第3話「炎の竜と、初めての『いただきます』」
――【起】吸収できない絶望
朽ちた神殿跡に倒れるレッドドラゴンの亡骸。その巨大な躯は、すでに息をしていなかった。
けれど、俺の胸はひたすらに焦っていた。
「……吸え、ない……?」
死闘の末、命を懸けて倒したはずのドラゴン。だというのに、神霊核が魔素を取り込んでくれない。
汗が、噴き出すように流れる。
背中に走る悪寒。皮膚が裂け、ヒビのような黒い筋が腕から広がっていた。
《魔素不足》
《構造安定限界:超過》
《強制摂取行為を推奨》
「摂取……って、まさか……」
その言葉に導かれるように、俺はレッドドラゴンの首元へよろめきながら近づいた。
目の前の肉塊は、赤黒く、まだかすかに湯気を上げている。
腐ってはいない。新鮮――なはず。
「喰えってことかよ……!」
ためらう時間はなかった。
俺は震える手でドラゴンの肉を掴むと、力任せにかぶりついた。
――ゴリッ。
「ぐッ……!?」
固い。とにかく固い。筋繊維が鋼線のように口の中を切る。歯が折れそうだ。
そして……臭い。
鼻腔に突き刺さる鉄臭さと、内臓の焦げたような生臭さ。胃が拒否反応を起こす。
それでも、俺は食わなきゃ死ぬ。
噛みきれない塊を無理やり喉に押し込む――が、飲み込めない。
えずきと共に、喉が逆流した。
「がっ……げほっ、うぅ……!」
吐き出した。
口の中は血と肉の臭いでいっぱいだった。
視界が霞む。倒れそうになる脚を、どうにか地面に踏みとどめる。
《警告:魔素残量 2%》
《崩壊までの猶予:120秒》
……ダメだ。喰えない。だけど、喰わなきゃ死ぬ。
「ふざけんな……これがチートの代償かよ……!」
このとき、俺は思っていた。
“食べる”って、こんなにも難しいものだったか――と。
――【承】偶然の出会いと救い
吐き出したドラゴン肉の破片が、土の上に転がっていた。
煙が目に染みる。血の臭いで息が詰まる。
限界は目前だった。
そのときだった。
「……そのまま喰ったって、死ぬだけだよ、アンタ」
声がした。
低く、落ち着いたトーン。だがどこか、職人のような実直さを感じさせる声。
ゆっくりと振り返ると、そこに立っていたのは一人の女性だった。
肩までの髪を革紐で無造作に結い、裾を巻き上げた作業着姿。
腰には大小の解体ナイフと器具がいくつも吊るされている。
「……誰……だ……?」
「レイナ。解体士。竜素材専門だよ」
そう言って、彼女――レイナは倒れたドラゴンの亡骸に近づくと、ためらいもなく手袋をはめ、解体用のフックと刃物を取り出した。
「……ちょっと待っ……何して……!」
「見ての通り、解体」
彼女の手は止まらなかった。
赤黒い皮膚を剥ぎ、関節を正確に外し、血を出さずに内臓を抜き取っていく。
素人目にも分かる、洗練された職人の手つき。
「……背肉、まだ弾力ある。魔素残ってるね」
「脂が多いとこは、炙るしかないか」
ブツブツと独り言をつぶやきながら、レイナは迷いなくナイフを滑らせていく。
「……肋骨まわりは、半熟がいいよ。魔素濃度が高いから、焼きすぎると逆に飛ぶ」
「……なに言って……」
「つまり、アンタ、死にたくなきゃ、私に喰わせてもらいな」
そう言って彼女は、腰から取り出した鉄製の折り畳みコンロに火をつけた。
香草とスパイスをふりかけた竜の背肉を鉄板にのせると――
ジュウウウ……!
焦げる音と同時に、濃厚な香りが辺りに広がった。
嗅覚が、拒絶から渇望に変わる。
「焼いてある肉なら、喉も通る。試してみな、チートくん」
彼女が差し出した一切れの肉は、香ばしい脂の膜に包まれ、中心部がほんのり赤い。
俺は、無言でそれを受け取り――歯を立てた。
――【転】“焼いた肉”という命の味
鉄板の上で、赤黒い竜肉が弾ける音がする。
レイナは小袋から乾いた香草を摘んで、指先で砕くように肉へと振りかけた。
「風味つけ。ただの魔素肉でも、香りが変われば喉を通る」
スッと差し出される串。
焼き加減は、絶妙だった。表面はしっかり焦げ目がついて香ばしく、内部はほんのりと紅が残っている。
「ほら。これが“生きる味”だよ」
俺は、恐る恐る串を受け取った。
手が震えていたのは、疲労でも痛みでもない。
“本能”が、この一切れに命がかかっていると、理解していたからだ。
竜の肉。
あの巨大な命の残滓。
……俺は、そっと口に運ぶ。
噛んだ瞬間、口の中に広がる血と魔素の暴風。
熱い。鋭い。だけど、なぜか美味い。
飲み込んだ瞬間だった。
キンッ――!
頭の奥で、澄んだ鐘のような音が響いた。
《魔素充填率:78%》
《構造安定化》
《肉体崩壊、停止。自己修復機能起動》
目の奥に広がっていたチラつきが、すうっと消える。
痛みが引き、割れていた皮膚が内側から再生されていくのがわかる。
「……っは……あ……!」
まるで溺れていた肺に空気が流れ込むような、
張り詰めていた細胞のひとつひとつが蘇るような――
これは、“生き返る”味だ。
「どうだい?」
「……すごい……なんだこれ……!」
もう一口。もう一口と、気づけば串を持つ手が止まらなくなっていた。
たった数切れ。されど、それは死と再生の境界だった。
「チート能力もいいけど、命ってのは喰って繋ぐもんさ。忘れなさんな」
レイナの言葉が、今度はちゃんと心に届いた。
――生きるために喰う。
初めて、本当の意味で“食べる”という行為に命を感じた瞬間だった。
――【結】「これが……生きるってことか」
串に残った最後の一切れを、俺はゆっくりと口に運んだ。
もう、震えてはいなかった。
怖くも、痛くもない。ただ――確かに、温かかった。
焼けた肉が舌の上でほどけ、喉を通り、胸の奥に落ちていく。
そのたびに、魔素が静かに、優しく体中に広がっていくのが分かる。
「……すごいな、これ……これが、“生きる”ってことか……」
俺の呟きに、レイナが鼻で笑った。
「そうだよ。ドラゴンを喰って生きるっていうのは、そういうことさ」
彼女の指先は器用にナイフを操りながら、すでに次の部位を切り出していた。まるで呼吸するような手際だ。
「で、あんた。これからどうするんだい? 運よく竜に出会って、運よく勝って、けど料理できなきゃ死ぬ。運だけじゃ、次は生き残れないよ」
「……ああ、そうだな。俺ひとりじゃ、もう無理だって分かった」
俺はまっすぐにレイナを見る。
竜を狩る力があっても、それを活かす術がなければ、何の意味もない。
生きるってことは、“喰う”だけじゃ完結しない。命を循環させる術が必要なんだ。
「食うために……生きる……いや、生きるために、喰う。だろ?」
その言葉に、レイナの口角が少しだけ上がる。
「いいね。気に入ったよ、あんた」
レイナは竜骨の串を俺に手渡しながら、こう言った。
「ドラゴン喰う旅、手伝ってやるよ。解体士としてね」
こうして、俺たちはひとつの小さな約束を交わした。
この世界のどこかにいる、希少な竜たち。
それを見つけ、狩り、捌き、食う――それが、俺の“生きる”ってことなんだ。
「食べるって、ただの生存行動だと思ってた。でもこれは――命をつなぐ儀式だった……!」
──俺の、異世界“捕食”冒険譚が、いま本当にはじまった。