第6話 氷竜の心臓と、少年の願い
――【起】心臓核への道と、拒絶される吸収
雪が降っていた。静かに、深く。
谷間に沈む巨大な骸。その中心には、なおもかすかな冷気を放つ――氷竜の亡骸があった。
「……行くぞ」
敬は息を殺しながら、レイナとヴァルを振り返ると、ブルードラゴンの胸部へと歩み寄った。
傷口の奥。まだ微かに輝く何かが見える。
《魔素源:氷竜・心臓核》
《高密度魔素反応 検出》
《吸収準備を開始します──》
「よし……来い。今度こそ、まともに吸わせてくれ……!」
敬は胸元に埋め込まれた神霊核に意識を集中させた。
肌に浮かぶ光の紋様が、かすかに脈動する。吸引機能が起動しかけた、そのとき――
《警告》
《魔素流入不可:対象魔核の密度が規格外です》
《吸収を強行すると構造破壊の恐れがあります》
「なっ……!?」
まるで心臓を直に殴られたような衝撃が、敬の体内を走る。
胸の奥で軋むような痛み。視界が歪みかける。
「おい! やめな!」
レイナの怒声が飛び、敬の襟首を強引に引っ張った。
膝をついた敬の頬に、冷たい雪が貼りつく。
「バカ、死ぬ気? あれは“核”って呼ばれるだけのことはある。魔素が全部、あそこに圧縮されてんだよ」
レイナは鋭い目で氷竜の心臓部を睨みながら、真剣に言った。
「神霊核で吸うなら、周囲の魔素か、肉体の残留だけにしときな。
無理に“心臓核”吸おうもんなら、魔素の圧に耐えきれず、お前の構造が砕ける。──そのまま爆ぜるよ」
「……チッ」
敬は悔しげに歯を食いしばりながら、膝をついたまま、氷竜の冷たい胸を見つめる。
そこには、命の名残とも言うべき魔力の奔流が、まだ脈動していた。
(生きるための魔素が、目の前にあるのに──手を出せねぇなんて)
凍りつく雪原の空の下、ただ静かに、心臓核は淡く青く、鼓動のように輝いていた。
それはまるで、次の選択を試すように、敬たちを見つめているかのようだった。
――【承】少年の願いと、もう一つの命の重さ
氷竜の鼓動が消えた雪原に、しんしんと静寂が降り積もる。
その中で、少年ヴァルはぽつりと語り出した。
「……母さん、村に置いてきたんだ」
敬が顔を上げる。ヴァルの表情は、いつになく険しかった。
「数年前、狩りの帰りに魔物の毒を受けて、それからずっと寝たきりさ。
村じゃ薬も魔導具もろくに手に入らない。外に出ようにも、雪原を越えられるのは俺くらいで……」
ヴァルは小さな袋を取り出した。中には、村の結界石の欠片と、擦り切れた手帳。
母がかつて薬師だった頃の記録らしい。
「けど……もし、あの氷竜の魔素が使えるなら。あの“心臓核”を薬に変えられるなら──
母さんの病、少しは止められるかもしれない……!」
一瞬、空気が凍った。
レイナが静かに歩み寄り、氷竜の亡骸と心臓核を見やる。
「“コンデンスドラフト”。魔素を濃縮転写して、生命力として投与する魔薬……」
彼女は考え込むように唇を噛んだ後、敬を見た。
「作れるよ。あたしがやる。氷竜の魔核を薬に加工すれば、ヴァルの言うとおり、命は救える」
その言葉に、敬の胸が僅かに痛んだ。
「……でも、それってつまり、俺が魔素をもらえなくなるってことだよな?」
レイナは頷く。
「そう。魔核の中身は一度きりしか使えない。
薬にするなら、あんたの神霊核じゃ吸収できない。
魔素ゼロのまま、次の戦いに行くってことになる」
静かに、風が吹く。
白い雪がヴァルの肩に積もるのを、敬は黙って見ていた。
「選ぶのは、あんただよ。命を“喰う”か、“分ける”か──」
レイナの声はいつもより低く、そして真っ直ぐだった。
敬は拳を握りしめた。目の前には選択があった。自分が生きるために魔素を得るか。
あるいは、この少年の願いを叶えるために、命の力を差し出すか。
彼は口を開いた。かすかな決意の色を帯びた声で。
「……ヴァル。もし薬ができて、お前の母さんが助かるなら──」
雪の中、少年は顔を上げた。
「その時は、ちゃんと“いただきます”って言ってくれよ。俺の命の、ひとかけらだ」
レイナは一瞬驚き、次に微笑んだ。
「……バカが」
雪原の空は曇天。けれど、その胸の奥には、小さな光がともった気がした。
――【転】“分ける”という選択
敬の足元が、ぐらりと揺れた。
魔素残量は限界。皮膚の端がひび割れ、指先は感覚を失いかけている。
それでも彼は倒れず、前を見た。
「……死なないために、喰ってきた」
声は、かすれていた。けれど、その瞳は強かった。
「でも今は……こう思ってる。誰かが生きられるなら、俺の力も悪くない」
レイナがはっとして彼を見る。
敬は神霊核に手を当て、最後のわずかな魔素を補給する。
「魔核の扱いは……お前に任せる。お前の手なら、きっと……」
「……任されとくよ、バカ」
レイナは息を吐き、氷竜の心臓核に向き直る。
心臓核は、淡く冷たい光を放ち、雪上に青い霧を漂わせていた。
その中心に揺れる魔素の核──それはまるで、凍った命の結晶のようだった。
レイナが錬成装置を組み立て始める。ヴァルが道具を手渡し、横で手順を読み上げる。
「構成比は、レアエーテル6:水晶触媒2:氷竜核1……この反応、早すぎる……!」
「落ち着いて。魔素の純度が高すぎるだけ。逆流させなければ、制御はできる」
レイナの額に汗がにじむ。容器内で魔素が暴れ、青い閃光を放つ。
もし失敗すれば、魔核は崩壊して粉になる。使えるのは、一度きりの勝負だ。
「ヴァル、冷却触媒、今!」
「はいっ!」
装置の中の魔素が急激に収束していく。空気が凍りつくほどの冷気が、周囲を包む。
最後の薬瓶がはめ込まれ、核が注がれる。
一瞬、何かが“鳴いた”ような音がした。
そして――。
「……できた」
レイナが、手の中に薬瓶をそっと持ち上げる。
中には銀青色の液体が揺れていた。氷のように澄んだ、冷たくも美しい命の雫。
ヴァルが目を見開いた。
「これが……」
「“コンデンスドラフト”。氷竜の命の核を、薬に変えたもの。村の希望になれる」
レイナが敬のほうを見た。彼は、既に片膝をついていたが――
その顔には、満足げな安堵の色があった。
「……あとは、ちゃんと届けばいいな」
氷竜の亡骸は沈黙を守ったまま、雪に埋もれていく。
だが、その命の一片は――確かに、次の命へと引き継がれたのだった。