シロの語り
雨上がりの午後、心理療法家のミナトは書斎の革張りの椅子に深く腰を沈めていた。木枠の窓の向こうでは、雨粒の残る紫陽花が風にそよぎ、どこか遠くで小鳥のさえずりがかすかに聞こえていた。
彼の膝の上では、長年の相棒である猫のシロが丸くなっていた。白くてふわふわした毛並みが、今日の重たいセッションの余韻をやわらげてくれるようだった。午前中に向き合ったのは、幼い頃に深い傷を負ったクライエントだった。その語りは静かで、しかし確実にミナトの胸の奥をも揺さぶった。
「こんなにも小さな体に、あれほどの悲しみがどうして宿るんだろうな…」
そう呟くと、シロは一度だけ小さく「にゃ」と鳴いて、再び目を閉じた。
ミナトは軽くまぶたを閉じた。いつの間にか、まどろみに誘われ、夢の中へと沈んでいった。
夢の中で、彼は広大な図書館にいた。天井が見えないほど高く、本の背表紙がどこまでも続く。けれど、そこには人の気配がなく、音もない。ただ足音だけが、石の床にこだましていた。
書架のあいだから、一匹の猫が現れた。灰色の毛に琥珀の目を持つ、どこかシロに似た猫だった。猫はミナトを見上げて言った。
「あなた、いつまでその痛みを他人のものとして眺めるの?」
ミナトは思わず立ち止まった。猫は続ける。
「あなたの中にも同じ傷がある。見て見ぬふりをしているから、クライエントの涙があなたの胸に届くんだよ。」
彼は言葉を返せなかった。ただ、ふと視線を落とすと、自分の胸のあたりに古びた小箱があることに気がついた。錆びついた鍵穴。ずっと前にしまい込んだ、小さな記憶のかけらがその中に詰まっている気がした。
猫は静かに言った。
「あなたが自分の小箱を見つめるとき、はじめて本当の寄り添いが生まれるんだよ。苦しみを消す必要はない。ただ、一緒に座ること。それだけで、人は救われることがある。」
目を覚ますと、書斎には夕方の柔らかな光が差し込んでいた。シロはまだ膝の上で眠っていた。
ミナトはそっと胸に手を当てた。夢の中で見た小箱の感触が、まだ指先に残っているようだった。彼はそっとシロを撫でながら、つぶやいた。
「答えを出そうとしなくてもいい。ただ、あの人の隣に静かに座る…それが、たぶん一番大切なことなんだな。」
そして彼は明日のセッションのために、小さな湯のみで温かいほうじ茶を淹れた。書斎には、穏やかな沈黙が流れていた。猫の寝息と、お茶の湯気だけが、静かに彼の心を包んでいた。