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告発者

夜の競輪場は、観客席が空になってもなお、どこかざわついた空気を残していた。

 バンクのアスファルトが夜露を含み、照明の光を鈍く返している。


 佐倉拓人は、黙々とペダルを踏んでいた。

 公式練習が終わっても一人だけ残り、タイムトライアルを繰り返すのは、いつものことだった。

 脚に乳酸が溜まり、太腿が悲鳴を上げていても、心臓が火を噴くようでも、止めようと思わない。

 負けるのが嫌いだ。それが理由の全てだ。


「おーい、もう照明落とすぞ」

 管理スタッフが手を振る。

「あと一周」

 短く返すと、またハンドルを握り直し、最後の直線に入った。

 タイヤが路面を噛み、風が顔を切り裂く感覚が気持ちいい。これがあるから、毎日やっていられる。


 ──だが、その夜は、帰り際に違和感を覚えた。

 クラブハウス横の事務棟から、深夜にもかかわらず、声が漏れている。

 低く抑えた、しかし妙に刺々しいやりとりだ。


「……あの新人は外せ。スポンサーが難色を示してる」

「成績は悪くないでしょう。むしろ上位です」

「関係ない。枠は決まってる。やるべき仕事を分かってない奴は使えん」

「じゃあ例の金は──」

「予定通り、裏口から流せ。領収はこっちで用意する」


 言葉の断片だけで、何を話しているのかは分かる。だが、無関係を装ってやり過ごせるほど、耳は鈍くなかった。

 金。枠。スポンサー。

 全部、現役選手である自分に直結する言葉だ。


 翌日も練習場へ向かったが、どこか気が重かった。

 昼休みに後輩の一人が更衣室でため息をついているのを見つけた。


「どうした」

「……いや、ちょっと」

「言え」

「……借金。賭けでスった。チームの人に“次のレースで負けろ”って言われて……そうすりゃ借金は帳消しだって」


 拓人は無言になった。

 昨夜の会話と繋がった。血の気が引くのを感じた。


 夕方、恩師である江藤清治が練習場に顔を出した。

 現役時代“鉄の太腿”と呼ばれた男は、今は渋いスーツ姿で立っている。

「お前、疲れてる顔してるな」

「……なあ、江藤さん。不正をもし見つけたらどうする?」

「そりゃ、状況による」

「黙ってたら、誰かが潰される」

 江藤は深くため息をついた。

「……言う覚悟があるなら、全部失う覚悟もしろ。相手はスポンサーだ」



翌日、拓人はクラブハウスの資料室に忍び込んだ。

 古びたロッカーの奥、鍵もかけられていない段ボール箱から、帳簿のコピーや契約書の束を見つける。

 そこには、架空の整備費や選手への不明瞭な“支援金”の記録が並び、サイン欄にはスポンサー幹部とチームマネージャーの名があった。

 後輩が話した借金の件も、金額と日付まで一致している。


 紙を束ね、スマホで撮影し、バックアップを取る。

 震える手を押さえながら、これを持って行けば、自分の競輪人生は確実に終わると悟っていた。


 翌週、連盟の監査室で全てを提出した。

 監査官は表情を変えず、「確かに受領しました」とだけ言った。

 だが、その無機質な声の裏に、妙な湿り気があった。


 ──それから三日後。

 地方ニュースのスポーツ欄に、自分の顔写真が載った。

《佐倉拓人選手、虚偽告発で処分検討》

《スポンサーの名誉毀損か》

《金銭トラブルとの関連は?》


 記事は事実をねじ曲げ、「佐倉はスポンサーと金銭的な揉め事を起こし、その腹いせに虚偽の不正告発をした」と断じていた。

 SNSでは「裏切り者」「卑怯者」の言葉が並び、連盟からは「無期限出場停止」の通知が届く。


 クラブハウスのロッカーは鍵を替えられ、練習場には入れなくなった。

 部屋のポストには、無言の白い封筒が入っていた。中には切り刻まれたユニフォームの切れ端。


 夜、薄暗いアパートで机に突っ伏していると、玄関のチャイムが鳴った。

 覗き穴の向こうには、江藤が立っていた。

 ドアを開けるなり、缶コーヒーを投げて寄越す。


「馬鹿だな、お前は」

「……知ってたのか」

「まあな。だけど、やらなきゃ気が済まなかったんだろ」

 江藤は椅子に腰を下ろし、じっと拓人を見た。

「もう競輪じゃ走れねえ。だが、速さを武器にする場所は他にもある」

「……場所?」

「車だ。モータースポーツだ。手も頭も使う。お前の瞬発力はまだ錆びちゃいない」


 拓人は笑った。

「俺はもう、誰も信じちゃいない」

「信じなくていい。勝てばいい。勝ち続ければ、お前を消そうとした連中は顔を歪める。それが一番の仕返しだ」


 缶コーヒーの温もりが、少しだけ冷えた胸に染み込んだ。

 外はまだ冬の風が吹いている。

 拓人は黙って、江藤の差し出した名刺を受け取った。

 そこには「オルタ・モータース 顧問 江藤清治」と印字されていた。


 ──すべてを奪われた俺が、再び走り出すための切符だった。

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