4.甘やかな悪夢
少しばかりの長期戦の結果、今日しかないと狙いをつけた決行日の夜。
その日は面倒くさがりの見回り当番が程よく手抜きをしてくれる曜日でもあって、本来ならば職務怠慢と訴えかけてもいいくらいなのだけれども、私にとっては目的遂行のためにこれ以上なくありがたい状況が作られる。
唯一の心配といえばこれから起こるべきこととその結果くらいで、いっそ気分は高揚していたと云っていい。
夕方に会ったあの人の前でボロを出さないかが気がかりだったけれど、いつも通りの、いいこな私でいられて安心した。やっぱり心配はかけたくなかったし、出来れば私のしようとしていることには一切感づかないでほしかった。
もっとも、少しばかり鈍いところもあるあの人が私の言葉をきちんと汲み取ってくれたことなんてあまりなかったのだけれど、それはそれであの人の美点であると認識しているので構わない。
あの人だって、私の願いが叶ったなら喜んでくれるべきで、そのはずなのだ。
良かったと、嬉しいと泣いてくれるに決まってる。
もし違ったリアクションをされたらなんてことは、考えうる限りでは絶対にありえない。
だから私が今からしていることは間違っていないんだと、そう云い聞かせて。
私は、目的地に佇んでいた。
三階の大鏡。廊下の突き当りにあるそれは、昼間と同様にくすんだ木製の枠の中で、ぼんやりと周囲の風景を映し出していた。
と云っても、暗闇に落ちた廊下にうっすらと浮かぶ非常灯くらいしか映すものなんてなかったのだけれど、今はその正面に私の姿を浮かべている。
……正直、思ったよりも簡単に辿りつけて拍子抜けた。
敢えて遠回りをしてゆっくりとスロープになった廊下を行き、金属の軋む音ひとつ立てないくらいに細心の注意を払ってやってきたのだけれども、だからこの成果は当然でしかないのだけれども――あまりにも静まり返った空間が奇異でならない。
まるで、すべてが眠りに落ちたみたいな。
眠らされてでもいるような。
予定調和の結果がそこにあるようで、気持ちが悪い。
大声を上げても誰も気づかないんじゃないかとすら思ったけれど、さすがに試そうとは思わなかった。
「でも、ここまで来て、これからどうすればいいのかは、ねえ……?」
沈黙に耐えかねて思わず発した言葉はいささか間が抜けていた。次にすべきことはきちんと理解していたのだから、こんなことは云うべきではなかった。
私が私を見ていたとしたら、あまりの愚かしさに笑っていたことだろう。
だけれど、疑問としては当然の部類ではある。
大鏡に映る人さらいのお化けなんてものを一体どうやって捕まえればいいんだろうか。そもそもそれは鏡の中から出てくるものなのか、屏風の虎よろしく考えろと云われてもわからないし、第一お化けを触ることなど出来るわけもない。いや、寧ろそんなものの存在自体が現実的ではなくって、でもそれを云ってしまうと、この行為そのものが破綻してしまうのだから――などと口に出したくなる思考の数々をひとまず飲み込む。
なにもこんなところにまで来てひとり上手に興じることもない。
改めて、じっと、鏡を見つめる。
ただの硝子よりもくっきりとした鏡像を作り出すべき姿見は、薄くもやのかかった森の中みたいに不鮮明な風景を反射させている。こんなに映りが悪かっただろうかと首を傾げたけれど、やはりよく見えない。おそらくはしかめっ面をしているだろう私の表情すらきちんと映そうとはしない怠慢だ。
……こんなことをして、本当にどうにかなるんだろうか。
ふと、疑問が頭をよぎる。大体、夜中に大鏡の前に立てと云われても、明確に何時頃がいいと指定されたわけでもないし。
いつまでこうして待っていればいいんだろう。
出るならさっさと出てこいお化け。
口には出さずにぼやいた言葉が届いたのかは、知らない。
「えっ――?」
そのとき私が驚きのあまり声を発したのは、もやの奥に自分以外の姿を発見したからではなく――背後から誰かが歩いてきたのか確認しようとして浮かせた体を、思い切り突き飛ばされたからだ。
目の前にはさっきより不鮮明になった気のする鏡があって、
ぶつかる、と身構えた体が、
不意にやわらかいなにかに飛び込んで、僅かに動きを鈍らせる。
――鏡、だ。
それは相変わらず、鏡でしかなかった。にもかかわらず、やんわりと私の体を受け止めて、そうして飲み込んでいく。倒れていく上半身からぐらつく下半身へ。当然響き渡るだろう大音量に、思わず強く目を瞑る。耳を塞ぎたいくらいだったけれど、腕はもう鏡に飲まれているからかなわない。
だけれど、だからこそ聞き取ることが出来た。
「……ごめんね?」
耳元で、小さく。あの夜聞いたのとそっくりそのままの声がささやく。
――あぁロミオ、貴方はどうしてロミオなの?
なんて思う暇は勿論なくて、強引に首をひねって振り返ったその先にいる生き物を睨めつける。
手は伸ばせない。届くわけもない。
「なん、でっ……!」
視界の端に、三日月みたいに笑う口が見えた。
なのに、ごめんねと云った声がひどく物悲しげで。
わけがわからない。なにがしたいんだ。
アンタは私に、一体なにをさせたいの。
…………なんて、
回想に浸れるくらいにゆっくりと私は墜ちていて、
墜ち続けている。
ほんの数秒だか数分前の場面に辿り着いたときなどやり直しが効かないものかと思わず考えてしまったくらいで、けれどもリセットボタンはそこらの壁には見当たらないし、セーブ地点に戻ったところで意味はないんだろう。
どうせ私はあの生き物の云う通りに大鏡の前に立ち、そして突き落とされてしまう。
そこまでは、どうあがいた所で一本道にしかならないルートに決まってる。
騙されようが唆されようが、選ぶと決めたのは自分なのだから仕方がない。
「ただ、この風景はどうかと思うのよね……」
たっぷりと考える時間を要してここまでの道のりを思い返していたのは、実のところは現実逃避だ。ひとつの疑問からは確実に思考を逸らしながらも、恐怖心にぼやけた頭でぼんやりと周囲を見回す余裕は随分前から出来ていた。それほどまでに、この穴は長い。
ため息が、画鋲に止められた世界地図を僅かに揺らす。その下に見える本棚には豪奢な装丁の洋書と思しき分厚い本が何冊も詰め込まれている。他にも絵本だとか図鑑だとか、とにかくたくさん。
見渡す限り、一面には戸棚と本棚。隙間には地図や額縁が、無理やりねじ込んだように飾られていて、壁自体の色はまるで見えない。びっしりと嵌め込まれた棚などが壁一体を埋め尽くしている。
そんな奇妙な景色が、ゆっくりと通り過ぎていく。
上へ、上へと昇っていくのは、私が墜ちていくからだ。
それだけでも十分にわかってしまう。
この空間は、鏡の中というだけでは収まらないほどにとてつもなく奇妙だった。
仮に大鏡と見せかけられていたものが、透明なビニールを貼られただけの秘密の入り口だったとしたらどうだろう。鏡の奥に秘密裏に作られた空間が広がっていて、消えた女の子はみんなそこに連れ込まれているのだ。
こういった閉鎖的な施設の中だ。複雑に作られた部屋や廊下に紛れて設計図には存在しない謎の一室があったとしても不思議じゃない。
……なんていうのは、推理小説の定番だと思うのだけれども。
ここは、まるで違う。
そんな簡単に、少なくとも私のような少女に説明可能な領域では既にない。
あってはならないだろう、こんな場所は。
だって、私はまだ墜ち続けている。ずっとずっと落下を続けているのだ。
周囲を見回してもはしごのたぐいは設置されていないし、あまりにも縦に長すぎて広大だ。第一、いくらなんでもこんなにも墜ち続けられるわけがない。この穴が地下まで続いていたとしたって、無茶苦茶だ。私の体感速度がどんなに鈍くなっていたところで、墜ち続けていることを認識できている以上、やはりおかしいのだ。
墜ちるのなんて、一瞬でしかない。重力に逆らうことなんて不可能だ。それなのに、浮遊感を感じながらの自由落下。傘をさしていたならどこかのベビーシッターにも見えそうなほどにゆっくりとなんてありえない。
まるで現実的じゃない。こんなのは、おかしい。
通りすがりに戸棚に手を突っ込んで、適当に中の物を引っ張り出してみる。そんなことが出来る時点で非現実的だと思いながらも手中に飛び込んできた硝子瓶を見ると、『オレンジ・マーマレード』とラベルが貼ってあるのが見えた。
中身は――入っては、いるけど。
「さすがに、空中で開けて舐めてみようって気はしないわね……」
一体全体、どこまで余裕があるんだというお話だ。
私はまだまだ墜ち続けていくんだろうか。
……あぁ、これが夢なら。
そう考えた途端に、私は死んでしまうのだけど。
別の戸棚に無理に押し込もうとした硝子瓶に、もう一度視線を向ける。手のひらの中にしっかりとした重みを感じさせる無機物は、それでも大した大きさではない。
少女である私の手のひらから少しはみ出す程度に長い瓶から、ふっと、手を離す。
限りなくわざと、落としてみる。
すると、私よりもずっと軽いはずの硝子瓶は手のひらから離れ、見る間に真っ暗な穴の奥へと消えていった。あまりにもあっさりと姿を消したので、思わず目をまたたく。
どうして――私は墜ち続けているんだろう。
じっと耳を澄ませて、音をたぐりよせてみる。
どこか遠くで、硝子の砕ける音がした。
底は――あるのだ。
確実に、到達すべきそこはある。
それなら、もう、諦めるべきなんだろうか?
ゆっくりと、私は口を開く。乾いた唇が、掠れた声が、疑問を告げる。
果たして本当に――目的地は、あるんだろうか?
『ぐちゃり。』
夢の終わりと同じくらい唐突に、音が響いた。
着地した、という感覚はなかった。代わりに背筋を一瞬で這い上がってくる寒気に身をよじり、まだ意識が続いていることに気がつくのに少しだけ遅れて。
「なに、これ……気持ち悪い」
吐き出した言葉に、自分の首がおかしな方向に曲がっていないことを自覚した。
どうやら、生きて底まで辿り着くことが出来たらしい。
無事に、とは、ちょっとばかり云い難いが。
「……本当、どれだけ落ちてきたのよ。なにも見えないじゃない」
事実を確認するのが少しばかり嫌だったので、まずは頭上を思い切り見上げてみる。
今しがたずっと墜落飛行を続けてきたはずの穴はなにも見通せないほどに真っ暗で、灯りのひとつも見えやしない。まるで、井戸の底だ。そもそも、電灯すら見当たらなかったのに壁一面の棚を見渡せたことがおかしかったのだと今更になって気づく。
視線を落として、今度は周囲を見回す。目の前には、今度はまっすぐに道が広がっていて、どうやら長い廊下になっているようだ。細長く伸びる通路は天井が低く、暗い色をしたランプシェードが幾つもぶら下がって、それでなくとも心もとない灯りを更に薄暗くしている。通路の両脇にはたくさんの扉が並んでいた。細かな花模様が彫られたそれは飾り扉だろうか、とてもじゃないが人間が通れるようなサイズではない。小さな少女である私が這っていったとしても、通り抜けることは無理そうだ。
そうしてようやく観念して、足元へ視線を送る。チェス盤みたいに互い違いに白と黒の四角が敷き詰められた床の上に、『ぐちゃり。』の正体が広がっている。
「まぁ、自業自得よね。我ながら不甲斐ないわ」
ため息混じりに床上に指を滑らせると、ぶちまけたばかりにしては生温い温度が肌に触れる。べたつく指の表面で、床に溢れ出したマーマレードが薄明かりに照らされていた。
どうにも投げ落とした硝子瓶が床で砕け割れて、マーマレードが一帯に広がったらしい。おかげで足元が粘ついて、ひどい有様だ。この分だと、服も染みになるだろう。きっと怒られるなぁ、と思わずため息をつく。
それにしても、硝子の破片の真上に着地しなくてよかった。どうせ何も感じないだろうけど、さすがに流血沙汰は避けられなかっただろうし。
……あれ。
でも、待って。なんだか変だ。
「マーマレードって、オレンジだったわよ、ね……?」
ラベルには確かにそう書かれていたはずだ。
灯りが薄暗いのは事実だし、周囲の色は確かにくすんでいる。
けれど指に濡れ広がるそれは目を凝らす必要もなく――黒に近い、赤色だ。
まるで、まるで血みたいな色をして、私の足元に広がっている。
――――あのとき、みたいに。
「う、ぁっ……」
赤いランプが、目の前で点滅する。
視界はぼやけてほとんどなにも見えなかったのに、明滅を繰り返すあの灯りだけは、やたらと記憶に残っている。
体は指の先さえも動かせなくって、声は出なかった。
耳元であの人の泣き喚く声がひとしきり聞こえてきて、他にもなんだか人の騒ぐ大声や駆け足みたいな音がたくさん行き来していて、どうしたんだろう、うるさいなぁって思いながらぼんやりとしていた。
どうしてそんなことになったのかは、覚えているけど思い出したくない。
ひどく寒くて、頭がぼうっとして、足元には――『ぐちゃり。』と。
赤色が、広がっていたんだ。
点滅するランプよりも赤黒い嫌な色。もう二度と見たくなかった。
気持ち悪い。声の出し方がわからなくなる。体中から汗が吹き出す。息ができない。苦しい。痛い。痛くない。そんなものもう感じない。目の前が薄暗くなる。耳元であの人が泣いている。軋んだ音を立てて泣いている。あぁ違う、これはドアが軋む音だ。ドアノブが回って、ゆっくりと扉が開く。中から喪服みたいな色合いをした長い影法師が顔を出した。こっちを怪訝そうに見つめている。誰だろう。
…………えっ? 誰って、誰だ?
急速に体の緊張が解けていく。同時に、頭の中で警鐘がかき鳴らされる。
『三階にある大鏡には、人さらいのお化けが映る』
――そうだ、私はそいつを捕まえに大鏡の前まで行って、鏡に向かって突き落とされたんだ。赤い光なんて何処にも点滅していないじゃないか。なにも、怖がる必要なんてない。
ここは鏡の中で、元から内側に誰かがいたなら映り込んで見えたのは当たり前で、つまりあいつが――私が捕まえるべき、相手なのか。
でも、一体どうすればいいんだろう。
今更になって疑問が膨らむ。ろくに身動きも取れない状況で、ただのちっぽけな少女でしかない。明らかに長身の、しかもお化けと云われている正体不明の相手に対抗する策なんて、なにも持っていないのだ。
結局、あの生き物の話を信じ切っていなかった自分が悪い。もっと先までを考えてから動くべきだったと後悔する。
悔やむには、もう遅いけど。
夢じゃなかったなんて、まだ思い切れていないけれども。
なんなんだろう――この、現実感のなさは。
ひどく、気持ちの悪いことばかりが起こる。
ゆっくりと、影法師が近づいてくる。薄暗いランプに照らされても、その顔はよく見えない。そもそもドアが開いて出てきた気はしたけれど、一体どこから現れたんだろうか。私の上半身すらまともに通り抜けられなさそうな小さなドアしか並んでいない通路を、ゆるやかに影が歩く。縦に長く、細い割にしっかりとした体つきで、遠目にも男だとわかった。
床で砕け散った硝子瓶の破片を男の革靴が踏みつける。
鈍く、大きめの欠片が割れる音がした。
男は私の眼前まで緩慢な足取りで歩いてくると、まず頭のてっぺんから足の先までを眺め回すように、じっと私を見つめた。
どこか懐かしさを感じさせる、物憂げな姿。
呆然と見上げれば、目線がかち合う。
と、すぐに視線が外されてそっぽを向かれてしまった。
けれど、揺れる視線は幾度もこちらに向けられる。
その顔はどうしてか、ひどくうろたえているように見えた。
生きている感じのしない、まるで影法師そのもののような姿のくせに。
「――お前は」
乾いた声が、薄い唇から紡がれる。
どうやら私に投げかけられているらしいその言葉に、返事をしようか迷って黙り込む。
「…………なんだ。どこから、来た?」
当然といえば当然の疑問。
素朴すぎて、会話の始点としては不合格もいいところだ。
大体、そんなことを云われても困ってしまう。どこからと云ったって、この場合は「上」としか答えようがないというのに。
「あぁ、いや、違うな。それはどうでもいいんだが」
男は思い直したように頭を振ると、勝手に自己完結したのか質問を切り替えてくる。
体を屈めて、私の足元に広がったマーマレードの海へと手を伸ばすと、中から赤黒い色にまみれた何かを取り上げた。それを示して、一言。
「これをやったのは、お前なのか?」
「……え? えぇっと」
マーマレードで塗りたくられた『それ』がなんなのか、私には判別がつかない。男の持ち物なのだろうか。薄っぺらいカードにも見えるけれど、赤黒さに塗り潰されているからなにが書いてあるのかもわからない。
「どうなんだ?」
「あ、その……そうなの。瓶を落として、それで、割れちゃって」
だから多分、広がったマーマレードで汚してしまったんだろう。
たたみかけるような男の言葉に思わず頷けば、そいつは拾い上げた『それ』に視線を投げて、ついで私に目を向ける。
今度はそらされずに、しっかりと目があった。
深い沼みたいに淀んだ瞳の中に、感情の揺れは見られない。さっきの動揺めいた素振りなど既に忘れてしまったかのように、無感動に濁った目が私を捉える。
「……もう一度訊く。お前は、鏡の向こうから来たのか?」
なにをしに来た?
試すような目で云われて。急速に、頭が冷えた。
どうしてかはわからないけれど、沸騰寸前だった混乱気味の脳みそが突然答えを見つけ出したのだ。
力で捕まえられないなら、言葉で絡め取ればいい。
そうだ、私はこの男を捕まえなくてはならない。それは絶対に為さなければならないことであって、このタイミングを逸してしまえば二度とチャンスは訪れないだろう。
確実に、私は試されている。
この男が望む答えを出さなければ、私はきっと助からない。
願いが叶うことは、もう。
「私は――」
ゆっくりと、導き出した解を舌にのせる。
可愛らしい少女の声で、自信過剰に相手を見つめて、挑戦的に。
まるで、童話の主人公が乗り移ったみたいに。
それは本気で、本心からの、わがままみたいな願いごと。
「空を糖蜜色にしてもらいに来たのよ――お化けさん」
どうせここが夢の世界なら、それぐらいの奇跡を見せてみせろ。
こんなものが現実だと嘯くならば、世迷言すら真実になるだろう。
ねえ、本当に――叶えてくれる?
男の目が見開かれる。生気の失せた顔がほんの一瞬だけ歪み、表情らしい表情が過ぎった。それは愉悦のような、歓喜のような――哀愁にも似た不可解な、笑みだったと思う。
けれど、すぐさま通り過ぎていった感情の正体を探るよりも先に、冷めた声音で名前を呼ばれた。
「――メアリ・アン」
頭の中に火花が散った。
パズルのピースが揃うように、既視感が晴れていく。
当然、呼ばれたその名は私のものではない。でも、私は知っている。その名前はもう何度も見たことがある。幾度にもページをめくって、口ずさんだことさえも。
落ち続けていく井戸よりも深い穴。壁一面の本棚や戸棚。長い廊下にたくさんの小さなドアと、舞台は完璧に整っていたじゃないか。
……あぁ、そうか。そういうことか。
その筋書きを、辿ればいいのか。
返答を待つように佇む男を見上げて、口を開いた。
「取ってくるのは手袋と扇子でいいのかしら、うさぎさん?」
穴に飛び込んだのは、お化けじゃなくて。
鏡を通り抜けた少女が私。
何かを失くしたらしい白うさぎは、私を召使と間違えて呼びかける。
メアリ・アン。それが今から、私の名前。
「――上出来だ」
どうやら私は望み通りの答えを返せたようだ。
満足そうに呟いて、影法師が手を振った。指の動きと共に天井から吊り下げられたカーテンが勝手に開いていく。……というか、あんなところにカーテンなんてかかっていただろうか。男の手にあった『それ』もいつの間にか消えている。
真っ赤なカーテンの向こうから現れたのは、飴色の大きな扉だ。
通路に広がる小さなドアとは違い一切の装飾がない平面は鏡のように磨き上げられていて、私が通り抜けてきたもやのような鏡よりも余程に鮮明に周囲の景色を映し出している。扉はやはり、見ている目の前で勝手にドアノブを回転させて少しずつ開き始めた。現実味の欠片もない光景に、脳の処理は既に追いついてなどいない。
「ついてこい、メアリ・アン。屋敷まで案内してやる」
横柄に云い放って、おそらく時計うさぎであろう男が踵を返す。翻ったスーツの裾は、影絵のように真っ黒だ。
「あ……ち、ちょっと待って!」
そこでようやく。当面の問題に思い至って声を上げる。
身を翻した影法師は首だけで僅かに振り返り、細めた目でこちらを見遣る。
先程からずっと床に座り込んだままの私をじとりと眺め、失笑じみたため息を吐き出した。
「なんだ、腰でも抜けたか?」
「……それなら、まだマシなんだけどね」
「うん?」
今度はこちらの喉から笑いが込み上げる。小さく笑いながら体を震わせる私を見下ろすと、男は「あぁ」と小馬鹿にしたような声を上げた。
へたり込んでいる私の姿か、気づくのに遅れた自分に対してかはわからない。
呆れ混じりにもう一度ため息をつくと、男はこちらに向き直り、私のすぐ傍にまで歩み寄ってきた。
「それがお前の本命か。メアリ・アン」
わかりやすい願いもあったものだな。
そう呟く男の声は、何故だかとてもやさしく聞こえた。
同情でもされたのだろうか。真意が掴めず見つめるも、男は私の背後にまで歩いて行ってしまう。首を曲げて後ろを見やれば、男が小さなテーブルの上から瓶を取り上げているのが見えた。
透明な硝子で出来た三脚テーブルには、他にはなにも乗っていない。そんなところにはじめからテーブルが置いてあったのかは、私にはよくわからない。
香水瓶のようにしゃれたデザインの小瓶を取り上げると、男は私の前に戻り跪くようにして腰を屈めた。なにも云わずに差し出された硝子瓶を、無言で受け取る。
『ワタシヲノンデ』
予想通り、瓶の首にはそう書かれたラベルが括りつけられていた。軽く振ってみると、思ったよりもとろみのある液体が小瓶の中で揺れる。
男は、促すように私を見つめている。薄い唇が急かすように、小さく動いた。「早くしろ」とでも云っているみたいに。本当に、せっかちなうさぎのようだ。
筋書き通りなら、これを飲めば身体がどうにかなるのだろう。
けれど、最初から展開が破綻している物語がその通りに辿られるとは限らない。
さくらんぼのタルトとカスタードとパイナップルと、それからあとはなんだっけ。理解できないような味が口中に広がるところを想像しながら、瓶の蓋を開け、男の見ている前で一気に口へと流し込んだ。思い切り煽ってしまったからか、ぐらりと頭の中が一瞬揺さぶられるような感覚に目を瞑る。
なにか――自分が自分以外のなにかと――無理やりに混ぜられていくような――奇妙な、感覚。気のせい、だろうか?
が、次に訪れた感情はそんなものとはまるで違うものだった。
なにも、味が、しない。
期待していたわけでもなかったのに肩透かしにあってしまって微妙な気分だ。
無味無臭の液体を飲み下しても、特に身体に変化は感じられない。唐突に縮んだりしたらどうしようかとも思ったのだけれど、別段変わったところは見受けられない。
それならば、なんの為にこんなものを飲まされたのか。
「なにをしている、メアリ・アン?」
飲み残しがないかと小瓶を逆さに振っていると、今度こそ呆れを隠そうともしない男の声が落ちてくる。見上げれば、白い手袋をはめた手がこちらに差し出されていて。
「ほら、早くしろ。置いていくぞ」
「――ッ、それは嫌!」
なにより聞きたくない言葉に反射的に叫ぶと、差し出された男の手を勢い良く掴む。男は不可解そうに一瞬眉をひそめたが、それ以上気にした風でもなく私の腕を強引に引いた。乗り出した身体を腕の力だけで引き寄せられて、浮き上がる感覚に襲われる。
よろけた身体を支えようと、両の足がたたらを踏んで。
気づけば、男に抱き寄せられる形で立ち上がっていた。
冷ややかな床の温度が、足の裏から直接伝わってきて、思わず体が跳ねる。
「…………ぁ」
男の胸元に触れていた頬が熱い。
どうしよう。
これは、ちょっと。
動揺する、どころじゃない。
「ご、ごめん、なさい」
紅潮する頬を空いた手で押さえて引き剥がすように身体を離すと、掴まれたままだった腕から手のひらへと男の腕が降りてくる。白い手袋をはめた指先を握っても、布越しに体温は感じられなかった。
男は言葉を発することなく、私の手を引いて歩き出す。
手を引かれながら、懐かしさに目を細めた。
昔はよく、こうして歩いたことがある。今はもう出来なくなってしまった、遠い夏の日の思い出だ。
――置いていかないでって、私、あんなにも云ったのに。
飴色のドアの前に立つと、男はドアノブへと手を伸ばした。
隙間からはぎらつく光が絶えずあふれだしている。
ひどく禍々しい輝きだと、どうしてかそう思わずにはいられなかった。
ゆっくりと、扉が開いていく。向こう側に広がる風景は、色鮮やかな花と涼しげな噴水のある庭だ。規則正しく並んだ木々は一様に真赤な薔薇を咲かせている。
血のように赤く、紅い花が咲き誇る。
「不思議の国へようこそ。まずは歓迎しよう、メアリ・アン」
白い手袋で覆った手のひらを広げ、時計うさぎが告げる。
もう片方で私の手をしっかりと掴み、誘いながら。
確かめるように一歩、また一歩と踏み出した。
誰かに手を引かれて歩くなんて、本当にいつ以来だろう。
扉が大きく口を開いて誘っている。
私はまた、飲み込まれる。