかな」
吐き出される言葉の中、如実に含まれた嫌悪の感情に思わず首を傾げる。
思えば、チェシャ猫は時計うさぎを初めから知っている素振りを見せていた。明確に名前こそ云わなかったが、三階の大鏡に奴が現れることを教えてくれたのはチェシャ猫だったし、確実に見知った存在ではあるのだろう。
「そういえば、アンタたちって知り合いなの? うさぎからは名前を聞かないけど」
今更ながらに、お互いに面識があるのかは聞いていなかったことに気づく。
うさぎは元より必要な情報すら教えてくれないので敢えて伏せられている可能性もあるが、もしも向こうがチェシャ猫の存在を知らないのだとしたら。
いや、あのうさぎはどうしてか不思議の国の少女の物語に精通している素振りを見せているから『チェシャ猫』自体は知っているだろう。
それでも、目の前にいるこの猫の存在をうさぎが認識しているのかどうかが、何故だか妙に気になった。
「……何度か会ったことはあるけど、親しくはないね」
また流されるかとも思ったが、案外素直に猫が口を開く。
声に滲む嫌悪に変化はない。
何故だろうか。そんなはずもないのに、今までで一番チェシャ猫が人間らしく見えた。
「でも、僕と関わりがあることはあいつには云わない方がいいよ」
「どうして?」
思わせぶりな言葉に疑問を示せば、猫は悪戯っ子のように笑って。
「切り札っていうのは最後まで隠しておくべきだろう? 自分の手のうちを晒さない、表情にも出さないのがイカしたゲームのやり方さ。それにね――」
言葉を区切り、こちらに背を向けた猫の体が木の上で傾ぐ。
両足を枝に引っ掛けて、そのまま後ろ向きに倒れ込んだ。
当然、目の前には逆さまに笑う顔がぶら下がって、私を見つめてくる。
「男ってのはさ、意外に嫉妬深い生き物なんだよ」
………………誰が、誰にだ。
あのうさぎが、まさかそんな反応してくれるわけもないだろうに。
あんまりのジョークに笑う気も起きずにいると、逆さまだったチェシャ猫の体が空中を舞った。そのままきれいに一回転すると、芝生の上へと着地する。
地面に降り立って並ばれると、やっぱり私より少しばかり背が小さいのがよくわかった。実年齢は知らないとはいえ、年下らしい顔に不可思議そうな表情を浮かべながら、
「にしてもさぁ、さっきから気になってたんだけど、訊いてもいい?」
などという言葉を口にしてくる。
「アンタが私に質問してどうするのよ。答えられることなんてないわよ」
話が違うと不平を云えば、猫の尻尾が否定でもするかのように左右に揺れた。
「いや、これは答えてもらえると思うよ。ものすっごい疑問ではあるんだけれど、きっと君には理由があってのことなんだろうし」
云って、木の根元に突き刺さったままだったそれを拾い上げる。
先ほど振り向きついでに全力投擲した、本日の私の凶器だ。
黒い木製の柄に刃渡りは二十センチ程度。ごくごくシンプルでどこにでもありそうだけど私には縁遠い部類の刃物を手にし、猫は問う。
「君、こんなところで包丁振り回してなにしてるの?」
「…………」
なに、と云われても。
「……草刈りじゃない?」
こくりと猫が首を傾げる。
「なんで?」
なんで、と云われても。
そんなの、私が訊きたいよ。