3.三日月の誘惑
あぁ、違う。もう少し現実的に云うならこれは。
一方的な殺戮だ。
***
頭から、真っ逆さまに墜ちていく。
速度には一定感がなくて、一気に墜落するときもあれば、緩やかに浮遊しながら円を描くように回り続けることもある。
風圧は感じない。抵抗感もまるでない。全身が麻痺したようだ。なにかに触れているかもしれない肌はひたすらに不感症を貫いて、まるで人形にでもなった気分。手の指までも動かせずに、まばたきひとつしないまま。ただ、墜ちていくその感覚だけはいつだって共通している。
いつの間に落ちたのかはわからない。突き落とされたわけでも、自分で足を踏み外した覚えもない。気づけば体は空中に投げ出され、頭から落ち続ける。逆さまの世界に見送られながら、どこまでも。
落ちて、墜ちて、堕ちて――果たしてこの先に目的地はあるんだろうか?
それまではなにも考えていなかったのに、ふと疑問がよぎる。
決して思いついてはならなかった疑念に首を傾げる暇などない。
何故ならその前に、首がXXXてしまうから。
気づいた瞬間、地面に叩きつけられて視界は暗転。
『 。』
ブラックアウトした画面の隅で、なにかが潰れる音がする。
――あぁ、今。私が死んだ。
体全体を生温い液体に包まれる感覚の中で目覚めれば、大抵汗だくになっている。
そう、それは所詮ただの夢だ。
墜落死する夢は事態の好転を暗示していると教えてくれたのはあの人だった。怖い夢を見たと泣く私に、夢診断というものがあるのだと調べてきて、やさしく頭を撫でてくれたことを思い出す。
怖い、厭だ、もうたくさんだ。あんまりだ。
そう泣く度に、あの人は様々な手段で私の不安の種を摘み取ってくれた。気分が楽しくなる本を持ってきてくれたり、なにかで調べてきてはこんな考え方もあると楽天的な方向へ思考を導いてくれようとした。それはやさしさでしかないとわかっていたのだけれど、私の中に別種の恐怖も生まれていたことに、きっとあの人は気づいてはいなかっただろう。
怯えることが許されないようで、泣き言を云ってはならないと諭されている気がして、弱い子は嫌いだとでも云われているようで。やがて私は怖がる素振りを見せなくなった。
あの人は、私が強くなったのだと素直に喜んでいたのだろう。
そんなこと、ないのに。私はこんなに怖がりなのに。
今、こうして――墜ち続けているときだって。怖くて、仕方がないっていうのに。
墜ちていく感覚。いつもと同じようで、まるで違う。
夢じゃ――ない。夢じゃない?
なんで。どうして。あんなに現実感がなかったくせに。
こんなことなら、手を伸ばすんじゃなかった。
そうだ、そもそもあの時点で私は間違いを犯したんじゃないか。
わらにも縋る思いだったわけでもないくせに、寧ろ夢の中での悪ふざけだとでも云うようにそれを選んでしまったし、選ばされたんだ。
あいつ――あの生き物に。
どうやら私は、うまく唆されてしまったらしい。
「君がどうしてもその願いを叶えたいというのなら、僕が方法を教えてあげるよ」
三日月みたいにつり上がった口が笑っていたことを思い出す。
あれは、悪戯の好きな子供みたいだったじゃないか。
どうして騙されたんだろう。あんまりにも現実的じゃなかったから、きっと夢だと思ってしまった。私らしくもない。
なんでもいいから縋ってしまえと――そんな風に思うだなんて。
「三階の大鏡を知ってるだろう? 夜中にアレを覗いてみなよ。そして、奴を見つけたら――飛び込んで、捕まえるんだ」
「奴って、誰のこと?」
問いかけながら、頭の隅には思い当たる答えがあった。
『三階にある大鏡には、人さらいのお化けが映る』
そんな噂が随分と前からあるのだと、あの人からも聞いたことがあった。なんとはなしに周囲にも聞いてみると、もう少し具体的な内容も知れた。こういうとき、女性の集団というのが噂話を好みすぎることは逆に便利だと思う。尾ヒレがどこまでついているのかは知らないが、十分すぎるほどの情報が手に入るからだ。
話の内容自体は実に簡単だ。なんでも昔に行方不明になった少女が何人もいるだの、彼女たちが最後に目撃されたのがその大鏡の前だっただの、実際に鏡に吸い込まれていくところを見ただの、鏡の中には彼女の手を引く男の姿があっただの――要はそういった夜の怪談話の一種だ。ちっとも現実的じゃない。くだらない。だからもう忘れてしまったつもりでいたのだけれど。
「その顔じゃあ噂は知っているけど信じてない。そんなとこかい? でもね、女の子たちは実際消えているんだよ」
「まさか」
そんな事件が実際に起きていたら、噂話どころじゃない。それとも火のないところに煙は立たないとでも云うのだろうか。
訝しがる私に対し、そいつは大袈裟な仕草で肩をすくめてみせる。
「嘘じゃないよう。九年前にひとり、七年前にもうひとり。それからまた三人消えて、後は……あー、数を覚えるのって得意じゃないんだよね、僕。ちゃんと聞いては来たんだけどなー」
忘れちゃったけど、もう少したくさん。
これより多いよ。と両の指を広げて見せられて、言葉を失う。
冗談にしてもたちが悪い。口で云うだけでも五人、数えようとしたら十人以上もの少女が既に鏡に飲まれて消えているだなんて。
「ありえない、わ」
鏡の中だろうがどこだろうが、実際にそんな人数が消えていればどう考えたって大事件だ。さすがに警察だとかも捜索するはずだし、馬鹿らしい噂ではない現実的な話だって耳にするだろうに、一切そんな情報は入ってこない。
非現実的、すぎる。
「そういうときは考え方を変えてみるのさ」
謎かけでもするみたいな気軽さで窓辺の影が揺れる。窓縁に腰かけた侵入者は、開いた硝子窓を手の甲で叩く。ノックを三回、入ってきたときと同じように。
あの人が選んでくれたカーテンが、温い夜風にやわらかく揺られている。月明かりしかない暗闇の中、本来の色合いを忘れかけた布地に体を包みながら言葉は続く。
「女の子たちみんなが同じ場所から消えていたなら、それは確かに大事件だ。でも、彼女たちが僕のように外側からやってきたとしたらどうだろう?」
「……外から? それってつまり」
外部からやってきた者の消失。逆を云うなら、内側とは無関係の失踪。
消える女の子は確かに目撃されていて、だけれど誰も減ってはいない。外側からやってきた少女がどこへ消えたかなんて、消えてしまったあとにはわからない。もし仮に人をさらうお化けだけでなく、消える少女そのものも幻と扱われていたのだとしたら――なるほど、事件としてではなく噂として発展するのもなんとなくだけど頷けるものがある。
外からもたくさんの人が訪れるくせをして、その実この空間はひどく閉鎖的だから、外の事件なんて関係ないと素通りされてしまったのだろう。
もしくは、結びついてすらいないのかもしれない。
あぁ、でも、ちょっと待って。それでもこの話、どこかが変だ――。
「わかったかい? 女の子たちが消えているのは事実ってこと。それなら彼女たちを連れ去る奴が実際にいるって仮定にも、筋が通ってくるよねえ?」
「え? そ、そうね……」
何かに気づきかけた思考を遮断される。
顔を覗き込まれて思わずのけぞると、そいつは楽しげに目を細めてつり上がった唇を舌で舐めた。尖った八重歯の隙間から、ざらついた赤色が覗いている。
「だったら君のするべき行動はひとつ。奴を見つけて捕まえる、それだけだ。君はいいよ、実にいい。君みたいな子なら、奴も絶対に放っておかないだろうさ。それは確実に、君の願いを叶えることになる」
「私の、願い――?」
「あぁ、そうさ」
しなやかな体が近づいてきて、首筋に顔を埋められる。本当は暑苦しいだろうに、じゃれてくる子猫みたいな仕草に抵抗はわかなかった。前髪が肌を撫でて、くすぐったさに身を捩る。仄暗い風景に溶け込んだ髪の色はわからない。
やわらかな感触に遊ばれながら、ささやき声が耳の奥へ届く。
「叶えたい願いがあるんだろう? 夢の中で、知りもしない他人に求めるほどの。それこそ、なりふり構わないような願いがさ」
生き物の吐息が首筋に触れる度、皮膚が湿り気を帯びていく。
体が汗ばむような擬似感覚に、頭の芯がぼんやりと霞んでいく。
「もしもこれが夢で、アンタが魔法使いなら、私の願いを叶えてよ」
私は確かにそう云った。
叶うわけもない願いを、心のどこかで顔を出しかけている諦めに蓋をしたくて、言葉にしたんだ。どうせ夢だとしか思えない出来事を前にして、既に眠っているくせにやたらとはっきりとした意識が紡ぎ出した非現実的な存在に、世迷言を投げつけた。
そうしたらその生き物は、ちっとも驚いた素振りも見せずに笑って。
嬉しそうに、微笑んで。
「いいよ」
あっさりと。
そいつは告げて、私にその方法を教え始めたのだ。
三階の大鏡。たくさんの少女が消えたらしいその前に立って、お化けを――誰を、捕まえればいいんだろう。
そうしたら本当に。
私の、願いは。
「叶うよ」
声が。
夜の熱に浮かされたみたいに、私の頭の中身を揺さぶってくる。
「君の願いを叶えるには、それしかない。いいね? わかるね? わかったね?」
叶う。
願いが。私の。
他にもう、方法はない。
「わ、かった……」
矢継ぎ早に吹き込まれる言葉はひどく甘ったるい。
掠れた声が喉をせり上がってきて、気づけばそう答えていた。
答えさせられていた。
「……うん、いいこ」
なのに何故だか不満気な声がして、不意に離れていく。
暗い部屋の中、その生き物はどうしてか不機嫌に鼻だか喉を鳴らす。顔はよく見えない。そいつが部屋に入ってきた瞬間から、月光を背にして立っているからだ。やわらかそうに揺れる毛の色も、こちらからじゃ判別がつかない。
「それじゃあ、伝えるべきことはすべて告げたよ。僕の云うべき言葉はもう用意されてはいないから、帰るしかないんだけれど――」
言葉を区切って、そいつは少しだけ云い澱む。
しばらくして、静かな声が問いかけてくる。
答えを聞くこと自体に戸惑っているような、不可思議な響きをして。
「ねえ君、君は本当に、願いを叶えたい?」
「……それは、叶えたいわ、よ」
「なりふり構わないくらいに?」
被せるように問われて、思わず口を閉ざす。
なにを、云っているんだろう。そっちが教えてきたくせに。迷えとばかりに、悩むなら今のうちだとでも云うみたいに、意地悪めいた問いかけのくせをして、どうしてそんな真剣な声で訊いてくるんだ。唆そうと、しているくせに。
今の私に、それしかないなら。
他になにもなくて、たとえ夢でもそんな方法があるならば。
ゆっくりと、口を開く。夜の空気が喉を渇かすけれど、声は途切れない。
「……いいわ。なんでも、してやろうじゃないの」
なんだっていい。縋ってしまえ。
お化け退治だろうがなんだろうが、してみせる。
そんな馬鹿げた、現実味がちっともない行動で願いが叶うなら――あぁ、寧ろ願いごと自体も現実味がないんだから、それくらいがちょうどいいんじゃない?
みんながさじを投げた私の願い。ならば自分で叶えてみせよう。
だから、無理だとかやめておけなんて、云わないで。
そいつはしばらくなにも云わずに、じっと私を見つめていた。冴え冴えとした月の光よりも幾分か鈍く輝く瞳が、少しも揺らがずに見据えてくる。悪戯好きそうな表情はどこかに引っ込んでしまって、物静かになった姿を見て、少しだけ考える。
この生き物は、どこかあの人に似ている。
大丈夫と云いながら、本音を顔に出さずに告げてくるときのあの人と、同じ顔をする。
嘘をつけない偽善者みたいな、ずるい顔だ。
でも、どうして?
「……うん。選択肢としては、間違ってないよ」
やがて呆れた声を上げて、肩をすくめられた。
思っていたのと違う反応に戸惑って、首を傾げる。
なんだ、それは。自分から云い出したくせに。
そんな言葉が頭をよぎるけれど、声にならなかった。
ため息になりきらない掠れた音がすぐ傍でして、再び距離が置かれる。
「君ならきっと大丈夫。僕も応援してるから――せいぜい、頑張って」
まるで気乗りしていない声で云うと、来たときと同じようにこちらが声を発する間もなく影が動く。軽やかに窓枠に身を寄せると、硝子窓がそっと押し広げられた。
舞い込んできた熱い風に、カーテンが揺られる。
薄暗がりに紛れたそいつの顔を更に見えにくくする。
なんでもないことのように窓の近くに生えた木へと飛び移ると、こちらをゆっくりと振り返る。ようやく思い出したかのように、ニヤリと笑って。夜空の月より薄っぺらい三日月みたいな口が、もう一度だけ何かを告げた。
けれど言葉は届かない。聞き返そうとした私を遮り手を振ると、そいつの姿は見えなくなった。多分、木から飛び降りたんだろう。
――せっかちなロミオだわ。なんて、思いはしない。
私の興味は既に別の対象に移っていたし、そもそも今日初めて出会った相手を思うジュリエットになるほどに、私は成熟した女でもない。
私はただの、夢見がちな少女なのだ。
故に、私は考える。
これは所詮夢でしかないのだけれど、どこまでも真面目に思考する。こんな夢を見てしまうほどに追い詰められた私の精神が作り上げた幻影に、従うべきか、否か。
答えは既に出してしまった。
問いかけられた。だから答えた。
それならもう――行動するしか、手段はない。
まず手始めに私がしたのは、大鏡の前に辿り着く手段を講じることだった。
行くだけならば簡単だ。日中なんとはなしにそこまで行ってはみたし、それだけならひとりでも容易にこなせる。
昼間に見る大鏡は古ぼけた木製の枠に組み込まれた面白味のない代物で、くすんだ表面に周囲の風景を反射しているだけだったので拍子抜けた。噂話になっているくせに迫力もなければそれっぽさも一切感じない。不穏な空気なんてものがまるでないのだ。
誰もその存在を気にしてはいなかったし、恐れてなんているはずもない。
正面に佇んでいても特に不審がられることもなく、わざとらしく髪を直す仕草をしてみたところで逆に恥ずかしくなるだけだった。
ただ、問題は決められた時間が夜中に限定されていることにあった。
比較的時間は作りやすい生活をしているのだけれど、夜に出歩くことは困難を極める。好き勝手に出歩けるわけでもなければ、私は人より目的地に到達するまでの時間がかかるのだから仕方ない。そして、何度となく行き来して最短ルートを割り出したところで、夜中にそこを通ることが出来なければなんの意味もない。
夜間に人が通る場所を調べようにも、夜になる度にこっそりと外に出ているのを見つかろうものならそれこそ不審に思われてしまうし、逆にガードが硬くなってしまう。自分の周辺を固められて、身動きが取れなくなってしまっては元も子もない。
幸い時間だけならば持て余すほどにあったから、あとはもう根気勝負だった。
眠い目をこすりながら、時には寝たふりをして、ひたすらに耳を澄ます。
自分の部屋の前を人が通る時間、ドアの開く音や順番、暗い廊下に薄ぼんやりとした灯りが浮かぶタイミングをじっくりと調べあげて、メモをとる。
統計を出して、計算して、決行すべき時間を考える。
眈々と、鏡の前に立つ瞬間だけを思って粘りに粘った。
半分以上は意固地になっていたと自分でも思う。
ただの夢に対して問題があるくらいの入れ込み具合と行動力に、自分のことながら少しばかり呆れもした。それでもやめなかったのは、あの生き物の言葉そのものに、私が夢見てしまったからだろう。
願いを、叶えてくれると云われたから。
他に、することもないし。
ひょっとしたら、なにかに熱中することで私はまた逃避していたのかもしれない。
頭の隅で顔を出そうとする諦めという言葉を必死に抑え込んで、怖がりな自分を出さないようにして、「大丈夫」とやさしく告げてくれるあの人に頷いて、精一杯のいいこな顔で笑いかけて、現実味のない夢に逃げ込みたいと考えなかったと云えばきっと嘘になる。
非現実的なものは大嫌いだけれど、諦めて屈服することが現実だって云うのなら。
そんな現実はなくなってしまえ。そう思うから。
だからこれは逃避であったのだろうけれど、自分では聖戦でもしているつもりになって、普段と違う生活に柄にもなくはしゃいでいたのかもしれない。
その結果がこんなことになると知っていたなら、やめただろうか。
真っ逆さまに落ち続けながら、考える。
逆さまの世界で、同様に思考を巡らせる。
ない。と、おそらく云い切れてしまうだろう。
結果がわかっていたとして、あのときの私が止まれたかと云われれば、答えは否だ。
だって、こうなったのは私の判断じゃないのだから。
……あぁ、あの生き物。今度会ったらどうしてくれよう。
会えたとしたら――だけど。
心から、思い出すだけで腹が立ってくる。逆さまの胃がむかついて吐気がするのは、半分以上は怒りのせいだ。
あの野郎、本当に――人をうまく乗せて、だまくらかして、一体どういうつもりなんだ。