第9話 幻獣の森と“共鳴の契約”
【起】森の中で幻獣に囲まれ、警戒される敬たち
──魔素の匂いが、変わった。
雪原を抜けた先に広がるその森は、まるで別の世界だった。
木々の葉は翡翠に輝き、漂う空気は湿った魔素をたっぷりと含んでいる。風の代わりに、何かの“気配”が静かに流れていた。
「……ここが、“幻獣の森”か」
敬がぼそりと呟いた。
かつて竜と幻獣が共に住まっていたという、北の大地の聖域。人間の干渉を嫌い、迷い込んだ者は二度と戻らぬ──そんな伝承すら残る地。
だが今、その禁忌の森に敬・レイナ・ヴァルの三人は足を踏み入れていた。
「……森の魔素濃度、すごいな。濃霧みたいだ」
ヴァルが肩を竦めながら、周囲を見回す。
視界を包む霧は、ただの水蒸気ではない。魔素そのものが空中に漂い、粒子となって光を帯びている。
レイナが警戒するように言った。
「ここ、神霊核には向かない。下手に吸収しようとしたら、魔素の流れごと噛み砕かれるわよ」
「……まるで“生きてる”みたいだな、この森」
敬が呟いた瞬間だった。
木の枝が揺れ、幾重にも重なる気配が一斉に収束する。
霧の奥から、異形の瞳がいくつも──森の精霊のような生き物たちが、彼らを取り囲んでいた。
背に羽を持つ獣、長い尻尾を巻く猫型の影、角を持つ狼のような個体──どれもが人間の知る生物とは異なる、魔素に適応した幻獣たちだった。
「囲まれたな……!」
敬は即座に神霊核を手にし、展開動作に移ろうとする。
だがその時、レイナが鋭く叫んだ。
「敬! 魔素を撒かないで!!」
レイナの声が鋭く、森の霧に響いた。
敬の手が、止まる。
「ここの魔素、無理に動かせば──反発される。たぶん、幻獣たちにとって“体の一部”なんだよ」
敵意。
それは、明確だった。
彼らは侵入者に対してではなく──敬の神霊核に対して牙を剥いている。
全身に緊張が走る。
静かな森に、不穏な“鼓動”が重なり始める。
これはただの警戒ではない。“喰う力”に対する、怯えにも似た怒り。
──この森は、神霊核を拒んでいる。
【承】ユーニ(幻獣族の少女)が現れ、対話を試みる
森の空気が、ふっと揺らいだ。
囲んでいた幻獣たちが、同時に視線をひとつの方向へ向ける。
霧が割れ、そこに現れたのは──
「……人?」
いや、“ほとんど”人。
人間の少女に似た姿。けれど、違う。
淡い灰色の髪は腰まで伸び、額には小さな曲線の角。
背中には透き通る薄羽、腰からはふさふさした尾。
耳は獣のそれで、瞳は深緑の双つ星のように光っていた。
「この森に、よくも足を踏み入れてくれたね、“核持ち”」
その声は、柔らかくも冷たい。
幻獣たちの間を歩きながら現れた少女は、敬をまっすぐに見つめた。
敬は言葉を飲む。
彼女のまなざしにあったのは──軽蔑と、哀しみ。そして……探るような、静かな怒り。
「私はユーニ。この森で生まれ、この森を守る者」
名乗りの後、ユーニは一歩だけ、敬に近づいた。
「その手にあるのは、“汚れた核”。魔素を喰らい、命を乱すもの」
幻獣たちの間に、ざわりと風が走る。
敬は口を開こうとするが、ユーニが先に言葉を重ねた。
「でも──あなたの瞳は、喰らう者のものじゃない。……少なくとも、今は」
静かな霧のなかで、視線が交錯する。
ユーニはふっと目を細めた。
「かつてこの森にも、竜がいた。悠久の時を生き、魔素を循環させてくれる存在」
彼女は空を見上げる。
霧の奥、枝の間から淡く光る星のような魔素が舞い降りていた。
「でも……その竜は喰竜派に狩られた。たったひとりの“喰う者”の手で、森の循環は崩れた。
それ以来、この森では命の流れが狂い、冬でもないのに葉が落ちるようになった」
声に滲むのは、痛みと怒りだった。
「あなたも、その喰竜派と同じ“核”を持つ。だから私たちは、あなたを災厄の種として見ている」
敬は、何も言えなかった。
神霊核──それは力であり、同時に汚れと呼ばれる理由が、今まさにこの森の空気に現れていた。
けれど。
ユーニの声が、少しだけ柔らかくなる。
「けど、あなたがそれを“繋ぐ”ために使えるのなら──私は、それを見極めたい」
そう言って、彼女は手を伸ばす。
その掌は、まるで木の芽のように小さく、温かい。
「あなた自身が、“喰うこと”にどんな意味を見出すのか。……私は、それを見届けたいの」
霧の森に、灯る小さな希望。
その始まりは、幻獣族の少女と“核持ち”の人間との、初めての対話だった。
【転】敬の神霊核が暴走しかけるも、レイナとヴァルが支える
霧が薄らぎ、森の中心──大樹の根元に案内された敬たちは、円形に敷かれた魔素紋の上に立っていた。
「これは“共鳴の儀”。あなたの核と、森の魔素がどう響き合うかを測るためのもの」
ユーニは静かに説明する。
「拒絶されれば、あなたはこの森に生きる価値がないということ。共鳴すれば、私たちは……あなたを、“繋がる者”として迎える」
幻獣たちが距離を取り、祈るように目を伏せる。
敬は頷き、神霊核にそっと手を添えた。
(……こんな俺が、誰かと繋がれるかなんて……分かんねえけど)
それでも、試す価値はあると思った。
その瞬間だった。
「っ……!」
心臓が、軋む。
核が脈打ち、制御できないほどの熱が全身を駆け巡る。
青白い光が炸裂し、森の魔素が暴走したかのように敬へと流れ込んでいく。
幻獣たちが苦悶の声を上げる。魔素の循環が、裂け始めた。
「……ち、違う……俺は……っ!」
敬は膝をつき、歯を食いしばる。
理性が、曖昧になる。
そのとき──
「やめろ! それ以上“食う”な!!」
ヴァルが叫びながら、敬の背に覆いかぶさった。
彼の体から、微弱ながらも魔素が流れ込んでくる。
ヴァルの魔素は、暖かく、優しい。
「俺の魔素、やるよ。あんたがぶっ壊れるくらいなら……俺が止める!」
さらに、
「敬っ!」
レイナの叫びが森に響く。
彼女は剣を抜かずに、ただ言葉だけで、敬を引き戻そうとした。
「誰かの力を“喰う”んじゃない! あんたは“生きていい”って言われたから、進んできたんでしょ!」
その言葉が、刃のように敬の胸を貫いた。
──そうだ。
俺は、誰かに許された。
俺の命は、誰かに望まれた。
……ならばこの力は、“繋ぐ”ためにある。
「……俺は、“ひとり”じゃねぇ……!」
敬が吠えるように叫び、神霊核の光が一瞬強まり──そして、静かに収束していった。
吸い上げていた魔素が解放され、森に優しく還っていく。
幻獣たちは息を整え、驚いたように敬を見つめた。
ユーニも、ほんの僅かに口元を緩めていた。
共鳴の儀──それは、“力”と“想い”が交差する、命の試練。
敬はそれを、誰かの手に支えられながら、乗り越えたのだった。
【結】敬、幻獣と“共鳴契約”を結び、一時的に魔素共有が可能に
霧の中、静寂が戻る。
幻獣たちはその場に留まりながらも、もはや敬に対して牙を剥く気配はなかった。
神霊核の暴走が止まり、魔素の循環が本来のリズムを取り戻したことを──彼らは、肌で感じていた。
そして、誰よりもその変化を見逃さなかったのは、ユーニだった。
敬の目を見つめながら、彼女はゆっくりと前に歩み寄る。
「……あなたの中に、確かに“渇き”はある。でもそれだけじゃない。壊すためじゃない……繋ぐための飢えがある」
彼女の小さな手が、敬の胸に触れる。魔素が微かに流れた。
「あなたに“共鳴の契約”を与える。森の名の下に、私たちの力をあなたに預けよう」
淡い緑の光がユーニの手元に灯り、敬の神霊核へと流れ込む。
その瞬間、神霊核にひとつの“印”が浮かんだ。
それは──
《魔素共鳴スキル》が付与されました
─ 他者との間で一時的に魔素を共有・循環させる能力
─ 供給側の許可があれば、吸収ではなく“接続”が可能
敬の視界に浮かんだその表示に、体が自然と反応する。
温かい。流れ込む魔素が、奪うのではなく、包み込むように繋がっていく。
「これが……“喰う”ってことなのか?」
敬が呟くと、ユーニは首を振った。
「違うわ。これは……“共鳴”。あなたが選んだ、新しい“喰う”の形」
敬は少し考えて、力なく笑う。
「……そうだな。まだ“こうしたい”ってだけだ。やっと一歩、踏み出せただけだよ」
その言葉に、レイナが目を細め、ヴァルが静かに頷く。
森の幻獣たちは、その姿を見ていた。彼らの記憶の中に刻まれるだろう、神霊核の異質な光ではなく、“繋がる”者たちの姿が。
別れの時、ユーニは敬にひとつの小さな宝石を手渡した。
「“竜の涙晶”。昔この森にいた緑竜が、命尽きるときに残した魔素の記憶」
「……俺に?」
「あなたなら、持つ資格がある。あなたは、“喰らう者”じゃない。“受け継ぐ者”だと思うから」
敬はそれを両手で受け取った。
小さな晶石は、ほんのりと温かかった。
森を出る敬たちの背に、幻獣たちの視線が集まる。
“繋ぐ”ことを選んだ人間に、再び森が開かれる日は来るのだろうか。
霧の中、幻獣たちは静かに祈りを捧げていた。