1.『涙の池』とナンセンス・バタフライ
※この回から殺人(?)シーンが含まれます。ご注意ください。
本日のお天気は、マカロンピンクの夕暮れ空模様。
ところにより雨にご注意ください。
ゆりかごの中にいた私は、頬に生温い液体が落ちてきた気がして目を開けた。粘り気のある感触に顔をしかめて、手のひらで拭い取りながら体を起こす。たったそれだけの作業がひどく億劫に感じられて、目覚めて早々にため息が口をついた。
起き上がるのと同時に周囲を覆っていた大きな籠が形を崩していく。私だけのために作られた白いゆりかごは、朝になると姿を消してしまう。はじめのうちはそれすらも恐怖でしかなかったのだけれど、本質的に私から遠ざかってしまうわけではないのだと知って安堵した。
真っ白な花弁が一枚、エプロンドレスの上にひらりと落ちて影を作る。やわらかで肉厚な花びらが濃厚な香りを放っているものだから、思わず鼻に皺が寄る。この香りに一晩中包まれて眠らなくちゃならないなんて、本当のところは拷問でしかない。
息苦しいまでの過保護さ。過剰なまでのやさしさ。甘受してしまえば、それこそやわらかで甘やかなぬくもりに包まれていられるけれど、与えられるものには限りがあるはずと疑心暗鬼になってしまうのだ。口に出して拒絶すればなにもかもが破綻していくのだと、頭の隅で恐怖を抱く自分もいる。
これは、私を守って縛りつけるやさしい茨。まるで、あの人にそっくりだ。
もうひとつ、ため息になり損ねた空気が唇の端から漏れていく。
手のひらに目を落とせば、粘着質の液体が張りついて広がっていた。
禍々しくも赤黒いその色に既に動揺もしなくなっている辺り、案外と順応性の高かった自分を褒めてやりたいようでそうでもない。
ゆっくりと皮膚の上で乾いていく誰かの血液を眺めて思いつく。
そうだ。起きたのだから、顔を洗わなくっちゃ。
少しよろけながら立ち上がると、自分の足元へと視線を落とす。つまさきの丸くなった黒いエナメルの靴。そこから伸びる両足は、白と黒のニーソックスに包まれてスカートのフリルの中へと消えている。
「おはよう、私のあんよさん。今日のご機嫌はいかがかしら?」
勿論、両足から答えは返らない。クリスマスプレゼントを請求されることもなければ歩きたくない方向へと飛び出していくこともない。軸にした右足を踏み込んだ途端、左足が見当違いのどこかしらへ飛んで行ってしまうなんて、そんなことは起こるわけがないのだ。
普通に歩ける。なんて感慨深くて、ありがたいお話。
なんでもない日おめでとうとか歌い出したくなるほどだ。
日にちの感覚がきちんと存在しているのなら、なんでもない日が数回は経過しているだろう朝。空の色は既に夕暮れ色だけれども、そして昨日はずっと青空のままだったけれども――その前はなんだったか、もう覚えていない――とにかく朝も昼も夜もなく好き勝手に色を変えていく空を睨めつけて、確信する。
今日の目覚めも、多分最悪だ。
エナメルの靴が、湿り気を帯びた草を踏み荒らす。音は、ほとんどしなかった。
そよぐ風が心地いい。こうして朝の散歩をすることなんて近頃ではめったにないことだったから、ほんの少しだけ最悪な気分が霧散していく。
生い茂る木々をくぐり抜けていくと、不意に開けた場所に出た。眼前にはたっぷりとした大きな水面が広がっていて、淡いエメラルドブルーの色が揺れている。こんな色をした涙を流す人間は、きっと心が宝石みたいにきれいなんだろう。それじゃなければ、絵の具をぶちまけたみたいな不愉快の塊に決まってる。
『涙の池』と呼ばれるらしい水辺に屈み、鏡みたいにやけにはっきりと姿を映し出す水面を覗くと、やはり頬に赤黒い染みが貼りついているのが見えた。肩越しに映る空の色は、お菓子に混ぜ込んだ食紅のようだ。
本日のお天気は、マカロンピンクの夕暮れ空模様。
ところにより血の雨にご注意ください。
どんな天気だと思うものの、実際に降ってきたものは仕方ない。否、もしかしたらこれは、昨日からついていたのかもしれない。ともあれ服に染みがつかなくてよかったと、その程度の感想しか抱けなくなってきていることに若干の嫌気が差す。ため息混じりに揺れ動く水面に指先を浸すと、ひやりとした温度が皮膚を浸透して、もやのかかった頭を覚醒させてくれる。そのまま水をすくいあげて顔を洗い、いつの間にかポケットに入っていたハンカチで顔を拭った。
再び水の鏡面を覗いて、血の跡が消え去っているのを確認する。
大丈夫。顔はそこそこだけど、きれいにはなった。
「……それにしても、髪、こんなに長かったかしら」
肩よりも伸びた髪の先をつまんで、首を傾げる。水面に映った私も同じように首を傾げて、こちらをじっと見上げている。
「…………やっぱり、少し伸びた気がするのよね」
どう思う? と尋ねれば、水に浮かぶ私も同じ言葉を同時に発して、ふたりして首を傾げる羽目になる。ここで答えが返ってくるとそれはそれで厭なので別に構わない。
肩先で揺れる髪が水面に触れそうになって、そっと手で払った。その仕草がひどく新鮮で、だからこそ。どう考えても、髪が伸びているとしか思えない。
少なくともこの間――ここでひとり殺したときは、もう少し短かったはずなんだけれど。
回想という名のあぶくが噴き出してくる。
エメラルドの雫が弾け飛ぶ。
体重をかけて頭を押さえつけると、体の下で抵抗するように羽根が舞った。
水が跳ねる。泡が飛ぶ。もがく体は苦しさをめいっぱいに表現して暴れ回る。けれど私は一切の力を抜かずに、更に力を込めてそいつの顔を水中に押し込み続けた。酸素を求めて体が動くのをなんとか堪えようとして、指先が空を切った。びっしりと羽毛に覆われた腕が、補給できない酸素を掴んで蠢いている。
溺死がいいと云ったのは、そいつ自身だった。
だから望み通りにしてやったのだけれど、最期の最後に後悔はしなかっただろうか。こんなに苦しいならやめておけばよかったと、もしもそう思っていたのなら、気づかなくって申し訳ない。ごめんなさいだ。
やがて、一際大きく痙攣すると、ぐたりと体から力が抜けた。
水音を立てて垂れ下がった腕が湖面に沈んでいき、上半身の重みに全体が傾ぐ。茨が伸びて、私を守る。一緒に墜落してはたまらないと慌てて体を引くと、大きな飛沫を上げながら、そいつの体は湖へと落ちていった。私は茨に守られている。水面がめちゃくちゃに歪み、幾つもの波紋が浮かび上がる。
あっけなく出番終了。お疲れ様です。
穏やかさを取り戻した水の上に『それ』が浮かんできたのを見て取って、落ちないように気をつけながら手を伸ばす。拾い上げて一瞥し、安堵の息。それからため息。
その時点ではまだ嫌悪感にも苛まれて倦み疲れていた顔が、記憶の中に蘇る。
エメラルド色の鏡はただ沈黙を守りながら、白い茨に守られた私の姿を映し出していた。
「……あのときは、水に髪は届かなかったのよね。うん、やっぱり伸びてるわ」
人間の髪が伸びる速度は大体一年で十センチメートルかもう少し長いくらいと聞いたことがあるのだけれど、たかだか数日で目に見えて数センチも伸びているこの現状。さて、どう考えるべきだろうか。
否、寧ろ思考しない方が良さそうだ。どうせ、こんな状況。こんな世界。答えなんて出るわけない。
ため息、は、安売りするのも癪に障るのでやめておく。そろそろ気分を切り替えよう。空は相変わらず早朝から夕焼けで、どこで一日を区切ればいいのかさっぱりわからない有様だけど、少なくともそれらしい生活リズムで過ごさないと、負けた気分になる。
「さ、て。顔を洗ったら次は朝食ね。それからあのバカ探して……えっと、逆の方がいいかしら?」
体内時計は正しく機能しているようで、じんわりと空腹を訴えてくる気がしているから安心だ。こういうときはつめ込むだけでも大切なのだと、あの人が前に云っていた。悲しくても苦しくても、お腹が空くのが人間なのだ。感情は摩耗し始めていても感覚が正常なら、それだけでも良好と云えるそうだから。
とは云え、私ひとりでは今朝の食事にも事欠く有様で、正直なところどうすればいいのかがわからない。こんなときばかりとあの腹立たしい生き物には呆れられるかもしれないが、私はまだ少女なのだ。右も左も、そもそも方向感覚さえ存在しないような森の中で自給自足しろと云われても困ってしまう。
どうしたものかと立ち上がり、振り返ったその先に。
群れて舞う食パンが飛んでいた。
こんがりと焼けたトーストの表面に、バターがやわらかく溶けている。滲んだ半透明の黄色がパン生地に染み込んで、甘い匂いが漂う。羽根が動く度に分厚く切り取られたパンの耳が開閉を繰り返し、それらは騒がしく群れをなしていた。
…………パンだ。どう見ても食パンだ。それもパン祭りに参加できそうなダブル耳タイプ。しかも既に調理済みのバターつきトースト。バターつきパンのバタフライ。
自称しているかは知らないが、どうやらそれは蝶のようだった。
飛んで火に入るなんとやら、だろうか。それとも鴨がネギを? いいや、この場合はやっぱり、あの言葉こそがふさわしい。
「私を食べて――ってことなのかしら。嬉しくないけど」
足音を忍ばせて近寄る。手を伸ばす。一枚のパン、もとい羽根を引っ掴むと、蝶はぴたりと動きを止めた。まるで、たった今息絶えたかのように。真ん中からふたつに割って、羽根をもぎ取る。すぐさま湯気が立ち上って、食欲中枢を刺激する香りに辺り一面が包まれた。一口齧ればバターのよく染み込んだ生地の風味が口の中いっぱいに広がる。
普通に、美味しい。美味しいのだ、けれど。
「…………なんて、ナンセンスなのかしら」
森の中でバターつきパンの蝶を捕まえて朝食。
これは果たして、自給自足になるのだろうか。なんにせよ頭が痛い。どこまで現実感をシカトすれば気が済むんだ。トーストの味が馬鹿みたいに美味、というわけでもなくあくまで普通なのが現実的だとでも云いたいのか。
一枚だと物足りないように思えたのでもう一匹捕まえて、羽根をもぐ。あっさりと事態に順応している事実からは目を逸らしつつ、今度はのどが渇いてしまって辺りを見回した。どこかにジュースが詰まった木の実だとかがあれば便利なのに。
あぁ、けれど、今は紅茶が飲みたい気分だ。濃い目に入れた紅茶にたっぷりのミルクと、お砂糖はふたつ。
としたら、やはりあいつを探さないと始まらない。