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2.時計うさぎと銀時計

「俺には道の角でパンをくわえた女とぶつかるような趣味はないんだが」

 森の只中に真っ白なテーブルクロスを敷いたカフェテーブル。空気中に、紅茶に溶かされた砂糖の香りが混じって甘ったるい。ティースタンドの上にはスコーンやサンドウィッチ、今日の空色にそっくりなピンクのマカロンなどが無造作に並べられている。確か朝方のお茶はイレブンシスと呼ぶような気もしたけれど、この光景はどちらかと云えばアフタヌーンティーのそれに近いだろう。

 こちらに背を向けた籐椅子がゆっくりと揺れている。そこから伸びる無駄に長い両足こそが、慇懃さの欠片もない声の主であり、私の探していた相手に他ならない。

「遅刻遅刻、遅れちゃ大変――は、アンタの台詞でしょう。配役が逆よ。それで、私もお茶に招待されてもいいのかしら、ミスターラビット?」

「座りたければ勝手にしろ。というか寧ろ座れ。トーストの立ち食いなんてはしたない。見ていられない」

「……悪かったわね、なにも好きで立ってるわけじゃないのよ」

 嘘じゃなく本心からそう云った。事実、自分でもちょっと行儀が悪いかなぁなんて思って、最初は座って、食べ終えてから行こうかとも思ったのだ。でも湿り気のある草の上に座り込んで、鳥の声や虫の声が暗がりから響く森の中でひとり黙々とパンを食べる――そのシチュエーションに耐えられなかったわけで。

「……きっと、明日はやらないわ」

 たとえ同行者がいたところで、手を取り合って樹海に直行したくなることだろう。どうにも精神ダメージが大きすぎる。ただパンを食べるだけなのにそれすらも普通でなくなるなんて、どうかしている。

「明日と云わず、今からやめてくれて構わない」

「それもそうね。あんな気分になるのは二度とごめんよ、頭がおかしくなりそうだったもの」

 そもそも明日が普通に来るのかさえわからないし、私の頭も既にどうにかなっている気はするのだけれど。そのうちなにがまともで正当なのかもわからなくなりそうだ。

「えぇっと、猫ってコウモリは食べるんだったかしら?」

 なぞらえたのは、見覚えるのある台詞。

 思わず口をついた疑問にも、そいつは視線のひとつすら向けずにこう云った。

「それこそ知ったことじゃない。ここにはそんなものは並んでいないわけだし、リクエストされたところで困ってしまうよ。さあ早く、くだらないことを云っていないで座るんだ。せめて飲み物は、まともなものを所望してくれるといいんだがな」

「それじゃあ、紅茶いただけるかしら。濃い目のやつをお願いね」

 まともだなんて、笑わせる。どうかしている筆頭が自分をどこまで棚上げするんだろう。その頭の中には、糖蜜つぼでも入っているんじゃないかしら。

 こちらを見向きもしない相手に苛立ちながら、空いていた椅子を引いて腰かける。顔の見える正面に腰を据え、睨みつけた。こいつめ、立って椅子を引くくらいしたらどうなんだ。紳士らしさの欠片もない。

 睨んだところで、男はまるで反応を示さない。ボサボサに伸びた髪から覗く目に覇気はなく、虚ろに見開かれているだけだ。顔色も決して良いとは云えず、疲れきっているようにも見えた。顔自体はそこまで悪くはないものの、如何せんだるそうに紡がれる言葉の数々がやたらと偉そうで腹が立つのが減点対象。会話がろくに咬み合わないので更にマイナス。年の頃は三十路間近と云ったところか、もしかしたらもう少し若いかもしれない。

 髪は決して白くないし、瞳の色も赤くはない。

 長い耳も、丸いしっぽもついていない。

 眼の前にいるのはスーツ姿のただの男だ。多少なりとも派手なデザインの、一見すればコスプレ紛いの服装でもあるけれど、道を歩いて目を引くほどに奇抜でもない。

 けれども私は、この男をうさぎと呼んだ。

 明確な返事はなくとも、絶対的な否定はまずありえない。

 胡乱げな視線が私に移る。ゆっくりと、その口が開かれた。

「不思議の国へようこそ。まずは歓迎しよう、メアリ・アン。紅茶に砂糖は幾つほど?」

「ふたつでいいわ、うさぎさん。その挨拶、聞くのもう四度目なんだけど」

 可愛らしく首を傾げて笑ってみせる。

 甘ったるい砂糖を固めたお菓子にも似た声をして。

 男は私を『その名』では呼ばない。そんなことは当たり前だ。

 だってこいつは、時計うさぎ。チョッキではなくスーツを着ていて、長い耳もしっぽもついていないまるで紛い物のキャラクター。

 そして私はメアリ・アンと、本来物語には登場しない人物の名で時計うさぎに認識されている。あまりにも都合の良すぎるニックネームは、この場所と私の役割をあからさまに示してくれていた。姿なき彼女に成り代わり、私は今ここにいる。

 もう何度も『その名』を目にした。繰り返しページをめくり、何度も何度も読んできた。

 幼い少女の夏の夢が、歪な世界を作り出して私の目の前に広がっている。

 現実なんて知らないと嘯くように、当たり前の顔をして。

 私は『アリス』。

 不思議の国の異邦人。

 時計うさぎを追いかけて、狂った世界に紛れ込んだ異物の少女がこの私だ。


「挨拶ついでに云わせてもらうけど、アンタってどれだけ物覚えが悪いのかしら。置いてかないでって、云ってるでしょう?」

「……なんの話だ?」

 心底不思議そうな表情を浮かべて、うさぎが云う。慣れた手つきで紅茶をいれて私の方へとそっと寄越す。椅子から体を少し浮かせて引き寄せると、カップからは仄かな湯気と共にやわらかな花の香りが漂ってくる。ソーサーの端には、小さな花を象ったクッキーとマカロンまで添えてあった。

 こういうさりげない気配りは出来るくせにこの台詞だ。わざとやってるなら大したものだし、天然でもそれはそれで腹が立つ。

「私が眠っている間に勝手にどこかへ行かないで。何度もそう云ったと思うんだけど」

 高圧的な口調も慇懃無礼な態度もまだ許せる。わざとだろうがなんだろうが、そういうキャラ作りであり性格づけだというのなら認めよう。私も十分にアリスらしくないし、少女の領域を突き崩す行動を既に何度も取っている。

 たとえそれが求められた結果だとしても、選んだのは自分だ。重々理解しているし認可している。だけれど、それとは別として。アリスだとかアリスじゃないだとかを差し引いても、私が私として許せないこともある。

 たったひとつ、これだけは、どうしたって認められない。

「初耳だ」

「……耳、ないものね。うさぎのくせに」

 あくまでも白を切る白うさぎに、にこやかに笑顔を向ける。押し殺した怒りと爆発寸前の憤慨を逆のベクトルに移行させながら、考える。

 ――あぁ、この真顔ですっとぼけるうさぎに頭から紅茶をひっかけてやったら泣いて謝ってきたりしないかな。うん、多分しないだろうな。

 暴力的なことはこうして脳内でだけ考えるに限る。実践にまで移したら、それこそひとでなしになってしまうもの。

 そう告げれば、さすがにこのむすくれうさぎでも笑い転げて椅子から落ちたりするんだろうか。

「だったらもう一度云うわ。何度でも云うけど、出来れば今すぐ覚えてちょうだい」

 ゆっくりと、言葉を吐き出す。込み上げる怒りを抑えてやんわりとした口調を保てるように心がけながら、あくまでも真摯に。そして必死に。

「私、置いてかれるのが嫌いなの。だから置いていかないで」

 私を、ひとりにしないで。

 勝手に、どこかへ行かないで。

 私に黙って行ってしまわないでほしいし、出来れば連れて行ってほしい。もしも行かなくちゃならない場所があるのならそれは私が追いつける距離であるべきだし追いかけられる速さでなくてはならないし、そもそも私を置き去りになんてしちゃダメだ。

 私の足は確かに遅いし、あとから追いかけても到底追いつけるわけがないに決まっている。一生懸命走るなんてことはとてもじゃないけどできない。ならせめて、待ってと声を上げて届くところにいてくれるべきで、寧ろ手を引いて一緒に歩いてくれた方がずっといい。

「私が寝てるうちに勝手にどこかへ消えるの禁止。何度云えばわかるの、この駄ウサギ」

 それなのにこのうさぎは。 

 夜になって、朝になると消えている。

 だから目を覚ます度にこうして森の中を歩き回り、探す羽目になる。

 それで見つかるならまだいい方で、初めなんて取り残されて呆然とする私の前に何時間も経ってから現れて「どこにいたんだ?」なんて抜かしやがった。

 無論、私は一歩も動いてなどいない。と云うか、驚きすぎて立ち上がることすらできなかった。

 自分の足で歩き回って見つけ出せるようになっただけでも、この数日で私がどれだけ飛躍的な成長を見せているかわかるだろうに。それをこのうさぎは、初耳ですとばかりの顔で、事実そんなことを云ってのける。

「そうは云うがな、メアリ・アン」

 自分のカップに紅茶を注ぎ足しながら、うさぎが口を開く。

 大して難しいことを云っているはずもない私の懇願を、あっさりと無視して。用意された台詞をただなぞらえるように言葉は紡がれる。

「時間がないんだよ、メアリ・アン。俺たちには、猶予がないんだ」

 わざとらしく胸ポケットから懐中時計を取り出して、ちらりと文字盤に目線をくれて。

「遅れてしまったら大変だ。遅刻はいけない。そんなことは許されない」

 だから早く、一刻も早く。

 こちらを見向きもせずに走っていく時計うさぎを、ただ追いかけろと。

 つまりはそう云いたいらしい。

 なるほど、どうしようもない平行線。こちらの云い分に対する返答としてはひどく不本意なものでしかないし、理屈としても馬鹿らしいけど、明確な意志は感じられる。

 私の足が遅いのがいけないと。だからとっとと追いかけて来い、自分は先に行っていると。そう云いたいのか。それはなんともふざけた言葉だ。

 私は置いていかれるのが嫌いだと何度も云っているにもかかわらず、知ったことかと切り捨てる。根底にあるだろう屈強な意思は、ただの少女でしかない私の懇願をもくつがえす大層ご立派なもののようだ。

 …………やっぱり紅茶ぶっかけてもいいかな、こいつ。

 けれども仕方のないことかもしれないと頭の隅で思う私は、随分と生温い。

 この現実感の希薄すぎる世界で強制されている作業も相まってか、感情が摩耗しているのだろう。

 ここではない、本来の居場所にいたならば、きっと枕を投げ飛ばし花瓶をたたき落としてカーテンを引き裂き、総動員でなだめられるような癇癪を起こしかねないだろうに、今のこの私のなんと聞き分けのいいことか。もっとも私はそこらの子供よりも余程に物分りのいい少女であって、どうしても譲れないこの一点のみを除けば、手のかからない良い子として知れ渡ってはいるのだが。

 それにしたってこいつの言葉を飲み込んでしまう程にやわい決意でもないのだけれど、こればかりは条件としてやはり仕方がない。諦めるのは癪だけれど、そして諦めるつもりもないけれど、こいつの云い分がいくら身勝手であろうとも認めざるをえないのだ。

 アリスは時計うさぎを追いかけて穴に落ち、不思議の国へと迷い込む。

 絶対条件として必要なト書きを守れずして、アリスを名乗れるわけがない。

「――まぁ、アンタの意見は理解したわ。許諾するかは話が別だけど」

 紅茶を口に運び、喉を潤す。うさぎの頭にかからずに済んだそれは、既に生温くなっていた。一気に煽って空にしたカップを戻すと、陶器同士がぶつかって小さな音が鳴り響く。

「でもね、やっぱりこれは悪循環だと思うの。毎度起きる度にアンタを探し回っていたんじゃ、時間が勿体ないったらないわ」

「……ふむ?」

 ティーポットに手を伸ばすうさぎを制して小皿に並べられたクッキーを手にとる。大きめのチョコチップクッキーを手で割り砕き、小さくなった欠片を口へと放り込んだ。

 こうして様々なものを口にしても体の大きさに変化がない辺り既に物語から脱線していると思えなくもないけれど、少なくとも私は与えられた役割とやるべきことを怠る気は一切ない。

「アンタの云う『作業』をするにも、私はまだこの国に不慣れなのよ。だから、多少なりとも道案内やヒントは必要でしょう? 物語のキャラクターとしてではないアンタの役割が私のサポートだって云うのなら、それは守られてしかるべきだと思うけど」

「追われるうさぎではなく、水先案内人としてというわけか」

「そういうこと。――そもそもアンタって、一応私のサポートお助けキャラなのよね? ゲームで云うなら、話しかければ次はどこへ行くべきだとかなにをすればいいかを教えてくれる、CPUみたいなもので」

「…………随分な云われようだな」

 あながち間違ってはいないだろうに、気だるげな顔に不服そうな表情を浮かべるうさぎ。

 いや、そんなところで不機嫌になられても困るんだけど。

「だったらせめて、呼んだら駆けつけるとかしなさいよ。あっ、アンタ笛とか持ってないの? 吹いたらすぐさま来てくれるようなやつ!」

 いい考えでしょう? と云えば、うさぎは眉間の皺を深くする。

「俺は犬じゃない……」

 とは云え、不満気な顔をするうさぎよりも私の方が余程に不満だ。だからつい、口悪い言葉がぽんぽんと飛び出してくる。

 元より穏やかな話し合いで済ませるつもりなどとっくになかったのだから、ここでなんとしてでも云いくるめないとならないのだ。

「るっさいわね、私がここまで妥協してるんだから、少しは汲みなさいよ。白目の部分を真っ赤に充血させて、うさぎらしくされたいの?」

「そ、そういう直接的なのはどうかと思うぞ……?」

 クッキーを砕き割りながら脅すと、うさぎの頬が目に見えて引き攣った。具体的にどんな手段を取るかは云わなかったが、意外と脅迫は効果があるようだ。なにを勝手に想像したのかは知らないが今後のためにも覚えておこう。

「仕方がないな――手を出せ」

 これ以上は押し問答になりかねないと察したのか。

 生意気にもため息をついて、うさぎが折れた。

「こう?」

 指先についたクッキーの粉を払って、手のひらを上向きに広げる。

 ここで指輪のひとつでも出てきたら見直すところだが、こいつにそんな甲斐性はないだろう。第一、そんなものをもらっても困る。「これが誓いの証だ――」みたいに渡されても、なんというか、重いし怖い。

 尚も渋面を作っていたうさぎは上着の内ポケットに手を突っ込むと、そこからなにかを取り出した。暫く手の中のそれを見つめると、やがて観念したのか私へ手渡してくる。金属特有の冷たさが手のひらへと落ちてくる感触。

「なぁに、これ。懐中時計?」

 二輪の薔薇が咲き、蔦で覆われた透かし彫りの蓋の奥に文字盤のようなものが見える。

 小さな銀の時計だった。

 手のひらにすっぽりと収まってしまう小振りなサイズだが、見ようによっては少し大きめのアクセサリーにも思える。小さな鎖が円を描いて繋がれているから、実際にネックレスとしてつけることもできるのだろう。少しばかり少女趣味な気もするが、スペアの時計まで持っているとはさすが時計うさぎと名乗るだけのことはある。

「いや、残念ながら時計としては使えない」

 けれど、うさぎは軽く首を横に振り、私の手から時計を拾い上げると蓋を開いてみせた。

 え、と小さく声が漏れる。

 そこには、あるべきものがなかった。

 文字盤の上には、必要であるべき文字も時を刻む針さえもなにもない。

 ただまっさらな表面に、開かれた蓋が透かし彫りの影を落としている。

「これは時間を失った時計だからな。時を刻むことはない」

 蓋を閉じ再び私の手に握らせると、うさぎは胸ポケットから自身の懐中時計を取り出した。そちらは秒針が正確に働いており、せわしなく時を刻み続けている。

 時間を失った時計。

 なんて、意味のない存在だろう。

 まるで、書けない万年筆や歩けない足のようだ。

 そこにあっても、なんの意味もなさない。

 あるだけ無駄どころか、存在自体を否定される、ような。

「だが、時計同士が共鳴するから、それを持っていればお前の居場所はこちらで把握することが出来る。首からでも下げておけ」

「私がアンタを探すことは出来ないの?」

「出来ないな。こちらが本体のようなものだから」

 云って、自身の懐中時計を示す。時計うさぎの持つそれは私の手には収まらないほどの大きさで、ついている鎖も大振りだ。

「ふぅん……若干不便ね」

 要するにGPS機能つきということだろうか。こちらから見つけ出せないのは面倒だが、少なくともこれでうさぎ側から私の位置を確認できるようになったらしい。

「つまり、これを持っていればアンタが私を探しに来るってこと?」

「待遇は向上したと思うが?」

「そうね、まぁまぁかしら。妥当とは云い難いけど」

 気が向けばお迎えに来て頂ける機能とは、なるほど多少はマシになったかもしれない。けれどもそれは要するにこれからも私を追いて勝手にどこかに行ってしまうことを公言しているも同じで、そう考えるとまた怒りが烈火のごとく込み上げてくる。

 時計うさぎは、すぐに目の前からいなくなる。

 まるで、それが本当の役目だとでも云わんばかりに。

 あぁ、本当に、心の底から真剣に――腹の立つ男。

「満足したか?」

「してるように見えるなら、やっぱりアンタの目はどうにかすべきだわ。一応これはもらっておくけど――」

 云いながら、チェーンを指先に引っ掛けてくるくると回すように弄ぶ。それから、うさぎに向けてついっと指先を突きつけた。

「ん」

 うさぎが訝しげな目線を投げてくる。

「……なんのつもりだ? メアリ・アン」

「つけてちょうだい」

 ひどく単純なお願いごとだ。時計につけられたチェーンが頭から被って通せるほどに長いものではなかったので、背後に回ってつけてほしい。

 ただ、それだけのことである。

 うっかりと忘れていたが、私の髪はここ数日で凄まじい速度で伸びているのだ。

 元々、髪の量が多いのでカットするときは梳いてもらうことから始めるくらいだし、慣れない長さに戸惑いも多い。別段不器用というわけではないのだけれど、無理やり自分でどうにかしようとして髪を引っ掛けてしまうのは厭だし第一面倒くさい。

 面食らった顔でうさぎが目を見開く。

「なによ。なにか文句でもあるの? 私がこうして頼んでいるのに」

「…………いや」

 うさぎは困惑したように、口もとをゆるめた。

 それが何故か、微笑ましいものを見るかのような表情に見えたのは気のせいだろうか?

「まったく、仕方ないな」

 表情を確認できたのは、ほんの一瞬。椅子から立ち上がり、背後に回ったうさぎがやっぱり笑っていたような気がしたのは――多分、目の錯覚だ、けれど。

「ほら、お前は髪を上げていろ。つけてやるから」

「えぇ。お願いね」

 チェーンを取り上げられて、云われるがままに両手で髪をかき上げて首筋を晒す。手袋をしているくせに私よりも余程に器用なうさぎは、さっさと鎖を留めてしまったようだった。細い鎖が皮膚に触れるひやりとした感触に続いて、すとんと金属の重みが胸元まで落ちてくる。

 片手を離し、白いエプロンに隠れてしまった時計を引っ張り出すと、胸の上に置いてみる。小さな銀時計は、まるで初めからつけていたかのようにすんなりと収まっている。

 ふむ。中々様になっている、ような。

「これでいいか?」

「上等よ。ありがとう」

「……高飛車なお姫様だな」

「なにそれ、気持ち悪い」

「…………」

 ほんの少し乱れた髪を梳いて、うさぎの手が離れていく。

 ゆったりと籐椅子にかけ直したその顔は、既に気だるそうな表情で固まっていた。

 やっぱり、さっきのあれは気のせいだったんだろうか。

 でもこのうさぎにこんな面倒見のいい一面があったとは、ものすごく意外だ。てっきり拒否されるか罵倒されるとでも思っていたのに。

 どうしてだろう。今こんなタイミングで、あの人を思い出すなんて。

 私の我儘ならなんだって聞いてくれた、やさしいあの人。大好きな、人。

 気をそらすようにして、胸元の懐中時計をいじる。蓋が開いても、そこにはなにも存在しない。文字もなければ針もなく、時間という概念さえ見失った物体が鈍い光を放つだけだ。

「そういえば、メアリ・アン」

「なぁに?」

 呼ばれて顔を上げると、うさぎは皿の上にあったクッキーを一枚とり、音を立てて割り砕きながら欠片を示す。ついさっき私がやったことをそのまま真似たような動作だ。

「こういう食べ方はやはり珍しいと思うんだが」

「あぁ、それ? 大きくて食べづらかったから、つい」

「――――そうか」

 私の答えに納得したのかどうなのか、それ以上の追求はせずにクッキーを口に運ぶうさぎ。甘いものが好きなのか、こうしてティータイムをしているうさぎは結構な量のお菓子を消費していたりする。下手をすると私よりも多く食べているくらいだ。

 ……それにしても、わざわざ指摘されるってことは、そんなに変わった食べ方なのかしら。あの人にも不思議がられたことがあったっけ。

 今後人前では控えようと心に誓う。私はまだ少女であるけれど、多少なりともレディらしい振る舞いをしたいのだ。

 現在進行形で淑女とは程遠い道を突っ走っていようと、多少なりとも人らしくありたいと思う。

 人が恥ずべきことを繰り返している今だからこそ、寧ろ心がけたいことだから。

 

「それで、今日の予定だが」

「ん。今日はどこに行けばいいの?」

 クッキーを飲み込むと、うさぎはやっと本題に入ることにしたらしく、ようやくその重たい口を開いた。

「この道をまっすぐに行って森を抜けると、庭園がある。今日はそこで『作業』をしてもらう。――昨日は重労働だったからな。今日は軽いものにした」

「それは――どうも、気を使っていただいて」

 右手に携えたステッキで示された道を目で追って、辿々しく返事をする。「礼には及ばん」とか腹立たしいたぐいの言葉が追いかけてきた気もするが、無視を決め込む。

 そもそもそのステッキいつから持ってたとかどこから出したんだとか色々云いたいし、今しがた示された道だってペンキみたいに塗りたくられているけれどさっきまでは絶対に存在していなかった。

 赤茶けた色でなぞられた小道は森の奥にまで続いていて、きっと辿って行けばうさぎの云う通り庭園とやらに行き着くのだろう。

 どこまでも非常識。現実感なんて、置き去りの彼方にも程がある。

 つっこむだけ無駄だし、考えたら負けだ。癪に障るけど、どうしようもない。

 ここはそういう場所だと割り切らなければやっていけないと、三日は前に思い知った。

 だって、不思議の国、なのだから。

 みんな、みんな、おかしいんだ。


「じゃあ早速――あ、やっぱり待った。このケーキ食べてからにするわ」

 浮かせかけた腰を再び下ろし、ティースタンドに並んだプチケーキを取り分ける。砂糖をまぶした淡いピンクと色素たっぷりの水色が可愛らしく並ぶケーキを幾つも皿に運んでいると、うさぎの口からまたため息がこぼれた。

「時間がないんだよ、メアリ・アン。わかっているのか?」

「わかってるわよ。でも、また夜ご飯が食べられなくなっても困るもの。体調崩して先延ばしになるより、おやつを食べててちょっぴり遅刻する方がマシだと思う」

「また屁理屈を……」

「私は理屈をこねているのよ」

 口の中に糖分を押し込んで、空になったままのカップを突き出した。

「もう一杯、紅茶をちょうだい。そうしたら、庭園でもどこにでも行ってあげるわ。時間がないなんてことは、云われなくてもわかってる」

 制限時間がどれくらいだとか。そういった細かなことを云い出されないうちはまだいい。時計うさぎの言葉がゆるやかな注意にとどまっている間は、多少の猶予があるのだと思う。ほとんど強制的に私をゲームに参加させたこの男がのらりくらりと言葉にかわされているのだから、おそらく間違いないだろう。

 だけれど、時間がないのは事実。

 悠長なことなんて云っている暇はないし、足踏みをしているつもりもない。

 云われなくたってわかってるのよ、そんなこと。

「砂糖はいらないから、濃い目にお願いね。なんたって私、これから――」

 舌の上で、甘い甘いケーキがとろけてゆく。

 私の発する声も、限りなく甘やかな少女のそれだ。

 でも、吐き出される言葉は重たくて、苦み走ったものでしかない。

 私はこれから、人でなしになりに行く。

 もうそろそろ感覚も麻痺してきたけれど、決して慣れてはいけない。

 この行為は、断じて許されるものではない。

 選んだのは、自分だけれど。選ばされたのも、私であって。

 でも決めたから、やり遂げてみせるんだ。


 今日もこれから、

 私は、

 アリスとして。


「――殺し合いに、行くんだもの」

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