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第33話「ここから先は来るな」

 倭が選んだのは、使われていない倉庫の脇にある細長い空間だった。


 道路側には低いコンクリート壁があり、反対側には古い金網が続いている。奥には倉庫の外壁があって、完全な袋小路ではないものの、出入りできる方向は限られていた。


 人通りはない。


 近くに一般の車も見えない。


 倭は周囲を一度見回すと、わたしを倉庫の壁際まで連れていった。


「ここ」


「ここにいればいい?」


「ああ。壁から離れんな」


 倭が足元を指す。


 地面には、舗装の切れ目が一本走っていた。


「この線より前に出ないで」


「普通の線ですね」


「目印」


「倭さんの線じゃない?」


「それは今から張る」


 背後の道から、また靴音がする。


 少し近い。


 わたしがそちらを見ようとすると、倭が視線だけで止めた。


「なぎ」


「見ません」


「そうして」


 声は落ち着いていた。


 でも、さっきまで一緒に歩いていたときより低い。


 倭は上着の袖を少し捲り、右手を開いた。


 何かが見えたわけではない。


 ただ、空気が変わった。


 力環の検査室で「線」を見たときと似ている。


 何もなかった空間に、細い張力のようなものが生まれていく。


 わたしの振は使っていない。


 それでも、一度共振実験をしたせいか、以前より少しだけわかる。


 倭の指先から伸びた何かが、空間の中へ一本ずつ固定されていく。


「……いっぱいありますね」


「わかる?」


「少しだけ」


「触んなよ」


「触りません」


 倭はわたしの前へ一本。


 右斜め前へ二本。


 道路側へさらに数本。


 高さも違う。


 足首くらい。


 膝。


 腰。


 胸。


 同じ場所へ何本も重ねているわけではなく、道そのものを区切るように張っていく。


 光の加減によって、ごく一瞬だけ細い線が見えた。


 蜘蛛の糸より細い。


 でも、あれに触れれば倭にはわかる。


「これ全部、感知用?」


「全部じゃない」


「違うのもある?」


「ある」


「何が違うんですか」


「今は知らなくていい」


 即答だった。


「わたしが踏んだら?」


「だから動くなって言ってる」


「わかってます」


「なぎ用のところは開けてる」


 そう言われて足元を見る。


 自分の周囲だけ、少し空間が広く取られているらしい。


 壁際。


 左右。


 頭上。


 そこには直接線を通していない。


 まるで、倭の線で囲われた小さな空白だった。


「これが安全圏?」


「ああ」


「倭さんは?」


「あたしは外」


「危なくないですか」


「そっち入ったら誰が止めんだよ」


 言い方はいつも通りだった。


 倭はさらに線を張る。


 道路の端にあるポール。


 倉庫の金属柵。


 地面近く。


 高い位置。


 固定する場所があるたびに、空間へ細い道が増えていく。


 線は見えにくい。


 だからこそ、知らない人にはどこにあるのかわからない。


「倭さん」


「何」


「これ、相手が走ってきたら危なくないですか」


「殺すようには張ってねえ」


「でも切れることあるって」


「今のは切断用じゃない。止める、絡める、転ばす、位置取る。それ用」


 倭は一度こちらを見た。


「相手が勝手に無茶しなきゃ、大怪我まではさせねえよ」


「できれば戦いたくない?」


「当たり前」


 すぐ返ってきた。


「尾行しただけなら、まだ殴る理由ねえし」


「でもここまで誘導した」


「話して帰るならそれで終わり」


 倭は本当に、戦うためにここへ来たわけではないらしい。


 逃げ続けるより、相手が何者なのか確認したほうがいい。


 そのために一般人の少ない場所を選び、自分が有利な空間を先に作った。


 必要なら止める。


 でも、最初から傷つけるつもりではない。


「なぎ」


「はい」


「スマホ」


 手に持っているものを見せる。


「あります」


「緊急連絡、すぐ押せる?」


「はい」


「今からあたしが合図したら力環。もう一個言ったら水守」


「順番違うんですね」


「状況次第。今は力環のほうが早く動ける」


「わかりました」


「あと、あたしが戻れって言ったら車まで戻る」


「一人で?」


「線で道作る」


「追われたら」


「追わせねえ」


 その声だけは強かった。


 倭はわたしの前へ立つ。


 179cmある身体が、倉庫側から道路を見るわたしの視界をかなり塞いだ。


「一つ聞いていいですか」


「早く」


「わたしが振を使えば、線の感知範囲広がりますよね」


 倭の顔が少し険しくなる。


「使うなって言ったろ」


「でも、相手が増えたら」


「使うな」


 今度ははっきりしていた。


「今はまだ必要ない。あんたはそこにいろ」


「必要になったら?」


「必要になったら、あたしが言う」


「わかりました」


 素直に答える。


 倭の肩から少し力が抜けた。


「……ちゃんと聞くんだな」


「危険なときは聞くって言ったでしょう」


「そうだった」


「信用してください」


「してるからここに置いてんだよ」


 一瞬だけ、言葉が止まった。


 倭自身も気づいたらしい。


 少しだけ視線を逸らす。


「……動かねえって意味で」


「わかってます」


「ならいい」


 また耳が赤くなる余裕は、今はあまりないらしい。


 後ろから聞こえていた靴音が止まった。


 倭も同時に動きを止める。


 右手の指先がわずかに開いた。


「止まった」


 小さな声。


「追ってきた人?」


「ああ」


「どのくらい?」


「30mくらい」


「見えないのにわかるんですか」


「一本触った」


 感知用の線。


 相手はもう、倭の作った範囲へ足を踏み入れている。


「一人?」


「今動いてんのは一人」


「他は?」


「わかんねえ。車に残ってる可能性ある」


 倭は道路側へ一歩出た。


 わたしとの距離が少し広がる。


「倭さん」


「大丈夫」


 振り返らずに言う。


「そこからあたし見える?」


「見えます」


「ならそのまま」


 倭がさらに数歩進む。


 そのたびに、どこかで線が細く震える感覚がした。


 空間全体が、倭の手の中へ入っていくようだった。


 力環の検査室では、線は研究対象だった。


 決められた距離。


 決められた本数。


 決められた刺激。


 今は違う。


 倭自身が道を見て、相手の位置を考えて、必要なところへ必要な線を張っている。


 これが本来の使い方なのだと思った。


 誰かを殴る前に。


 近づかせない。


 逃げ道を残す。


 位置を知る。


 相手が動けばわかる。


 戦うためというより、戦わなくて済む形を先に作る能力。


 倭の性格に少し似ている。


「……来る」


 低い声がした。


 わたしにも、今度は靴音が聞こえた。


 一人分。


 ゆっくり。


 隠す気はもうないらしい。


 倭は動かない。


 両手を下ろしたまま、道の中央寄りへ立っている。


 構えているようには見えない。


 でも、その周りには見えない線が何本もある。


 少しして、倉庫の角から一人の男が姿を現した。


 年齢はわからない。


 黒っぽい上着。


 帽子。


 特別目立つ格好ではない。


 男は倭を見て、その後ろにいるわたしを見た。


 それだけで、偶然通りかかった人ではないことはわかった。


「何か用?」


 倭が聞く。


 男はすぐには答えなかった。


 少し距離を取ったまま立っている。


「道、通りたいだけです」


「じゃあ戻って別の道行け」


「公道でしょう」


「そうだな」


 倭は淡々と返した。


「だから通るなとは言ってねえよ。こっちに近づくなって言ってる」


 男の視線がわたしへ向く。


 倭が半歩動いた。


 それだけで、完全に視線を遮る。


「後ろの子、水守さんですよね」


 名前が出た。


 背中が少し冷える。


 倭の声は変わらない。


「だったら?」


「少し話を聞きたいだけです」


「誰が」


「仕事で」


「所属」


 男は答えない。


「名刺」


 それも出さない。


「連絡先」


 沈黙。


 倭が小さく息を吐いた。


「話になんねえな」


「別に危害を加えるつもりはありません」


「尾行してきたやつが言っても説得力ねえよ」


 男の表情が少し変わった。


「気づいていたんですか」


「そりゃな」


 倭は右手を少し上げる。


 その指先が動いた。


 空気の中で、何かが細く鳴る。


 男の足元。


 ほんの一瞬だけ、斜めに走る線が光った。


 相手も見えたらしい。


 足が止まる。


「遺能者ですか」


「調べてねえの?」


「護衛がいるとは聞いていました」


「なら、もっとちゃんと調べとけばよかったな」


 倭の声は低い。


 でも、挑発するような調子ではない。


 ただ事実を言っている。


「帰れ」


「こちらにも事情があります」


「知らねえよ」


「水守さん本人と話せれば――」


「本人が話したいって言ったか?」


 男の視線がまたこちらを探そうとする。


 倭が完全に遮る。


「なぎ」


 急に呼ばれる。


「はい」


「こいつと話したい?」


 倭は勝手に決めない。


 こんなときでも。


 わたしは少し考えた。


 所属も名乗らない。


 学校から尾行してきた。


 目的も説明しない。


「今は話したくないです」


「聞こえた?」


 倭が男へ言う。


 男の口元が少し固くなる。


「本人は状況を理解していないでしょう」


「だから何」


「こちらが説明すれば――」


「本人が嫌だって言った」


 倭の声が一段低くなった。


「説明したいなら、正規の連絡先通して水守か力環に話せ。学校から尾け回して、人気ねえとこまで来て、今さら本人に直接って時点で信用できねえ」


「こちらも表立って動けない事情があるんです」


「そっちの事情でなぎの意思飛ばすな」


 男が黙る。


 倭も動かない。


 空気だけが少し張りつめる。


「帰って」


 倭が言った。


「今なら何もしねえ」


「拒否した場合は?」


「止める」


「力ずくで?」


「必要なら」


 男が一歩動いた。


 前へ。


 その瞬間。


 倭の周囲で、何本もの線が一斉に張った。


 音はほとんどない。


 でも、わたしにはわかった。


 空間の密度が変わった。


 男も気づいたらしい。


 足が止まる。


 倭はそこから一歩も動いていない。


「警告、一回だけ」


 右手をわずかに上げる。


 道路の端から端まで、光を拾った細い線が一瞬だけ浮かび上がった。


 一本ではない。


 低い位置。


 高い位置。


 斜め。


 交差するもの。


 男とこちらの間に、見えない境界が何層も作られている。


 倭はその中央に立っていた。


「ここから先は来るな」


 普段、わたしに向けるぶっきらぼうな声とは違った。


 怒鳴ってはいない。


 威嚇するように大きくもない。


 それでも、冗談ではないことだけははっきりわかった。


 男は足元を見る。


 少し迷う。


 そして、もう一度わたしのいる方向を見ようとした。


 その視線を遮るように、倭が一歩前へ出る。


 わたしの前には、倭がいる。


 その前には、何本もの線がある。


 壁際に立ったまま、スマートフォンを握る。


 力環への緊急連絡は、すぐ押せる。


 振は使わない。


 倭が必要だと言うまでは。


 今は、その約束を守る。


 相手がどう動くのか。


 倭がどう止めるのか。


 そのどちらもまだわからない。


 ただ、ここから先には来させない。


 そのために倭が引いた境界だけが、目にはほとんど見えないまま、わたしと追跡者の間に張り巡らされていた。

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