妹が「何の価値もない」と婚約破棄されたので、兄貴たちが全力で分からせに行ったそうです。
実験作です。次の連載候補に検討中です。
「婚約破棄をして欲しい」
放課後の帝国学院。その一角にある小さな談話室へ呼び出されたアリス・ウェールズは、婚約者であるエリオット・ハーヴェイの口から告げられた言葉を、すぐには理解できなかった。窓の外では西日が傾き始め、昼間まで多くの生徒で賑わっていた校舎も、少しずつ静けさを取り戻している。わざわざ人目の少ない時間と場所を選んだあたり、彼なりに配慮したのだろう。少なくとも、大勢の前で婚約破棄を宣言して恥をかかせるつもりはなかったらしい。それでも、突然婚約を終わらせたいと言われて平然としていられるほど、アリスも達観してはいなかった。
「……理由を聞いても?」
問いかけると、エリオットは少し緊張した様子で頷いた。嫌いになったわけではない。喧嘩をしたわけでもなければ、他に好きな令嬢ができたわけでもない。ただ、将来について真剣に考えるようになり、このまま婚約を続けていいのか疑問を持つようになったのだという。家同士が決めた婚約だからと何となく結婚まで進むより、自分たち自身が納得して相手を選ぶべきではないか。そこまでなら、アリスにも理解できた。けれど、エリオットはそこで話を終わらせなかった。
「君の家が素晴らしいことは分かっている。君の兄上たちについても、本当に尊敬しているよ」
その言葉を聞いた時点で、アリスは何となく嫌な予感がした。
ウェールズ家は、帝国でも少し特殊な家だった。もともとは歴史ある大貴族ではなく、初代は一介の剣士にすぎなかった。しかし戦場で皇帝の命を救った功績によって爵位を授けられ、その後も子孫たちは代々剣の腕を磨き、戦争や反乱が起これば最前線で武功を重ねてきた。
帝国が本当に危機へ陥った時、最後に頼られる一族。そうした歴史から、いつしかウェールズ家は『帝国の懐刀』と呼ばれるようになった。
現在のウェールズ家には四人の兄妹がいる。
十八歳の長兄レオンは寡黙で冷静な性格をしており、帝国学院でも最上位に数えられる剣士だった。卒業後は帝国騎士団へ入ることがほぼ確実視され、次期当主としても教師たちから厚い信頼を寄せられている。
十七歳の次兄カイルは、そんなレオンとは対照的に少々ヤンチャだった。教師に叱られることも珍しくないが、その一方で面倒見がよく、困っている後輩を放っておけない兄貴肌でもある。学院内では驚くほど顔が広く、年上にも年下にも友人が多かった。
十六歳の三兄ルークは負けず嫌いな天才肌で、兄二人に追いつこうと暇さえあれば剣を振っている。アリスとは一歳しか違わないため幼い頃から特に近く、そのぶん少々過保護でもあった。そして、その三人の下に生まれたのが十四歳のアリスだった。
ウェールズ家では百年以上にわたってほとんど男子しか生まれておらず、久しぶりの女児として誕生したアリスは、家族から随分と大切に育てられてきた。
ただし、一つだけ兄たちと大きく違うところがある。アリスには、彼らほど突出した剣の才能がなかった。もちろん最低限の訓練は受けており、同年代の令嬢と比べれば十分に剣を扱える方だろう。学業も良く、礼儀作法にも悪くない。何をやらせても平均以上にはこなせる。しかし、それだけだった。
剣を握れば兄たちには到底敵わず、学問でも首席になるほどではない。兄三人のように、名前を聞いただけで誰もが納得するほど分かりやすい才能を持っているわけではなかった。
家族は誰もそのことを責めなかった。むしろ兄たちは、アリスに自分たちと同じような剣士になることなど最初から求めていない。それでもアリス自身だけは、幼い頃から心のどこかで気にしていた。自分だけがウェールズ家に相応しくないのではないか。兄たちはあれほど優秀なのに、自分には何もないのではないか。
エリオットは、そんな彼女の不安など知らないまま話を続けた。レオンは卒業前から騎士団に注目され、カイルは学院中に知り合いがいて、ルークも剣術大会で何度も上位へ入っている。それぞれ、自分自身の力で評価されている。
「でも、君は違うだろう?君も何もできないわけじゃない。でも、特別なものがあるわけでもない。剣術も学問も普通より少し上くらいだ。だから考えてしまったんだ。ウェールズという名前がなかったら、君には何の価値が残るんだ?」
言い返せなかった。怒りより先に、心の奥底へ隠していたものを突然引きずり出されたような感覚があったからだ。
兄たちは優秀で、自分だけが普通。もしウェールズ家の娘でなかったなら、自分には一体何が残るのだろう。エリオットの試験勉強を手伝ったことはある。提出物を忘れそうになっていれば教え、人間関係で困っていた時には間へ入り、剣術について悩んでいれば兄たちへ相談して助言を聞いてきたこともあった。けれど、そんなものは婚約者として当然のことだと思っていた。自分の長所だと考えたことすらない。
「……分かったわ。婚約破棄は受け入れるわよ」
それ以上その場にいたくなくて、アリスは談話室を出た。できれば誰にも会わずに帰りたかった。今の顔を家族には見られたくなかったのだ。
ところが学院の玄関へ向かう途中、最も見つかりたくない相手の一人に見つかってしまった。数人の友人と話していたカイルがこちらを見つけ、その瞬間に笑みを消したのである。普段であれば遠くからでも名前を呼んでくる兄だが、今日は何も言わずにアリスのところまで歩いてきた。
「どうした?」
「何でもないわよ」
「何でもない顔じゃないだろ」
そう言われても話すつもりはなかった。アリスが顔を背けると、カイルはしばらくこちらを見ていたが、無理に聞き出すことはしなかった。代わりに友人たちへ手を上げて別れを告げ、そのままアリスの隣へ並ぶ。
「俺も帰る」
このあと友人たちと何か約束していたのではないかと尋ねると、カイルは「なくなった」とだけ答えた。どう考えても今なくしたのだろうと思ったものの、追及する気力もなく、アリスはそのまま歩き出した。すると少し先で、今度はルークと鉢合わせた。
「何でカイル兄さんと――って、アリス。お前、顔どうした?」
アリスが何でもないと繰り返すより先に、カイルがルークの肩へ手を置いた。
「今日は帰るぞ。質問はあとだ」
「いや、絶対何かあるだろ。泣いたのか?」
「泣いてないわよ」
「だったら何でそんな顔してるんだよ」
容赦のない弟分にアリスが睨み返すと、ルークはまだ何か言いたそうだったものの、カイルに背中を押されてようやく黙った。さらに校門付近まで来たところでレオンまで現れた。兄二人と一緒にいるアリスを見るなり、何も聞かずにそのまま合流する。結局、アリスは三人の兄に囲まれて帰宅することになった。
屋敷へ戻ってからも、アリスは婚約破棄について話さなかった。しかし、夕食まで誤魔化すことはできなかった。普段より明らかに食事が進まず、ぼんやりと皿を見ている時間が長い。食後、自室へ戻ろうとしたところでカイルに呼び止められ、振り返れば三兄弟が揃ってこちらを見ている。
「今日、何があった?」
昼間より少し低い声だった。逃げ切れないと悟ったアリスは、しばらく黙ったあとで小さく息を吐いた。
「……婚約を解消することになったの」
真っ先に顔色を変えたのはルークだった。
「は?」
立ち上がりかけたルークを、レオンが視線だけで止める。
「アリスは納得しているのか?」
「……仕方ないじゃない」
レオンは少しだけ考えたあと、頷いた。それ以上は何も言わなかった。カイルも腕を組んでいたが、婚約そのものについて怒っている様子はない。
「まあ、お前がそれでいいなら、そこは俺たちがどうこう言う話じゃないな。相手だって結婚したくないのに無理やりってわけにはいかないし」
その言葉に、ルークだけが不満そうに眉を寄せた。
「でも急すぎるだろ。何で別れるんだよ」
アリスは答えたくなかった。けれど、三人とも黙って待っている。しばらく迷った末、アリスは視線を落とした。
「私には……価値がないんだって。ウェールズという名前がなかったら、何の価値も残らないって。兄さんたちはすごいけど、私は何も特別じゃないからって」
空気が変わった。ルークは明らかに顔をしかめ、カイルの口元から、それまで残っていた笑みが完全に消えた。レオンだけは表情をほとんど変えなかった。
「エリオットがそう言ったのか?」
「……そうよ」
静かな声だった。しかし、アリスには分かる。レオンが一番怒っている時の声だった。
「ちょっと待て。あいつ、自分でそれ言ったのか?」
「そうだって言ってるでしょう」
「いや、確認したくもなるだろ。あいつ、俺に何回剣の相談してきたと思ってるんだよ」
「カイル兄さん、それ今関係ある?」
「ある。かなりある」
ルークは椅子の背へ手をかけたまま、今にも折りそうな力を込めていた。
「俺、今から行っていい?」
「駄目よ」
「まだ何も言ってないだろ」
「顔見れば分かるわよ。絶対ろくなこと考えてないでしょう」
ルークは不満そうに黙り込んだ。その横で、カイルも何やら考え始めている。アリスはさらに嫌な予感がした。
「カイル兄さんも。余計なことしないでよ」
「俺、何も言ってないぞ?」
最後にレオンを見る。
「レオン兄さんもだからね」
「何もするとは言っていない」
三人とも返事が曖昧だった。疲れていたアリスは、それ以上問い詰める気力もなく、その日は早めに自室へ戻った。寝台へ入ってからもエリオットの言葉が何度も頭へ浮かんだが、精神的な疲労の方が勝ったのか、やがて眠りへ落ちていった。
そして、アリスが眠った頃。三兄弟は屋敷の一室へ集まっていた。
「明日殴りに行く」
最初に口を開いたのはルークだった。カイルが呆れたように顔を上げる。
「お前、さっきからそれしか考えてないだろ」
「それ以外あるのか?アリスにあんなこと言ったんだぞ」
「だからって学院で殴ったら、お前が怒られるだけで終わるだろ。最悪、アリスからも嫌われるぞ」
レオンにまで同じことを指摘され、ルークは渋々椅子へ腰を下ろした。
「じゃあ兄貴たちは腹立たないのかよ」
「腹が立つかどうかと、殴るかどうかは別だ」
レオンがそう返す横で、カイルは珍しく笑っていなかった。
「俺だって腹立ってるよ。婚約をやめるだけなら別にいい。アリスが受け入れたなら、そこは二人の話だ。でもさ、『何の価値もない』まで言う必要あるか?」
三人とも知っていた。アリスが昔から、自分だけ兄たちより劣っているのではないかと気にしていたことを。幼い頃、ルークに剣で負けたあと、一人で庭に残って木剣を振っていたこと。カイルが大会で勝てば心から喜びながら、自分にも何か一つくらいあればいいのにと零したこと。レオンが騎士団から声をかけられた時には誰よりも喜んだあと、自分は将来何をするのだろうと小さく呟いたこともある。兄たちは全部覚えていた。
「よりによって、あいつが一番気にしてるところ言ったんだぞ」
ルークが吐き捨てる。
「しかもエリオット、アリスに何もしてもらってないと思ってるんだろ」
カイルの言葉に、レオンが視線を向けた。
「俺とあいつが話すようになったのだって、最初はアリスが連れてきたからだぞ。『エリオットが先輩と話してみたいんだって』って。剣の相談だってそうだ。自分から来る時もあったけど、最初に俺へ頼んできたのはアリスだ」
ルークも思い当たることがあったらしく、眉間へ皺を寄せた。
「俺だって何回も自主練に付き合ったぞ。アリスが『エリオットが悩んでるみたいだから見てあげて』って言うから。あいつ一人に頼まれただけなら、毎回付き合ってない」
「だよな」
カイルはそこで、ようやく少しだけ笑った。
「それでアリスには何の価値もないって言うなら、一回アリス抜きでやってみりゃいいんだよ」
ルークが顔を上げる。
「どういう意味だ?」
「俺はもう、わざわざあいつの面倒見ない。上級生の集まりにも連れていかないし、剣の相談だって他の下級生と同じでいいだろ。お前もアリスに頼まれたから付き合ってたんだろ?」
「もう頼まれないだろうしな」
「レオン兄さんも、あいつが騎士団の推薦どうこう言ってたの知ってる?」
「ああ。ちなみに言うと、俺は一度も推薦すると言っていない」
「だよな。あいつ、周りには結構それっぽいこと言ってるぞ。『将来はウェールズ家から口添えしてもらえるかもしれない』って」
カイルがふと何かを思い出したように動きを止めた。
「……そういや明日、合同稽古だな」
ルークの顔が変わった。上級生が下級生の指導へ入る日である。
「エリオットも、騎士志望だったよな?」
「そうだな」
「だったら俺たちが親切に稽古つけてやっても問題ないんじゃないか?」
ルークの機嫌が一気に直った。
「それなら殴っていいのか?」
「木剣でな」
「ほぼ同じだろ」
「学院公認かどうかは大きいぞ」
カイルが楽しそうに笑う一方、レオンはしばらく二人を見ていた。
「……骨折さえさせなければいい。騎士にとって稽古の傷は名誉とも言うしな」
「レオン兄さん……それって名誉じゃなくて恥なんじゃ……」
カイルの笑みが深くなる。
レオンはそれだけ言うと、話は終わったとばかりに立ち上がった。カイルも腰を上げながら、笑いを堪えるように口元を押さえる。
「明日はちゃんと優しく教えてやるか」
「どの口が言ってるんだよ」
「俺は後輩には優しいぞ」
「エリオットにも?」
ルークが尋ねると、カイルは少し考えた。
「……明日は教育的指導だな」
◇
翌朝、食卓に並んだ三人の兄は、あまりにも普通だった。レオンはいつも通り静かに朝食を取り、カイルは眠そうに欠伸をしながらパンを口へ運び、ルークは今日の授業について愚痴をこぼしている。だからこそ、アリスは怪しんだ。
「……昨日の話、覚えてる?」
「何の話だ?」
カイルが平然と返す。
「余計なことしないでって話よ」
「もちろん覚えてるぞ」
「その顔、絶対何か企んでるでしょう」
「失礼だな。兄を信用しろよ」
ルークが思わず笑い、レオンは黙々と紅茶を飲んでいる。アリスは最後に長兄へ視線を向けた。
「レオン兄さん。二人を止めてよ」
「善処する」
「それ一番信用できない返事じゃない!」
嫌な予感を抱えたまま、アリスは学院へ向かった。そして午後、その嫌な予感は見事に的中した。剣術の合同稽古で、エリオットはウェールズ三兄弟から揃って指導を受けることになったのである。最初に声をかけたのはカイルだった。
「エリオット。今日は俺たちが見てやるよ」
婚約破棄した翌日に、元婚約者の兄が笑顔でそんなことを言ってきたのである。エリオットも当然、何かを察したらしい。
「……三人ともですか?」
「贅沢だろ?」
笑顔で返され、断れる空気ではなかった。事情を知らない周囲の生徒たちは、随分と羨ましそうだった。学院でも名の知られたウェールズ三兄弟が、一人の下級生へ揃って稽古をつけるなど滅多にない。まずレオンが構えを見て、その後カイルが実戦形式で動きを確認し、最後にルークが相手を務めた。詳しい内容について、後にエリオットが誰かへ語ることはなかった。ただ、その日だけは三人とも随分と熱心だったらしい。どの程度熱心だったのかといえば、翌朝エリオットが学院を休んだ程度には熱心だった。
「……何したの?」
その日の夕方、事情を聞いたアリスは兄三人を並べて問い詰めた。レオンは平然としている。
「稽古をした」
「それは聞いたわよ」
「騎士を目指すなら、あれくらい普通だろ」
カイルまで同じことを言い始める。
「全身打ち身で寝込んでるらしいんだけど?」
「骨は折れてないから大丈夫だろ」
ルークの返答に、アリスは額へ手を当てた。
「そういう問題じゃないでしょう!」
「でもレオン兄さんが怪我させるなって言ったから、ちゃんと加減したぞ」
「レオン兄さん!?」
矛先を向けられたレオンは一瞬だけ黙った。
「骨折はさせるなと言った」
「止めてないじゃない!」
カイルが耐えきれず吹き出した。アリスが睨みつけると、さすがに笑いを収めて両手を上げる。
「分かった、分かった。もうやらないって。今回だけだ」
「本当に?」
「本当だよ。もう直接は何もしない」
妙な言い方が引っかかったが、アリスがさらに追及しても三人とも何も答えなかった。
実際、それ以降兄たちはエリオットへ何もしなかった。むしろ、何もしなくなった。学院へ復帰したエリオットは、最初の数日こそそれを気にしていなかった。廊下でカイルを見かければ、これまで通り声をかけようとした。
「カイル先輩。この前相談した剣のことで――」
「ああ、悪い。今日は約束あるんだ。またな」
カイルは普通に笑って答え、そのまま友人たちと去っていった。以前であれば、多少急いでいても話くらいは聞いてくれただろう。別の日、上級生たちが集まっているところへ近づいた時も、以前ならカイルが気づいて「お前も来いよ」と手招きしてくれたはずだった。今は目が合えば普通に片手を上げるだけである。嫌われているわけではない。無視されているわけでもない。ただの後輩になっただけだった。
ルークにも声をかけた。
「今日、自主練を見てもらえないか?」
ルークは一瞬だけエリオットを見た。
「今日は無理」
「明日は?」
「俺、自分の練習あるから」
「前はよく付き合ってくれていただろう」
その言葉に、ルークの眉が僅かに上がった。
「アリスに頼まれてたからな」
それだけ言って立ち去った。エリオットは何も返せなかった。
そして数日後、レオンから呼び止められた。ほとんど話したことのない長兄から直接声をかけられたことで、エリオットは少し緊張した。
「騎士団への推薦の件だが」
一瞬、期待した。しかし次の言葉で、その期待は消えた。
「俺がお前を推薦すると周囲へ話しているそうだな。そんな約束はしていない」
「でも、婚約していた頃は……」
「婚約していた頃もだ。必要なら自分の実力で評価を得ろ。それなら誰も文句は言わない。鍛錬を続ける事だな」
責めるような口調ですらなかった。それがかえって堪えた。エリオットはそこで初めて、自分がウェールズ家との繋がりを将来の一部として当然のように考えていたことへ気づいた。
そして、なくなったものは兄たちからの支援だけではなかった。試験前になっても、アリスは何も持ってこない。当たり前だった。もう婚約者ではないのだから。以前は彼女が自分の勉強をするついでに、エリオットが苦手な部分までまとめてくれていた。提出物の締切が近づけば声をかけ、人間関係で悩んだ時には話を聞いてくれた。ある日、授業で使う資料を忘れたことへ直前になって気づいた。以前ならアリスが前日に「明日使うわよ」と教えてくれていた。別の日には、友人と些細なことで揉めた。これまではアリスに話せば、相手が何を気にしているのか一緒に考えてくれた。剣の調子が悪くなれば、アリスがルークへ聞いてくれた。それらはすべて小さなことだった。一つなくなったところで困りはしない。しかし、全部なくなると違った。エリオットは少しずつ理解し始めた。アリスは何もしていなかったわけではない。自分が、それを数えていなかっただけだ。
一方のアリスにも変化があった。婚約破棄された直後は、やはり自分には何もないのだと思っていた。兄たちのように剣で目立てない。誰より頭が良いわけでもない。そんなある日、友人から声をかけられた。
「アリス、この前はありがとう。あなたが間に入ってくれなかったら、たぶんまだ喧嘩したままだったわ」
以前、友人同士が揉めた時に双方の話を聞いたことがあった。アリス自身は大したことをしたつもりがなかった。
「別に、私は話を聞いただけよ」
「それをしてくれる人がいなかったのよ」
別の日には、以前勉強を教えた友人から礼を言われた。また別の日には、後輩に相談を持ちかけられた。そういうことが何度か続いた。どれも賞を取れるようなことではない。兄たちの剣のように、誰が見ても分かる才能でもない。それでも、少なくとも誰かの役には立っていた。少しずつだったが、それを自分でも認められるようになった。
数週間が過ぎた頃、エリオットもようやく自分が何を言ったのか理解した。婚約をやめたいと思ったことそのものではない。その理由を説明するために、なぜアリス自身の価値まで否定したのか。兄たちと比べ、目立つ才能がないと決めつけ、自分が受け取っていたものにすら気づかなかった。そうしてアリスへ謝ろうとした。
しかし、ここで別の問題が発生した。
放課後、一人で歩いているアリスを見つけ、声をかけようとしたところで、その少し先にレオンが立っていた。何もしていない。ただ見ているだけである。エリオットは足を止めた。翌日、廊下でアリスを見つけ、今度こそ近づこうとすると横からカイルが現れた。
「お、エリオット。どうした?」
笑顔だった。ただし、目が笑っていない。
「……いえ、何でもありません」
「そうか。じゃあまたな」
さらに翌日、中庭でようやくアリスが一人になった。今度こそと思って足を向けた瞬間、少し離れた場所にいたルークと目が合った。露骨にガンを飛ばしており、隠す気すらない。エリオットは静かに方向転換した。
そんなことが何度か続けば、さすがのアリスも気づいた。
「……あなたたち、何してるの?」
帰宅後、三人を前に問い詰める。カイルは笑顔だった。
「何もしてないぞ?」
「レオン兄さんはずっと見てるし、カイル兄さんは毎回近くに現れるし、ルーク兄さんなんて普通に睨んでるでしょう!」
「俺は隠してないからいいだろ」
「よくないわよ!」
ルークが当然のように返したため、アリスは頭を抱えた。
「でもさ、俺たち一回も邪魔してないぞ」
「近づけないようにしてるでしょう!」
「気のせいじゃないか?」
「じゃあ明日から全員、近づかないで」
そこで三人とも黙った。
「何で黙るのよ」
最終的に、エリオットが話したがっていることを知ったアリスは、一度だけ会うことにした。そのことを告げると、ルークは露骨に嫌そうな顔をした。
「会わなくていいだろ」
「私が決めることよ」
「また変なこと言われたらどうするんだよ」
「その時は自分で断るわ」
カイルは少し心配そうだったものの、ルークほど反対はしなかった。
「まあ、アリスが会うって決めたなら止めない。でも何かあったら呼べよ」
「呼ばないわよ。というか来ないでよ」
最後にレオンを見る。
「レオン兄さんも」
「分かった」
珍しく素直な返事だった。だからアリスも少し安心した。
翌日の放課後、指定した場所へ向かうと、エリオットはすでに待っていた。そしてアリスは、その少し離れた場所を見て目を細めた。三人ともいた。レオンは木の近くに立ち、カイルは壁へ寄りかかり、ルークはベンチへ座っている。
「……何でいるのよ」
「離れてるだろ?」
カイルが平然と答える。
「そういう問題じゃないって!」
追い払おうとも思ったが、エリオットがもう来てしまっている。仕方なくアリスは諦めた。エリオットは一度兄三人を見てから、明らかに緊張した様子でアリスへ向き直った。
「……謝りたかった。君に価値がないなんて言ったこと、本当に間違っていたと思ってる。離れてから分かったんだ。俺がどれだけ君に助けてもらってたのか。兄上たちとのこともそうだし、それ以外も……ずっと当たり前だと思ってた。でも、当たり前じゃなかった」
アリスは黙って聞いた。エリオットは少し言葉を詰まらせたあと、頭を下げる。
「本当に悪かった」
その謝罪には、以前のような見下す響きはなかった。だからアリスも、それについては素直に受け取ることができた。しかし、エリオットはそこで終わらなかった。
「もし許してもらえるなら、もう一度婚約をやり直したい」
少し離れたところで、ルークの姿勢が変わった。カイルがすぐにその肩を押さえている。アリスはそれを見ないふりをして、エリオットへ問い返した。
「私に価値があると分かったから、もう一度婚約したいの?」
エリオットは答えに詰まった。その沈黙だけで十分だった。アリスは小さく笑った。兄たちのようにはなれない。剣で帝国一になることもなければ、学院で何もかも一番になることもない。これから先も、人から一目で分かるような大きな才能を持つことはないかもしれない。それでも、自分に価値がないわけではない。
「だから、あなたにもう一度『価値がある』って言ってもらわなくても大丈夫。謝ってくれたことは受け取るわ。でも、婚約は戻さないから」
エリオットはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……分かった」
それ以上食い下がることはなく、もう一度謝罪してその場を離れていった。
その姿が見えなくなった瞬間、三兄弟がすぐに寄ってきた。
「よく言った」
カイルは満足そうに笑いながら、アリスの頭を軽く撫でる。
「だから触らないでって言ってるでしょう」
「今日くらいいいだろ」
ルークも明らかに安心した顔をしていた。
「もし戻るって言ったら止めてたからな」
「それを勝手に決めないでよ」
「でも止めただろ?」
「止めるなって言ってるの!」
レオンだけは少し離れたところで頷いている。アリスはそんな三人を見回したあと、特にルークへ視線を止めた。
「それより、ずっと睨んでたでしょう」
「見てただけだ」
「嘘。普通にガン飛ばしてたわよ」
「レオン兄さんだって見てただろ」
言われたレオンは、何事もなかったように答えた。
「俺は見ていただけだ」
珍しくレオンがほんの少しだけ視線を逸らした。カイルが吹き出し、ルークまで笑い始める。アリスは深いため息をついた。
「次から私の恋愛へ勝手に口を出したら、本気で怒るからね」
三人とも返事をしない。
「聞いてる?」
しばらくして、代表するようにレオンが口を開いた。
「善処する」
「 全くもう!」
カイルが声を上げて笑い、ルークもつられて肩を震わせた。アリスは呆れながら三人の少し前を歩き出した。胸の奥に、以前のような気分の悪さはもうなかった。
後に、レオン、カイル、ルークの三兄弟は揃って帝国騎士団へ進み、ウェールズ家は『帝国の懐刀』としてさらに名を高めていくことになる。三人が学院時代に残した逸話も多く、剣術大会での活躍や優秀な成績、学生のうちから騎士団に注目されていたことなどが長く語られた。しかし同級生たちの間で妙に長く語り継がれた話が、一つだけあった。
百年以上ぶりに生まれた唯一の妹を「何の価値もない」と言って婚約破棄したエリオット・ハーヴェイへ、ウェールズ三兄弟が揃ってたいそう熱心な剣術指導を行った、という話である。
「ただ稽古をつけただけだ」
なお、当人たちは後年になっても、最後までそう言い張ったそうである。




