第42話「影から来た女」
保護室の扉が閉じてから、1分も経っていなかった。
警報はまだ鳴っている。
一定の間隔で繰り返される電子音と、施設内に留まるよう指示する機械音声。それ以外は妙に静かだった。
爆発音もない。
誰かが走る足音も聞こえない。
さっきまで研究員たちが確認していた情報でも、負傷者は出ていなかった。
侵入者がいる。
それだけは確かなのに、施設の中で起きていることがほとんど見えない。
「外部回線は?」
「生きてます」
研究員の一人が端末を確認する。
「警備班とは?」
「連絡できます。ただ、研究棟のカメラはほぼ全部駄目ですね」
「侵入者の位置は」
「……取れていません」
全員の声が小さい。
保護室にはわたしを含めて4人いた。
広くはない。
壁際に非常用の端末と椅子があり、奥には簡単な救急用品が置かれている。窓はなく、出入口はさっき閉めた一つだけだった。
厚い扉。
電子錠。
内側からの追加施錠。
ここへ入った時点で、少なくとも普通に廊下から入ってくることはできないはずだった。
スマートフォンを見る。
倭から一通来ている。
『今どこ』
『保護室です。研究員さん3人といます』
すぐ既読になる。
『扉閉めた?』
『はい』
『そのまま』
『わかりました』
短い。
でも、外には倭がいる。
施設の警備も動いている。
少しだけ指先の力が抜ける。
「水守さん」
「はい」
「ご家族への連絡はこちらでも行っています。今のところ、保護室から出る必要はありません」
「わかりました」
「侵入者が研究区画まで来ている可能性がありますが、この部屋は通常の研究室より防護性能が高いので――」
研究員の言葉が途中で止まった。
照明が、一度だけ揺れた。
暗くなったわけではない。
ほんの一瞬。
蛍光灯の光が、わずかに弱くなったように見えた。
「停電?」
「電圧は正常です」
一人が端末を見る。
もう一度。
光が揺れる。
今度は、わたしにも原因が少しだけ見えた。
照明ではない。
床の色が変わった。
「……影」
誰かが呟く。
保護室の床には、机や椅子、人の身体が作る影が落ちている。
そのうちの一つが、伸びていた。
わたしの影ではない。
研究員のものでもない。
壁際。
何も置かれていない場所から、黒いものがゆっくり広がっている。
「下がって!」
研究員が声を上げる。
全員が壁際へ寄る。
端末から警備へ緊急連絡が送られる。
黒は止まらない。
液体ではなかった。
床を濡らしているわけでもない。
ただ、本来そこにあるはずのない影だけが、薄く長く伸びていく。
そこだけ光が届いていないように。
違う。
光があるのに、黒い。
床の上へ広がった影が、一か所へ集まる。
人一人が立てるくらいの大きさ。
その中心が、わずかに盛り上がった。
最初に見えたのは、指だった。
白い指先。
黒の中から、ゆっくり現れる。
床に手をついたわけではない。
影そのものの内側から、こちら側へ抜けてくる。
手首。
腕。
肩。
女の身体が、音もなく影の中から立ち上がった。
誰も声を出さなかった。
わたしも。
あまりにも普通に現れたから、一瞬だけ何を見ているのかわからなかった。
女は、若草色を纏っていた。
最初に目に入ったのは、その色だった。
黒い影から出てきたせいで、余計に鮮やかに見える。
身体に沿う上衣。
布地は上質そうで、装飾は多すぎない。それでも、襟元や袖には細かな意匠が入っている。実用だけを考えた服には見えなかった。
若草色。
春先の新しい葉に近い色。
その中にいる女自身は、ひどく白かった。
陶器みたいな肌。
緑がかった金髪。
顎の少し上で切り揃えられた髪が、毛先だけ柔らかく曲がっている。
細い身体。
それでも立ち姿に頼りなさはない。
こちらを見た目は、同じ若草に近い色だった。
「動かないでください!」
研究員が叫ぶ。
女がそちらを見る。
驚いた様子はない。
「動いておりませんわ」
静かな声だった。
高くはない。
冷たいようにも聞こえるのに、発音の端だけ妙に柔らかい。
少しだけ舌が言葉へ触れる感じがした。
女が笑う。
口元がほんの少し開いた。
そのとき、一瞬だけ舌が見えた。
二つに割れている。
見間違いかと思うより早く、口は閉じられた。
「あなたは誰です」
「その質問に、わたくしが素直に答えると思います?」
声だけなら穏やかだった。
研究員の一人が、わたしの前へ少し出る。
「ここは保護区画です。どうやって入ったのですか」
女の目が扉へ向く。
「扉からではございませんので」
「侵入者はあなたですね」
「さて」
否定もしない。
女は右手に何かを持っていた。
薄い黒色のケース。
力環の備品に見える。
研究員も気づいた。
「それ……」
女が視線を下げる。
「ああ。これですか」
片手で軽く持ち上げる。
「お返しはいたしませんわ」
口調は、借りた本の返却を断るくらい平然としていた。
「第二資料保管区画のものですね」
「そうかもしれません」
「何を持ち出した」
「お答えする必要が?」
「機密資料です!」
「存じております」
そこだけ返事が早かった。
知らずに盗ったわけではない。
最初から目的だった。
研究員が端末へ手を伸ばす。
「警備が来ます」
「もう来ておりますでしょう?」
女は部屋の外を見るように、閉ざされた扉へ視線を向ける。
「廊下に6名。少し離れてさらに4名。みなさま、とても慎重でいらっしゃる」
研究員の手が止まった。
「……見えているんですか」
「いいえ」
女の足元で、影が動く。
「見ているのは、この子たちです」
黒い床の一部が持ち上がった。
細長い形になる。
頭。
胴。
尾。
蛇に見えた。
一匹ではない。
二匹。
三匹。
影でできた蛇が、女の足元から静かに這い出してくる。
表面に鱗はない。
目も見えない。
それでも首を持ち上げ、何かを探るように頭を動かしている。
研究員たちがさらに下がった。
「遺能……」
「ええ」
女は否定しなかった。
「便利ですのよ」
影蛇の一匹が、扉の下へ向かう。
そのまま細くなる。
床と扉のわずかな隙間へ入り込み、向こう側へ消えた。
もう一匹は壁際へ。
壁の影へ重なると、その姿も見えなくなる。
どこにいるのか、わたしにはもうわからない。
「カメラを黒くしていたのも」
聞くと、女がこちらを見た。
初めて目が合った。
一瞬だけ。
「ええ」
それだけ答える。
研究員がわたしの前へさらに出ようとする。
女はそれを特に止めなかった。
「壊してはいませんわ。面倒でしょう? 弁償など」
「そういう問題ではありません」
「そうでしょうか」
少し首を傾ける。
何となく、会話が噛み合っていない。
女の中では本当に、カメラを壊さなかったことが配慮の一つなのかもしれない。
「警備員にも手を出したのですか」
わたしが聞く。
「いいえ」
女はすぐ答えた。
「必要がございませんでしたので」
倒す必要がなかった。
たぶん、それだけ。
人を傷つけたくないからではない。
その違いが、何となくわかった。
「では、どうしてここに」
研究員が聞く。
「資料はもう持っているんでしょう」
「ええ」
「なら退路を確保して逃げればいい」
「そうですわね」
女は同意した。
でも、動かない。
影の中へ戻る様子もない。
「では」
「まだ帰るとは申しておりません」
穏やかなまま言う。
研究員の顔が強張る。
「何が目的です」
「目的はもう済みました」
「ならなぜ」
「少し気になることができましたの」
女の視線が、部屋の中をゆっくり動く。
端末。
研究員。
壁。
そして。
わたしのいる方向へ近づいてくる。
まだ、わたしだけを見ているわけではない。
ただ、この部屋の中に何かを探している。
そう見えた。
スマートフォンが手の中で震えた。
倭。
『そっち何かあった?』
画面を見る。
返信しようとした瞬間。
「外へ連絡なさるの?」
女の声。
顔を上げる。
「はい」
「どうぞ」
止められると思っていたので、少し意外だった。
「止めないんですか」
「止める理由がございませんもの」
「警備が増えますよ」
「もう十分おりますわ」
また影蛇が戻ってくる。
床の黒へ溶けるように女の足元へ集まった。
この人には、廊下の状況がほとんどわかっているのかもしれない。
メッセージを打つ。
『侵入者が保護室の中にいます。女性です。影の遺能を使っています。』
送信。
既読。
数秒後。
『今行く』
倭らしい返事だった。
でも、施設内は封鎖されている。
簡単には来られない。
「水守さん」
研究員が小さく呼ぶ。
前へ出ないように、という意味だと思う。
わたしも動かない。
女も動かない。
変な状態だった。
侵入者と、研究員と、わたし。
全員が同じ狭い部屋にいる。
それなのに、まだ誰も戦っていない。
「あなた」
女が研究員の一人へ声をかける。
「はい?」
「それ以上、非常用遮断装置へ近づかないほうがよろしくてよ」
研究員の動きが止まる。
手が、壁際の操作盤へ伸びかけていた。
女はそちらを見てすらいなかった。
「なぜ」
「影が挟まっておりますから」
操作盤の下。
細い黒が動く。
蛇。
研究員が手を引く。
「作動させれば?」
「この部屋の電子系統が一部落ちるでしょう。その間にわたくしが何をするか、みなさまにはわからなくなる」
「脅しているんですか」
「説明しておりますの」
女は少しだけ笑った。
笑顔なのに、安心できない。
「大人しくしてくだされば、今のところ何もいたしません」
「信用できると思いますか」
「思いませんわ」
即答だった。
研究員が黙る。
「知らない侵入者を信用するほうが問題でしょう?」
言っていることだけなら正しい。
だから余計に困る。
女はケースを脇に抱え直した。
黒いケースの角には、力環の管理番号が見えた。
すでに目的のものを手に入れている。
逃げる能力もある。
廊下の警備配置も把握している。
それでも帰らない。
女の足元で、影蛇がゆっくり身体を重ねる。
そのうちの一匹が、こちらへ頭を向けた。
止まる。
わたしも見る。
顔らしいものはない。
でも、見られているような感じがした。
「……何ですか」
影蛇へ聞いても意味はないと思う。
蛇は答えない。
ただ、少しだけ首を傾けるように頭を動かした。
「珍しい」
女が呟く。
「何がですか」
「いえ」
今は答えないらしい。
影蛇がゆっくりこちらへ一歩分近づく。
研究員が緊張する。
「下がってください、水守さん」
言われなくても動かない。
蛇も、それ以上は来なかった。
女が初めて、少し長くわたしを見る。
若草色の目。
表情はほとんど変わらない。
名前を知らない人のはずだった。
少なくとも、わたしは直接会ったことがない。
でも。
どこかで見たような気がする。
力環の資料。
ニュース。
何かの注意喚起。
記憶を探していると、研究員の一人が息を呑んだ。
「……神目」
女の目がそちらへ動く。
「神目、一生」
名前が出た。
頭の中の記憶とつながる。
国際手配情報。
力環内でも注意対象として共有されている名前。
犯罪組織、翳華。
複数国で活動。
影の遺能。
危険度、Aランク相当。
「ご存じでしたのね」
一生は否定しなかった。
「光栄ですわ」
まったく光栄そうには聞こえない。
研究員の顔色が変わる。
「水守さん、絶対に動かないでください」
「はい」
一生はその言葉を聞いて、今度こそはっきりわたしを見た。
「水守」
小さく繰り返す。
若草色の目が細くなる。
でも、まだ何も言わない。
足元の影蛇だけが、もう一度こちらへ頭を向けた。
一生は盗んだ資料を腕に抱えたまま。
逃げるでもなく。
攻撃するでもなく。
その場に残っていた。
そして初めて、わたしの名前を確かめるように口にした。
「――水守なぎさん?」
警報は、まだ鳴り続けていた。




