3 カルト
雲壌風太子。もはやその人物の名前は日本中に広く知れ渡っているだろう。
彼はいわゆる教祖である。彼の始めた宗教というのは「暗壌顧光教」というものであった。
そしてこの宗教が誕生してしばらくして教団も設立され徐々に信者を獲得しつつあった。この不信の時代に新興宗教に入信する人々がいるというのはなかなか驚きであった。これはある個人の感想ではなくて数多くの人も同じ思いであり、それが反映されてか全国放送の朝ニュースにまで取り上げられさらに大きな話題となった。そして、その教団自体、またその教団員自体がそうした話題性に富む対象であったことから、その宗教の掲げる内容の有無、もしくは賛同するか否かということには全く関心のない者たちも多く入団した。これにはこの団体のもしくはこの宗教の自由さが影響していた。老若男女問わず、だれであろうと入信をすることが可能であった。
この宗教についてもう少し詳しく紹介しよう。先ほども言った通り、雲壌がこの宗教を立てた。そしてあくまで説明する必要ないと思うが、現在まだ設立から2年ほどで、多くの信者を獲得しておりそれは国内のみで2万人を超えた。雲壌が語り掛ける内容はこうであった。
「この世の基盤は土壌である。つまり土壌がなければ我々は生きていくこともさらには誕生することもできない。しかし、我々はその土壌をけがしてしまっている。私たちは非常に罪深い。そしてその罪に無自覚であることも罪深い。ではどうすればいいか。私たち人間は古来より、多くの神を創造してきた。そう、世界中のありとあらゆる事象が神によるものだとして人々は畏怖や悲しみ、怒りという感情の表出として偶像化した。しかし、基盤はどうだ?神は基盤か?いやそうではない。説明はつかないが、基盤があってこそ人類があり、神がある。では神も土壌に帰す存在だろう。そうさ、死して土壌の一部になった暁には我々は神とも一体化できるポテンシャルがある。土壌を操作できるものこそが神をも支配できる。土壌をきれいにすることはすなわち人間の創造をクリーンにすることで、神を浄化することで、私たちの感情を豊かにとどめるものである。さあ、土壌の大切さがわかったかな、諸君。懸命な諸君は今日、この時をもって土壌に感謝して土壌を基盤に意識して生活するがよい。」
上記のような話を説法のごとく延々と話しているのであるが、なぜ彼が支持を集めているか、それは彼の見た目と彼のカリスマ性、それからミステリアスなオーラに要因があるらしかった。また、教団は常に土壌を意識するためにといって瓶詰の土壌を一人一人が持つように促した。もちろん有償である。これは特別に教祖が丹念に浄化した土壌の一部であるらしい。それは黒く、粒状は整っていた。また光に照らした時には何か微細なものが反射してキラキラと輝いた。そのはかない美しさはおよそ人工の何かによるものであったが、土壌信者は信じ切ってその瓶を愛おしげに眺めるのだ。その顔にはきっと緩やかな笑みが浮かんでいるのだろう。彼らは彼らの信仰の対象ともなる土壌でみたされた外面的に黒いその瓶詰に反射したグレーに映る自身の顔を見ることはない。その目にはきらめく粒と雲壌風太子の色白な顔しか映っていないのだろう。
このカルトはカルトがゆえに、信者の獲得数が向上するとともにより大衆に付け入るための手法を獲得し、さらに信者の獲得にいそしんだ。それゆえ、彼らのドグマやスローガンにはあえて反発を買うような標語が用いられたり、また街頭の広告に目を引きやすいポスターなどを貼り付けるなどした。彼らの精力的なこの活動が功をなしてかさらに教団の勢いは増し、海外への進出まであと数歩ということになっていた。
そして、その実はカルトであるのに、カルトではなく、もはや国内においては仏教と並ぶようなほぼ「正式な」宗教として民衆に受け入れられ始めようとしていた。また、ワイドショー番組にもこの教団関係者が主演することもあり、これまでのカルトにありがちなメディア露出の極端に少ない、陰惨なイメージが払しょくされ、よりクリーンであるというイメージが視聴者にも植え付けられた。しかし、この国では過去にもあるカルトが台頭して大きな事件を起こした。これを受けて危惧する人々もいた。しかし、メディアはこういった声を受け入れ、放映するということはなかった。メディアとこのカルトの癒着があるのではないかという某週刊誌の見立ても一時は話題になったものの、このカルトの勢いに押されて、こうした反発はなぜが弱まっていった。デバイスの多様化とそれに伴う機器の相対的な値下げ、それに伴って多様な意見が発せられ、さらにそれが自動的に大衆の中だけで、情報共有がなされメディアなどのアーキテクチャにあったオーソリティは弱まり、それが多数か否かは関係なしに大きな声が反映されやすい社会に変貌しつつあるこの国では表現の自由が大変に身近なものになって、この教団は神は「創造物の一つ」に過ぎないと断言したわけであるから、その他の宗教に属していながらもこの宗教に入ることは歓迎され、むしろSNS以外において多くの考えがある漠然とした「土壌」の上でまたそれのみを目的としたスペースにおいて自由な物言いができるコミュニティの提供者として認識されたのかもしれなかった。何はともあれ、このカルト、自らオーソリティになりつつあった。
小山大地と入江壌太もこのコミュニティとしての側面に魅力を感じて入信を決意した者たちであった。
小山は大学で柔道をやっている。体育大学に進学し、柔道の大会でも良い成績を残した高校時代を生きたので、推薦によってこの大学に進学することになったのだ。勉学の方にしても偏差値的な視点でいえば彼より低い生徒の方が多かった。彼は気の優しい好青年であった。彼は実直でアルバイトを休まなかったし大学の講義にもしっかりと出席をしてレポートの提出期限も守って単位は一つも落とさなかった。しかし、彼に、というより彼のおかれている環境に全く問題の片鱗がなかったわけでもなかった。彼にはおよそ、友達と呼べる間柄の人間がいなかった。彼はまじめに彼のやることをし、ある程度慕われてもよさそうであるのに彼は彼のことのみに実直すぎたので周りが敬遠したのである。家庭関係は一般的に見てよいものである。しかし、その内実はいたって平成以降に見られる核家族で、家庭内にいても即座に外部の情報にアクセスできるために、家族愛が彼にもたらすものは昭和的なものよりは幾分か少なかったことは否めない。それでもそれは約一般的な問題である。彼は両親と兄を持っていた。兄はもう社会に出ている。兄とは喧嘩をしたことがないし、あまり無関心であったから何をしているのかあんまり詳細には知らなかった。しかし建築デザインをやっていることは知っている。母は専業主婦をやっている。幼いころは自身の子どもに付きっ切りであったがもう大人だ、と彼女が判断した瞬間に過干渉になりすぎないことを意識していた。父はある大手自動車メーカーの営業部にいた。課長職である。彼は髪をきれいに整え、髭をきちんとそり、その清潔な感じから社内では実際の年齢よりも10歳ほど若いといわれていた。彼はこういうような両親および兄弟を持っている環境なのだから別に不自由はなかった。しかし、人には性向、および気質が生まれたときから、もしくは生まれる前から決まっている。つまりは人間の土壌は生まれる以前より決定されている。彼は感情をもちろん有しているし、彼は親切にできたし、彼は母や父に逆らうことなく、従順に育ったし、彼は特に問題を起こすこともなかったし、彼は彼の生きやすいレール上から外れることはなかったので、彼は自分に懐疑的になっていることに気づきつつも彼は彼であり続けることを半ば目標として生き続けたし、彼は柔道という彼が生きやすい手段をたぶん社会に出たときに生きる肥しになる程度に上達させられたし、特に無理をせずに挫折なんて感じずに彼は彼をこの19年間生き続けたが彼はひらめいたように彼のという人間の土壌が気になり、黒い粒を見つめるようになったし、雲壌の彼に絶大な笑顔を見せたときのことを目の前の真っ暗な瓶に投影させることもあった。結論的に言えば、彼は大学を辞めたし、彼は柔道もやめたし、家族はおかしくなったし、父はそれを機にもう何日も整えていなかった髪を無様に自分で切り取り不格好な状態に満足そうにして剃刀をもって髭をそりながら、とたんに一瞬泣きそうな顔になったかと思うとそれを何度も首に当てつけあまり深くないが、長期間残るであろう傷を残し続けた。首から出てきた薄暗い血が襟元のよれた薄い生地のTシャツにながれ、やがてじんわりとシミを作った段階で、彼はその行為をあきらめてふと鏡に視線を戻し、その髪の様子を見て狂乱状態になって再び寝室に戻っていく。これはこの日に限ったことではない。母は息子のことを本当に忘れたかのようである。彼はそれを観て笑えるほどになったし、彼は教団に生きる場所を見出した。ここでは彼はすでに偏差的に見ても優等生である。彼は満足そうにコンクリやアスファルトに限らないあらゆる材質の地面に落ちているごみを拾い上げ、それを新たな大きい瓶詰に敷き詰めてそれが終われば大きく「悪」という字をマジックで書くことに専念していた。彼は元気そうで大変親切であった。彼の元の家には家具などはあるが、家族のだれもいない。しかし彼はそれを知らないし、知っても意味がなかった。
入江は一般的に見て「変人」というものに分類されていた。彼は幼いころからより透過性の高い土壌についてけんきゅうしていた。やがてそれは本格的な研究に昇華されるが、そのころになると何度か地域の青少年のための科学館に表彰されることもあったが、そのころになると彼は精神的に成熟してきて、彼はそのことに自覚的になったので哲学について研究するようになった。その中で、彼は身の回りの現象というものが「私」に対して空虚であることに気づき恐怖を感じた。いくら自分が触れようと自然に過干渉になろうとも外界は「私」に答えてはくれない。彼は彼自身の興味のために哲学を始めたはずであったが、哲学の方は彼のこれまでの理論や研究の成果を逆に崩壊させるような効果となって襲い掛かってきた。彼は心が弱かった。彼は彼の研究にもはや意味をおぼえないようになりつつあったが、もはや彼にとって土壌の調査は日課であったので意味を感じない虚無的な作業によって一日をつぶしていた。彼はそんなときに数少ない学友から神学について聴く。「哲学は神学の侍女である」と。これは非常に昔に言われた言葉であるが、彼にとっては救いかもしれなかった。つまり、神学において自分の知った哲学の内容が否定されることがあるのなら、まだ自分は外界に干渉することに意味があるのではないかと感じたのだ。彼は神学をまなび、そのうちに神秘主義にとりこになって。ついに彼は大地の神を研究することは素晴らしい、ととらえ、土壌研究に神秘主義を足した新たな研究を始めた。しかし、科学的なデータに神秘主義は相容れない。しかし、彼はすべてはこの神学のもとに展開されるのだと信じて科学的な知見はすべて神学に内包されるのが当然だという意見になって、科学的矛盾を神学によって補完した。彼はイルカと神秘体験を混同したかのサイエンティストと似た道を歩み始めていた。彼はここで哲学に戻ってみる。そこで「神は死んだ」ことを知る。彼は反論しようとしたけれども現実世界では神は死んだも同然のようになっていた。彼はうなだれ、彼は自分という存在がなぜあるのかということについて考え、それが「知を愛し求めること」であると確認し、彼は神秘主義と土壌を混然一体とした研究に3年を費やしたこと、それによって学界からほぼ遠ざけられてしまっていることとそれゆえに生活が困窮していることを思った。彼は、この世におさらばするのがもっともよいことだと思った。自分が土壌になればいいと思った。くだらない思索に没頭するくらいなら、大地の一部になる方がましであると。その時であった。ふと最後に聞こうと思ったラジオから例の教義が流れた。彼はそこにもはや人生の希望を見出した。彼は歓喜して泣いた。彼は入信し、彼もまた小山とともにカルトの上層に属した。
このようなカルト上層部の実態、またその背景についてはどのメディアも出していない。
ある日、小山は雲壌に呼び出された。直接の呼び出しはこれまでにないことであっため、小山は喜んだ。小山はすぐに雲壌のひざ元までいき、雲壌は満足そうに彼を撫でた。小山は歓喜に震えた。雲壌は彼の耳もとでこう言った。「ついにあの計画を実行します。そのためには土壌となるいけにえが必要です。神前に差し出すのではありません。わが地球にもしくは宇宙に差し出すのです。」これを聴いて小山は完全に理解する。中学生ほどの身体と血によって「新たな土壌の創造」をする。穢れの少ない、そしてポテンシャルの最もある精神を内包した、もしくはかつて有していた土壌を作る、その計画の最重要部分に自分が選ばれたことを。彼はこの任務を遂行することで自分の土壌の根源を見ることができるのではないかと期待した。つまり、いけにえを土壌とするそこに現れる野生や本能が土壌に近い部分であると。その表出が経験できると。
これは雲壌にとっても最高機密であり、小山のみに明かした内容のはずであった。しかし、入江は聞いた。そして入江は知った。「カルトはカルトに過ぎず、神秘な体験は内的経験で、他者によって、ましてカルトによって一概に一様に与えられるものであるはずがないことをそして土壌を基盤にするということが人間を故意にあやめることであるならば、自分で死を選択する余地もないようにすることが正しい行為とするならば、私は私として結局肯定されない。私の生は操られているのだ」と。入江は逃げるという選択を死ではない選択肢でできることを心得た。狂信的な場に逃げ、さらにそこに何も見出さずに現実に逃避することである。この段階を踏まえることで、同じ現実でも新しい生き方ができるのだと感じた。彼は退団を決意した。そして科学とも神学とも、哲学とも縁を切りそれら学問に名付けられない生を生きることにした。彼はそれを浮浪することであると思った。しかし、彼は自分という歴史と名を持った者が世界に浮浪する自身はなかった。そこで彼はGP-5をかぶりガスマスク姿で世界に浮浪することにした。そう決意しひそかに教団の共同生活所から出ようと準備をしているときに、小山は倉庫の大斧を手に取って深夜の道に今出ようとしているところであった。朝の時刻、しかしまだあまり人がいないが、事件のあとはもはや見られた方が世界に印象を与えるだろう・・・。このようなことを考えながら、彼は倉庫の片隅に置かれた瓶詰にやさしく笑いかける。
そして、雲壌は一人の老人にある依頼をしているところであった。
「この、筏行雄という少年を探して、連れてきてほしい。教団に役立つさ。」
(続く)