第31話「尾行」
その日の放課後も、いつもと変わらなかった。
ホームルームが終わってから倭へ連絡を送り、教室を出る。廊下で友人と少し話し、昇降口で靴を履き替えて、正門を出れば見慣れた赤い髪がすぐに見つかった。
倭はいつもの場所で車の横に立っていた。
「お疲れさまです」
「ん」
「今日は早いですね」
「何が」
「外に出てるの」
「さっき着いたから」
それだけ言って、倭は助手席のほうへ顎を向けた。
わたしも特に気にせず乗り込む。
今日は力環の予定がない。寄り道も特にないので、このまま水守家へ帰るだけだった。
「コンビニ」
倭がエンジンをかけながら聞く。
「今日はいいです」
「了解」
「倭さんは?」
「別に要らねえ」
車が動き出す。
校門から離れる。
いつもの道。
いつもの時間。
助手席には学校鞄。カップホルダーには朝から飲んでいるお茶が残っている。車内には倭の好きな低い音の曲が、小さな音量で流れていた。
何も変わらない。
少なくとも、わたしにはそう見えた。
「今日、眠そうだな」
倭が言う。
「わかります?」
「朝から」
「数学が2時間あったので」
「それで?」
「疲れました」
「数学に恨みでもあんの」
「2時間続くとあります」
倭が少しだけ鼻で笑った。
わたしは窓の外を見る。
学校近くの商店街を抜けて、大きな道路へ出る。夕方なので車は多い。前にも後ろにも何台もいる。
信号で止まる。
そのとき、倭がバックミラーを見た。
普段からよく見るので、特に珍しくない。
信号が青になる。
少し進んで、次の交差点を左へ曲がる。
「今日こっちなんですね」
「ん」
「いつもの道混んでる?」
「まあ」
短い。
それも別に珍しくない。
ただ、その次の交差点でも倭は曲がった。
今度は右。
「こっち、水守家と逆じゃないですか」
「ちょっと回る」
「事故?」
「まだわかんねえ」
まだ。
その言葉が少し引っかかった。
「何がですか」
「なんでも」
倭は前を見ている。
でも、視線だけがときどきミラーへ向かう。
わたしも何となく後ろを見ようとした。
「振り返んな」
すぐ止められた。
「どうして?」
「そのままでいい」
声が違った。
大きくはない。
けれど、さっきまでの雑な会話とは少し違う。
わたしは前へ向き直る。
「何かあります?」
「まだ確認中」
「何を」
「なぎ」
「はい」
「今は普通にしてて」
それ以上は聞かなかった。
倭の言う「普通」が何を意味するのかはわからないけれど、少なくとも今すぐ慌てる必要はないらしい。
車は住宅街へ入った。
普段使わない道だった。
左に曲がる。
その先で一度大きな通りへ戻る。
少し走ってから、また細い道へ入る。
目的地へ近づくというより、同じ辺りを形を変えて回っているような気がした。
「迷ってるわけじゃないですよね」
「迷ってねえ」
「ですよね」
「何で普通に聞けんの」
「普通にしてろって言われたので」
一瞬、倭の口元が動いた。
「……そうだったな」
少しだけ、いつもの声に戻る。
でも右手の指がハンドルの上で開いて、また閉じた。
緊張しているときの癖だった。
わたしも後ろを見ないまま、サイドミラーへ少しだけ目を向ける。
車。
自転車。
歩行者。
何が問題なのかはわからない。
「見るなって」
「振り返ってないです」
「ミラーも」
「細かいですね」
「今は細かくていい」
今度は完全に真面目だった。
「わかりました」
車内の音楽だけが流れる。
倭が次の交差点で左へ曲がる。
信号のない細い道を抜け、また大きな道路へ出る。
そこで一度、車線を変更した。
少し進み、店が並ぶ通りへ入る。
「コンビニ寄らないって言いましたよね」
「寄らねえよ」
「じゃあ何でこっち?」
「確認」
今度は隠さなかった。
「さっきから?」
「ああ」
「誰かいるんですか」
「まだ名前まではわかんねえ」
名前。
つまり、何かではなく誰か。
「人?」
「車」
倭が短く答える。
「学校出てから二台後ろにいた。最初はたまたまだと思った」
「今も?」
「いる」
背中が少しだけ固くなる。
反射的に後ろを見そうになって、やめる。
「同じ車?」
「ああ」
「何回曲がっても?」
「三回」
「それって」
「まだ偶然で通せなくはない」
倭はそう言うけれど、声を聞けば本人はもうほとんど偶然だと思っていないことがわかった。
「車種は?」
「黒。セダン。ナンバーは見た」
「水守家の関係者では?」
「なら事前に聞いてる」
「力環」
「同じ」
「夜也さん」
「だったら今すぐ文句言う」
少しだけ緊張が抜けた。
「夜也さんならありそうですか」
「勝手に尾けてきたらあいつでも怒る」
「そうなんですね」
「当たり前だろ」
倭がバックミラーを見る。
「……まだいる」
今度は声が低かった。
わたしは膝の上で手を組む。
「どうします?」
「まだ何もしねえ」
「家に帰る?」
「帰らない」
すぐだった。
「水守家に知られたくないから?」
「逆。家まで連れてく気がねえ」
なるほど。
尾行されているなら、そのまま帰れば水守家まで案内することになる。
「じゃあ力環?」
「そこも今は行かねえ。尾行の目的わかってない」
「警察は?」
「確定してから」
倭は少し速度を落とした。
前の信号が赤になる。
車が止まる。
「なぎ」
「はい」
「スマホ出して」
言われた通りにする。
「水守に連絡?」
「まだ送るな。画面だけ開いとけ」
「はい」
「力環の緊急連絡も出せるようにしといて」
いつも登録している番号を開く。
「出しました」
「そのまま」
赤信号。
長い。
倭の目がミラーへ向く。
わたしは前だけを見る。
「倭さん」
「何」
「怖いですか」
少し間があった。
「今は考えてねえ」
前にも似た答えを聞いた。
金属板が飛んできたとき。
仕事中にそんなことを考えている暇はない。
たぶん今も同じなのだろう。
「なぎは?」
「少し」
「そ」
「でも、倭さんがいるので」
言ってから、自分では特に深く考えなかった。
ただ事実だった。
一人なら、何をしたらいいのかわからない。
今は倭がいる。
だから指示を聞けばいいと思っている。
隣から返事がない。
「倭さん?」
「……今それ言う?」
「何が」
「いや、いい」
耳が少し赤くなっているように見えた。
こんなときでもそこは変わらないらしい。
信号が青になる。
倭はそのまま直進した。
しばらく走り、大型の商業施設が見えてくる。
駐車場へ入るのかと思ったけれど、その前を通り過ぎる。
「ここにも入らない?」
「入ったら車止めることになる」
「止めたくない?」
「まだな」
さらに進む。
倭は道をよく知っている。
普段の送迎で使わない道でも、迷う様子がない。
「護衛の仕事でこういうことよくあるんですか」
「尾行?」
「はい」
「たまに」
「どうやって判断するんです?」
「一回同じ道通ったくらいじゃ判断しねえよ。曲がる理由の薄いとこ何回か曲がって、それでも同じ動きするか見る」
「今それしてたんですね」
「そう」
「わたしに言わずに」
「最初から言ってどうすんだよ」
「知りたいです」
「確定してねえのに怖がらせるだけだろ」
それはそうかもしれない。
「でも、今は教えてくれた」
「ほぼ黒だから」
「黒?」
「尾けてる可能性高いってこと」
倭がまたミラーを見る。
「さっきの交差点、あいつ一回直進しかけて、こっち見て急に曲がった」
「それは」
「ああ。偶然で通すにはきつい」
つまり。
「尾行されてる」
「たぶんな」
思ったより静かに言われた。
その言葉だけで、いつもの帰り道が急に違って見える。
通り過ぎる店。
信号。
隣を走る車。
歩道を歩く人。
どれもさっきまでと同じなのに、その中にわたしたちを見ている誰かがいる。
「目的、わたしですか」
「まだ決めつけんな」
「倭さんかもしれない?」
「ある」
「水守家?」
「ある」
「力環?」
「ある。振のこと漏れてる可能性もゼロじゃねえ」
最後の一つだけ、少し嫌だった。
「振って、そんなに価値あります?」
「自分で思ってるよりはあるだろ」
「Cですよ」
「条件依存」
倭は即座に返した。
「Aの晶に干渉して、あたしの線の感知まで伸ばした。単独Cってだけ見てるやつばっかじゃねえよ」
研究員からも言われていた。
数字だけを見てはいけない。
強い相手へ触れたとき、評価値から大きく外れる可能性がある。
「まだ研究中なのに」
「だから欲しいやつもいる」
倭の声は淡々としていた。
不安を煽るような言い方ではない。
ただ可能性を並べている。
「まあ、今は理由考えても仕方ねえ」
「まず尾行をどうにかする?」
「そう」
少し先で道が二つに分かれる。
右へ行けば、いつもの住宅地方面。
左へ行けば、郊外へ抜ける広い道。
倭は左へ曲がった。
「家と逆ですね」
「ああ」
「どこ行くんですか」
「ちょっと遠回り」
「また?」
「今度は意味あるやつ」
倭の顔が少し変わった。
今までよりも、仕事をしている顔だった。
「なぎ」
「はい」
「ここから先、あたしが言ったこと聞ける?」
「内容によります」
倭が一瞬だけこちらを見る。
「そうだったな」
「危険なら聞きます」
「危険」
「じゃあ聞きます」
すぐ答える。
倭は小さく息を吐いた。
「まずシートベルトそのまま。スマホ手元。外には出るなって言うまで出ない」
「はい」
「何かあったら、あたしより先に自分でどうにかしようとすんな」
「学校の事故の話ですか」
「そう」
「わかりました」
「ほんとか?」
「今回は倭さんがいるので」
また言うと、倭が少しだけ口を閉じた。
「……わかった」
「倭さんは?」
「何」
「一人で何とかしようとしすぎないでくださいね」
「護衛に何言ってんだよ」
「力環にも連絡できます」
「ああ。必要なら使う」
「ならいいです」
倭はそれ以上返さなかった。
でも、拒否もしなかった。
広い道へ出る。
建物が少しずつ減っていく。
窓の外の景色が、住宅街から倉庫や空き地の混じるものへ変わっていった。
ミラーを見るなと言われているので見ない。
それでも、後ろに何かがいると思うだけで、首筋が少し落ち着かない。
「まだいます?」
聞く。
倭がミラーを見る。
「いる」
短い返事。
「ずっと?」
「ああ」
「じゃあ、もう確定?」
少し間がある。
「ほぼ」
倭はハンドルを握り直した。
指先が一度開いて、閉じる。
「今日は家にまっすぐ帰らねえから」
「はい」
「怖くなったら言え」
「言ったらどうするんですか」
「説明する。必要なら止まれる場所探す」
「帰るとは言わない?」
「状況見て決める」
倭らしい答えだった。
何でもわたしの希望通りにするわけではない。
でも、怖いと言ったこと自体を無視もしない。
「今は大丈夫です」
「そ」
車はさらに郊外へ進む。
いつもの帰り道から、もうかなり離れていた。
朝も、放課後も、何度も一緒に通った道ではない。
コンビニも。
学校も。
水守家へ続く景色も見えない。
その代わり、道路の両側には低い建物と広い空き地が増えている。
倭は何も言わずに運転している。
わたしも話さない。
昨日までなら、それは心地いい沈黙だった。
今日は少し違う。
それでも、苦しくはなかった。
隣に倭がいる。
それだけは、いつもと同じだった。
しばらくして、倭が小さく言った。
「次、右曲がる」
「はい」
「そこでまだ来たら」
「来たら?」
倭は一度だけバックミラーを見た。
「もう偶然扱いはやめる」
方向指示器が点滅する。
車が右へ曲がる。
わたしは前だけを見る。
数秒後。
倭の口元がわずかに歪んだ。
笑ったわけではない。
「来た」
それだけで、十分だった。
わたしたちは、尾行されていた。




