手記、今生臨の暇乞い
辞書を、辞書を用意するんだ! おいそこ! 何をやっている! なにぃ? 要らねぇだぁ!? バッキャロウ! そんな体たらくで読めるわけねぇだろうが!
どうぞお手柔らかに。
他に勝る才も無く、他に比して差異も無く、平々凡々たる人生を、僕は十余年にも亘ってやってのけてきた。華々しい経過も、捗々しい成果も、僕は嘗て歩いた途の何処かに置き忘れて来たらしく、此の手は空を摑み、此の眼は虚を見つめ、盈虧の「虧」ばかりが、眼窩に嵌る眼玉の如く浮き彫りと為っていた。最早、右顧左眄しようが其の頽廃は逃れ得ぬ物と成り、待ち侘びた終焉の闇が大口を開けて躙り寄る。嗚呼、此の僕に歌詠みの才が在れば、此処で辞世の句を詠み、嬉々して彼の咽喉奥に此の身を投じるのに。兎角に人の世は住み難い、と云ったのを聞き、又如何なアタラクシアを享受しようと、末期の危機たる約定は蓋し訪れる物である事を覚える。因りて騏驥すらも跼天蹐地の怯懦と為し、常闇の暁が天穹を漫ろに染めるのだ。
虚無よ、僕が其の幽妙に魅入った虚無よ。幽明界を異にすれば、其の灼然たる霊験を、恣にできるだろうか。殊に乾坤一擲を賭し、己が空蝉を宛ら泡沫の如く廃す事に厭いなどしない。だから、僕は希う。「メメント・モリ」の警句の許に、欣求浄土、厭離穢土、願わくは生天を。
何時だって、此の雪辱を晴らす事に専心していた。此の恥辱を雪ぐ事に献身していた。当然、僕の中には確固とした正義が揺るぎなく在った。薊の花が咲く季節、僕は一顧だにせず自らを恃み、荒寥とした砂礫の大地へ足を踏み出した。幾千里もの茫漠とした途ならざる途を行き、幾度も己が内に湧き起る忿恚を忘却しそうになった。其の度に、僕は臥薪嘗胆の日々を想起し、其のアナムネーシスに因って懐中のピストルの重さを確かめたのだ。握り締めた二十二口径の拳銃は、金属質の鈍い光沢と火薬の僅かな臭いを放ち、其の兇弾の射出を待ち兼ねていた。埃っぽい襤褸の外套を黒風に靡かせ、僕の心境に該当する情動の数を数え、荒廃した砂漠を直行った。喧々囂々と吹き荒ぶ砂塵の中、あらゆる煩悩、懊悩、苦悩を、「クラ・ラ・エト・ディスティンクタ」を唱え棄却した。そして十三度の斜陽と十三度の旭日を見、僕は遂に天と地の境界に、隆盛を誇る彼の町を認めた。幻影でも、蜃気楼でもない、確かに僕の眼は旅の終りを捉えたのだ。
逸る血気と疼く裂創をおさえ、僕は足を町へと踏み入れた。創傷と焦燥が相乗され、思わず眼許が眩んだ。自然、口角が上がり全身の筋肉が細かく震動した。先ず僕は町の酒場に向った。酒場とは謂わば情報の社交場である。多種多様な情報が、酒の勢いと共に錯綜しているのだ。其の情報の収束地帯であるこの店の主は、町きっての有識者だという事になる。其処は黄昏時の掻き入れ時と謂うのも相まって、耳を聾せんばかりの喧騒が僕を迎えた。眉を顰めつつ、僕はカウンターに居る店主の許に歩み寄り、以下の旨を尋ねた。僕の仇敵は此処に来るのか、来るとしたら何時頃来るのか、仲間を連れて来るのか、武装はして来るのか。彼は、突然現れるや否や自らを質問攻めにした僕を、浮浪者か何かだと判断したらしく、暫くは口を利こうとしなかった。僕は長丁場を予感して店主の眼前の席に陣取り、アルコールを不得手とするのを忍んで麦酒を一杯頼んだ。之で得体の知れない奇人から腹の底が分からない客に昇格された訳だ。僕は質問を再開した。しかし何故か店主は頑なで、一向に口を割る気色は見えない。仕方無く一品物を注文し、訊問の如き調子で問い質した。それでも店主は口を真一文字に引き結び、グラスを拭いているだけだった。腰に提げた巾着袋から金貨を三枚出しても、依然彼は閉口していた。痺れを切らした僕は懐から鈍色の兇器を覗かせつつ肉迫し、その頑迷な頭の風通しを良くしてやろうかと嘯いた。彼は筋骨隆々の偉丈夫といった風体だったが、されど銃には敵うまい。腕節での相対など叶うまい。銃弾は三発しかなかった。僕が銃の扱いに長けていない以上、可能な限り発砲は抑えたかった。そうだ、来るべきあの時まで、僕はまだ此の赫怒の激情を表出させてはいけないのだ。大義を思い出し、僕は平生の怜悧で冷酷な思考を取り戻した。腰を下ろし、好きでもない麦酒を一気に呷り、僕は代金をカウンターに叩き付けて酒場を後にした。
憔悴と泥酔の中、如何にして宿を取ったのか、気が付けば鍵を握って着の身着のまま寝床に横になっていた。時は既に宵、酔いの醒めた僕は外套を脱いで洋灯に火を点け、沈思しながら拳銃の整備を始めた。払暁と共に、もう一度あの酒場に赴き、それでも訊き出せなければ又其の翌日もだ。三度訪ねて、再三尋ねて、それでも彼の店主が黙然としていれば、諦める他あるまい。しかし、それでは彼奴の所在は分からない儘である。誰に訊けば、或いは何処を捜せば、再び相見える事ができるのだろうか。摑んでいるのは、此の町を出入しているという事のみで、それ以外の居場所に関する情報は皆無だった。矢張り、どうしてもあの店主を口説き落す必要が有るのかもしれない。そうこう黙考している内に整備が終ったので、ピストルの安全装置を掛け、残り少ない食料を口に掻き込み、僕は再び微睡んだ。
曙光が差し、徐に瞼を開いた。思いの外疲労が解消できており、僕は寝床から蹶起した。瞬く間に身支度を終え、荷物を纏めて宿を出た。昨日の酒場へと一足飛びに向い、一直線に店主の許に往った。そしてなけなしの金を全てカウンターにぶち撒け、僕は店主の眼を睨め上げた。しかし悲しい哉、矢張り彼は黙する姿勢を貫いた。僕は其の貫徹した態度に感嘆をすら抱いた。だが、為さねばなるまい。代替案がまだ見つからない以上、此の店主に依らねば僕の指標の獲得は儘ならぬ。半ば諦観に蝕まれた僕は、麦酒を一杯頼み、彼奴を討たねばならない理由、其の経緯、自らの志を語った。すると、思いがけない事に、漸く彼は其の堅牢な城砦の如く口を開いたのだった。其の遠雷の轟くが如く声の曰く、彼奴について語るのは此の町では禁忌とされているからだと云う。口を開いた事に驚愕の面持を隠せない儘、何故禁句なのかと問うと、それは彼奴が邪智暴虐の限りを尽して其の悪名を恣にし、誰もが辟易としているから、と答が在った。僕はふむと唸った。彼奴が町民を恣意的に虐げているという事実が、これで僕の知る処と為った。彼の猾智に長けた大悪党を遺憾無く打ち砕くには、矢張り僕の有する企てが強ち誤謬ではなかったという事だ。最後に僕は、自らの仇敵が、此処に訪れた事は在るか否かを確認した。店主は僅か頷いた。僕はカウンターに金貨を置き、席を立った。
此の町に這入った時を大幅に上回る、云い知れない昂奮が僕の胸中を占有していた。躯の随処で血液が滾り、遂に仇敵と相見える悦びを全身が感じていた。僕は、彼奴を討てさえできれば、此の狂わんばかりに脈動する生命を擲っても構わないとすら思っていた。遍く怨嗟を断ち切るには、其の元凶を討つ他無い。私怨が籠っていないと云うならば、それは虚言だった。寧ろ、僕の行動原理の全ては私怨で占められていた。積年の怨恨を晴らす、それだけの為に、此の日までの僕は在った。僕は決して忘れない。あの嘲るような嗤笑を、全身の骨を歪めんばかりの蹴撃を、吐き棄てられる罵詈を、口内に拡がる汚泥の味を、あの日誓った復讐の志を。三発の鉛弾に僕の憎しみも怨みも何もかもを込めて、蛇蝎の如く跳梁跋扈する彼の仇敵の息の根を必ずや止めんと、撃鉄を起し引鉄を引くのだ。銃口は彼奴を捉え、銃弾は彼奴を貫き、そうして何もかもが終った時、僕も又、何もかもが終るのだ。
ややもすれば、待ち望んだ時が来る。僕は心此処に在らずというような状態で、酒場から宿屋に向っていた。前方から数人が歩いて来ていたが、それにも気付かず、其の内の一人と肩がぶつかってしまった。そして、運命とは中々どうして数奇な物で、悄然と顔を上げて見れば、其処には忘れもしない、僕の憎悪の全てが在ったのだった。
四半秒の間を置き、脳髄でパルスが爆ぜた。冷静や怜悧と謂ったあらゆる物が俺の中から消え失せ、視界を真白に染め上げた。デトネーションが起ったかの如く俺の躯は軋み、視野が一瞬にして狭窄した。胸中で訥々と並べ立てていた弁は何処へやら、俺は一切の思考を放棄し、懐中に忍ばせていたピストルを引き抜いた。乾いた発砲音が鼓膜を震わせ、火薬の臭気が鼻腔を擽り、硝煙が視界を漂い、反動を殺し切れず痛む腕は確かな手応えを覚えた。俺が莞爾として笑い、其の成果を認めようと銃口の先を見た時、脊梁への強い衝撃と両腕を極められた感覚と頭蓋に蹂躙の激痛、それぞれが順番に訪れた。直ぐ眼の前で地面が、我関せずと素知らぬ振りをしていた。一体全体、何が起ったのだろうか。俺は頭の上の靴底と地面で頭を擦りつけながら、背中に乗る何者かを睨んだ。太陽の逆光でその表情は明瞭には拝めなかったが、其奴らは先刻の俺のように下卑た笑みを浮かべていただろう。俺は腕を極められ身動きが取れない状態で、只其奴らを睨む事しかできなかった。俺の上に乗った奴は、俺の仇敵は、俺の頭上に覆い被さり、嗄れた声で唾を吐きながら云った。「久方振りじゃあないか。どれ、此処で遭ったのも何かの縁だ、何処かで久闊を叙すのはどうだろうか」
それから僕は人気の無い何処かの路地裏へと連れて往かれ、あの時に再帰した。銃弾を吐き終えた拳銃も奪われ、奴は物珍しげな口調でそれを賞賛していた。「真逆お前がこんな物を持っているとはな。そうまでして、俺に復讐したかったという事か。だが、人を呪わば穴二つ。分かっているよな」僕は奴の仲間二人に壁に磔にされ、口の端から血反吐を垂らし、力無く項垂れていた。僕が放った鉛弾が兇弾として其の帰結を迎える事は無く、全てを懸けた僕の三発は明後日の方向へと別れを告げたのだった。斯くして、僕の復讐は、存外にあっさりと、誰にとっても予想外の形で終焉した。「何時だったか、とある偉い坊さんがこう云ったそうだ。『人が人の為に行動するには、二つの感情のいずれかが必要だ。即ち、愛情と憎悪である』……愛憎。お前は其の言葉通り見事に後者として行動を起した訳だ。はは、しかし其の結果が之では、どうにも報われまい」奴の取巻き連中が何やら喚きながら嗤った。僕は壁に押え付けられた儘、虚無的な快楽に沈もうとしていた。何もかもを喪い、唯一の生きる糧であったものも完膚無きまでに破砕され、己の矮小や無力が愉快で堪らなくなったのだ。血反吐と共に洩れる笑みに、奴らは訝る素振を見せた。僕は云い知れぬ愉悦に浸り、虚ろに曇った眼を足許に向けていた。奴らは機微の読めない僕に対して激昂した。僕は奴らには一瞥もくれず、只々平坦に咽喉を鳴らし続けた。奴らは次第に僕が発狂したと怯え始め、其の拘束が緩み始めた。僕はくつくつと笑った。奴らの顔からは血の気が引いていった。「は、はは。てっきり俺はお前が失禁でもするものと思い込んでいたが、中々どうして、面白い奴じゃあないか。認めよう。確かにお前は変った。それが良いのか悪いのかは分からないがな」僕の仇は一歩後退り、顔色蒼然としつつ仲間に眼配せをした。狂乱の最中に在る僕は笑いを止められず、口角は三日月を描いた。其奴らは頷き合い、拳撃を僕の華奢な躯に数発叩き込んで踵を返した。僕はどうと地面に倒れ伏し、焦点の合わない眼で奴らが遁走を図るのを眺めていた。そうして奴らの姿は、砂塵の向うへと消えていった。
畢竟。僕は彷徨する。苦境に屈伏し、僕は咆哮する。究竟。僕は生も死も、どうやら過去の忌々しい途上に置いて来たらしく、此の躯には絶叫しか残っていなかった。槍の方向も分からない儘真っ二つに折れ、遣り場の無い憤懣を持て余していた。自己欺瞞も試みたが、幾度も仕損じ、もうどうすれば良いのかも皆目、分かりはしなかった。死に損ないの末路は、茫然自失として生霊の如く在った。齢十余にして、弱い自己を十二分に思い知ったのだ。僕は空蝉だ。此の身の内は虚ろに満ちており、漫ろに朽ちており、蔑ろに堕ちている。僕は「ニル・アドミラリ」の媒体を懐胎し、ニヒルの子を孕んだ。無機質な天穹を振り仰ぎ、曇天の下、僕は流浪していた。幾許もの歳月を費やそうと、僕の掌中の力は蟷螂の斧も同然であり、僕の胸中の火からは逃亡の事も当然であった。燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんやとは云うが、僕は鴻鵠などと謂う高尚な物ではなく、所詮は下賤なる燕雀に過ぎなかったという事だろう。何もかもがどうでもよくなった。蠢愚たる僕の前には、遍く事象が瑣末な物に過ぎなくなる。僕は、砂礫の地に空いた大口を睥睨しつつ、そう思った。何時の間にやら辿り着いていた其処は、大口というよりは、心地良さげな揺籃を髣髴させる。底の見えない断崖の上で、僕はほくそ笑んだ。弛緩した躯は振子のように揺れ、疾患に罹っているかのように揺れ、遺憾無く情動に任せて揺れる。半歩踏み出せば、或いは半身を前に傾げれば、暗澹とした虚ろに邯鄲の夢は掻き消える。否、夢とは儚いもので、とうの昔に、幽冥の彼方へと別れを告げたのかもしれない。僕は、其の夢の幻影を追っていたのかもしれない。そして、今になって漸く、僕は其の無為な事を悟ったのだ。もしも神が居るのなら、僕は其奴を怨み辛みを込めて睨み、其の存在を唾棄するだろう。どうして僕に生きる魅力を与え給うたのか、どうして僕に満ちる気力を与え給うたのか。其の事を只管怒鳴りながら、唾棄するだろう。されど、僕の許に神は居ない。在るのは耐え難い刹那と、須臾の永劫回帰のみである。
嗚呼、僕には歌詠みの才が無い。だが、此の瞬間を言祝ぐ事はできる。嗚呼、僕には渇望する活力が無い。だが、絶望の闇に身を投じる事はできる。皓月の許に僕の外套は薄汚く照らされ、貪婪の光を湛えた僕の瞳は鈍く相輝く。襤褸の中から、骨と皮ばかりの右腕を伸ばす。僕は酔生夢死の体現。泡沫の遥か彼方に在る残葩。在りもしない都の蒼氓。
黎明が地平線を染めるより早く、僕の躯は融解し、幽界の境地へと至るだろう。形而上の存在と成り、それでも尚僕は慙愧の嘆きを洩らし続けるだろう。燎原の火もかくやとばかりに其の負荷は伝播し、僕の瞭然とした意識は掻き消えるだろう。
中空へと僕の躯は躍り、虚空へと其の身を屠る。心地良かった。只々、悦楽のみが在った。そうして、 僕は、 陶酔を 鬩ぎ合う 狷介なる 堕ちた。
ーーーーーーーー。
難解な言葉を使う、改行をしない、ハッピーエンドが書けない。
この三点は酷いと思いませんか? 読者の方に読みやすいよう配慮しない作品なんて、駄作ですよ駄作!
さて今回の作品「手記、今生臨の暇乞い」は、今生の暇乞いという言葉から着想を得ました。この言葉は、死ぬ覚悟で別れを告げる、という意味です。明記されてはいませんが、作中で「僕」と名乗る彼こそが、その今生臨です。彼の背景につきましては、おおよその見当はつくかと。蛇足かもしれませんが、彼の仇敵が語った「とある偉い坊さん」について。その坊さんは架空です。どれだけ電脳世界の海を掻き分けようと、ついぞ見つかることはないでしょう。まぁつまり、その坊さんが仰った事も私の妄言です。作中世界には確かに実在したのかもしれませんが。
今作で、私が文芸部で寄稿致しました作品の内投稿できる出来のものは終わりです。今後は、文芸部の関与しない、私事の手遊びとして執筆した作品を、気まぐれながらも投稿していきますので、どうぞお付き合いくださいませ。
ご読了頂き、恐悦至極に存じます。