騙してはいけない女
十七時三十分。
営業所に終業を告げるチャイムが流れた。
長内真鈴はすぐに出られるように用意してあったバッグを手にすっくと立ち上がると、後輩の磯田冬子に「お先ね」と言い残してオフィスをあとにした。
階段を駆け下りながら、二件の、忌まわしいメールを思い出す。
一通目は昼休みだった。
〈姉貴のせいでぐちゃぐちゃだよ どうしてくれんだよ〉
知るか! 自業自得だ。そう思った。そのせいで、午後は腹に溜め込んだ怒りが発熱でもしているのか、体温が普段よりも高く感じた。外回りから返ってくる営業部員に合わせているという噂の、強すぎる冷房が、今日は快適に思えたほどだ。
それが、一時間ほど前のメールで、一気に冷めた。
〈どうしよう、俺、訴えられるかもしれない。友達ってのからも電話がきまくってて(云々)〉
事態は刻一刻とまずい方向に向かっている。このままではこっちまで巻き添えを食う。まずは時間を稼がなくては。
真鈴はメールの返信で、弟をマンションに呼びつけた。ただ、セキュリティーで選んだマンションは、エントランスが顔認証なので、真鈴が一緒でなければ建物に入ることができない。
オフィスを出ると、十分も経たないうちに頭皮と額から汗が噴き出した。気温はおそらく、まだ三十度を切っていない。真鈴は恨めしげに空を見上げ、ハンカチで額と鼻に浮かんだ汗を押さえた。
愚弟。
まさしく、愚かな弟。
だいだい二十三にもなって恥ずかしくもなく姉を頼るなど、その時点でどうかしている。
それも、決まって女がらみの修羅場だ。その原因が色恋ってんならまだかわいい。恋愛指南ならそれなりの経験値があるし、いちおうは弟だ。力になるのも吝かではない。だが、あれは違う。あれは巧妙に仕組んだ結婚詐欺だ。
甘やかしているといつかとんでもないことになる。そう思っていたが、遅かったようだ。何とか、無事に切り抜けないと大変なことになる。
真鈴は唇を真一文字に結んで気を引き締めた。
真鈴の弟、長内真古斗はあどけない顔をしている。何に似ているかといえば、そう、日陰に小さな花を咲かせる細くてか弱い草とか……。ほんの二、三日優しい言葉をかけないと萎れてしまう、地味だけれど放っておけない存在。そういう雰囲気を真古斗は醸している。
ただ、それは見かけだけのことだ。真古斗は自分の印象を巧妙に使って、女を誑かすのだ。
それはもう、芸の領域といってもいい。なかでも打ち拉がれている演技は天才的だ。そうやって、子供のころから叱られるのを躱してきた。割りを食うのはいつも真鈴だった。
三つ子の魂なんとやら。
ただ、大人になった真古斗が同情を誘う相手は親でも姉でも上司でもない。女だ。それも、ちょっと寂しげな年上の女。
そういう女と仲良くなっては、やれ財布を落としちゃった、だの、怖そうなお兄さんの車に傷を付けちゃった、だの、友達の借金の保証人になって逃げられちゃった、といったベタなストーリーを語っては男のくせに科を作り、今しも首を括りかねない演技をする。
昔から悪知恵は利いた。
真古斗は決して金が欲しいとは言わない。金額も言わない。ただ、おろおろとしながら請求書らしきものの在処はそれとなくほのめかしておく。
それはスマホのなか、メールだ。
だから携帯のパスコードを一からの連続番号にして、しかも見えるようにロック解除するのは作戦のうち。そうやって、真古斗は女の出来心を巧妙に刺激する。
もちろん他人のスマホを勝手に覗くのがいけないことなのは誰でも知っている。それに彼氏のスマホには不幸の種しか落ちていない。でも、目の前にあったら見たくなるのが人情だし、見て安心できるならそればそれで……。そうやってどの女も罠に落ちた。
逸る気持ちでメールを繰れば、捜し物は意外にも簡単に見つかる。最初から分かりやすいタイトルを付けてあるからだ。そして真古斗が陥ったというトラブルに纏わる請求金額、もしくは示談金が女に知れるのだが、それは擬装であるばかりでなく、女の懐具合を計算した金額になっている。
少しだけ無理をすればなんとかかなる金額。清水の舞台から飛び降りるというロマンチックな決意を抱くのにちょうどいい金額。
こっそり事情を知った女は自ら援助を申し出る。男のプライドを気遣って「あげる」とは言わない。「貸すから、使って」と。
金を受け取った真古斗は、今度は徹底的に女をじらす。アパートから姿を消し、携帯は電源を落とす。さらに勤め先からも消え、あたかも最初から存在しなかったように、完全に消える。
当然、女は焦る。
騙されたんじゃないか。
金を持ち逃げされた?
このわたしが。
不安の真っ黒い雲がじわじわと胸に広がる。どうしよう、こんなこと恥ずかしくて誰にも相談できない。警察に相談したら取り上げてくれるだろうか。でもこれって、事件?
女が、怒りと情けなさで発狂する寸前で、真古斗はしれっと現れる。
「ごめん、さっき着信みたらいっぱいで、びっくりしちゃった。携帯、会社に置きっぱでさ。あ、でもお陰さまで、トラブルは解決しました。実家にもちょっと借りてたから返しに行ってて、今日帰ってきたんだ。仕事の携帯に君の番号入れてなかったから電話できなかった。ごめん、ほんっとゴメン」というのが言い訳の定番だ。
真古斗は、ひたすら詫びを入れると、今度は、女を女神のように崇め奉る。あなたは命の恩人です。もう何でもしますってなもんだ。
そのようすを、真鈴も一度見たことがあるが、あれはもう人と人の関係ではない。飼い主と愛玩犬だ。
女は怒っていたことも忘れて「よかったじゃん、これからは気をつけるんだよ」と頭を撫でる。あたしがいないとこの人はだめなんだ、と陶酔しながら。
真古斗はその流れで「お金は、必ず返すからね」と繰り返す。そう言われたら「いいよ、真古斗君の役にたったんならそれで」と返すのが恋に酔った女の自然な反応だ。
ちなみに、これは優しさではない。
何となれば、貸しは男を繋ぐリードだから。それを本能的にやってしまえるのが、女という生きものだ。
ちなみに、真古斗は返済すると言いながら時期については触れない。返す、という意志を示してさえおけば、身に害が及ぶことはないと思っているらしい。
まさに女の敵。
しかも、そういう悪事を方々でやるから悪い。
いや、それは違うか。一件でも駄目だ。一件でも駄目なことを方々でやりつつ、どれも切らずにおいしいところをつまみ食いし続けるから、ぼろが出る。
年のいった女は、心の内に時限発火装置を持っていることがある。それは、付き合いが始まると同時にカチリカチリとカウントダウンを始め、ある時点で急に結婚を意識し始める。
特に、真古斗が狙う賞味期限の迫った女は発火までの時間が短い。
ワルのくせに悪い男になりきれない真古斗は、この時点で姉を頼ってくる。
「姉ちゃん頼むよ、俺の奥さんの役やってよ」
真古斗は弟とはいっても、顔が似ていない。それで妻の役を演じさせられたのは過去に三回ある。
ただ、もういい加減やりたくなかったので、前回はゴネた。そうしたら十万円の成功報酬を出すというので、最後だという条件を付けて、まじめに仕事をした。
「うちの人、最近どうもおかしいと思ったら、あんただったの!」この泥棒猫、という台詞はさすがに使わなかったが「別れないからね、不倫の落とし前、どうつけてくれんのよ」と凄んでやった。これでもヤンキー上がりだ。素人をビビらせるくらい、わけはない。
それに、向こうにしたって騙されるなんて女の恥だと思っている。裁判になれば職場や親戚にも知れ渡る。こっちはそこに付け込んで、借金を「慰謝料の替わり」といって相殺する作戦で、今までは切り抜けてきた。
しかし今度の女は違った。
本気だった。
真古斗は馬鹿だ。本当に怖い女が分かってない。ああいう、ハッピーエンドの少女漫画しか読まない、頭のなかに蝶々が舞っているような女は騙してはいけないのだ。努力は必ず報われ、最後は愛が勝つと本気で信じている女はテロリストより危険だ。
女は土下座した。
それも渋谷のスクランブル交差点を前に。「申し訳ありませんでした」と。「ごめんなさい、でも、真古斗さんのことはほんとに本気なんです、愛してるんです」と大きな声で、堂々と。
回りの人々が一斉にカメラは何処かと首を回し始めた。当然だ。ドラマの撮影でもなければ、こんなことが起こるわけがない。
プロのカメラマンの代わりに外国人がスマホを向け始めたのでこっちが焦った。世界に拡散されたらたまったものではない。
「いいから、わかったから、ここじゃなんだから、ちょっとこっちきなさいよ」
真鈴は女の手を取って路地に引っ張り込んだ。人目も憚らない心の強さが本気で怖かったので、真鈴は、自分は実は姉なのだと白状したうえで、本当のことをぶちまけた。
真古斗には返す気など最初からないこと。
仕事もアルバイトにすぎないこと、姿を眩ましたのが気を惹くための心理作戦だったことなどをすべて。
真古斗には悪いが、このくらい明かしてやらなければ、あの女を黙らせるのは不可能だと思った。
ただ、他でも同じようなことをやっていること、過去には自分も関わっていたことは伏せた。
「こいつ屑だから、訴えるんならそうして。でもわたしは関係ないから。弟ったって、もう守るつもりもないし、あんたも悔しいだろうからさ、なんなら持ち帰ってもらってもいいよ。煮ても焼いても食えないかもしれないけど」
姉に裏切られたと知った真古斗は、みっともないくらいにおろおろしていた。
真鈴は姉弟の縁を断ち切る覚悟で、その場を去った。一度だけ振り返って「借りたお金はちゃんと返しなさいよ」、と厳しく言い残して。
もう、詐欺になど関わりたくなかった。
終わりにしたかった。
このあいだもらった成功報酬も返そう。
全部終わりにしよう。
終わりに……。
でも、終わらせたのは彼女の方だった。
そのことを、真古斗は夕方の、二番目のメールで知らせてきた。
〈奈美、アパートで首吊って死んだ〉
あの女、奈美っていうのか。意外に平凡な名前だな。そんなことを考えるくらいに現実感がなかった。
真鈴は渋谷での出来ごとを思い出した。
顔はよく覚えている。美人ではないが、よくみれば愛嬌のある狸顔で、前歯がちょっと出ていた。笑ったら、森で出会う小動物に、見えなくもない。
でも、あの日は笑っていなかった。への時に曲がった口、泣き腫らしたくせに異様に鋭い目。ハンカチでこすりすぎて真っ赤になった鼻。
あの女が、首吊り……。
スマホが鳴った。
「姉ちゃんいまどこよ、向こうのお母さんがさ、今から来るって言うんだよ」
「あんたどこにいんのよ」
「どこってアパート」
想定外だった。
「なんでまだそこにいんのよ、うちに来なさいって言ったでしょうが!」
「だってさ、途中で会ったらどうすりゃいいんだよ。友達とかからもじゃんじゃん電話掛かってくるし」
「でも、向こうのお母さん、あんたの顔知らないでしょ」
「奈美の携帯にいっぱい入ってる。あいつ記念写真大好きだから」
ああ、と呟いたような気はするが、声は出ていなかったかもしれない。
「だいたい姉ちゃんがいけないんだよ、いつもみたくちゃんとやり切ってくれたらよかったのに」
「馬鹿言ってんじゃないの、あんな、あんたが、結婚詐欺みたいなことやってるから」
「俺、結婚の話なんてしてない」
「ばか、そういうこと言ってんじゃないの」
小田急線の乗り換え口を通りながら、今後のことをシミュレーションした。
結局、あの日で弟との縁を切ることはできなかった。
両親とは早くに死に別れているから真古斗は唯一の身内だ。後ろ頭のひとつも思い切りはたいてやりたいが、あいつが破滅する姿は見たくない。
「今からでもいいから、さっさと来な。うちなら、とりあえず時間は稼げるから」
しかし向こうが探偵でも雇って本気で探せば、マンションのことはもちろん、共犯のことだってすぐにばれる。
もし母親が乗り込んできたらどうしよう。あの、奈美とかいう女みたいに、真古斗と並んで土下座でもするか。
できるか……。
通勤の便を考えて選んだから、マンションは繁華街に近い。スクランブル交差点とは言わないが、土下座などしたら野次馬は集まりそうだ。
部屋に入っていただくか。
入ってくれるだろうか。
頭に血が上っていれば、エントランスの前でこれ見よがしに喚き立てるかもしれない。
ああまったく、真古斗の奴め。
いや、これまで叱ってこなかった自分も悪い。それに今回はともかく、その前までは共犯と言われても言い逃れができない。警察沙汰になって過去まで暴き立てられたらこっちの人生まで狂ってしまう。ここはなんとか誠意を見せて、気を静めていただかないと。
長内真鈴は、マンションのある成城学園前に向かう電車のなかで頭をフル回転させて作戦を練った。
☆
西口の改札を出て、帰路を急ごうと駆けだしたところで、後ろから声を掛けられた。
「姉ちゃん」
「ばか、何で先に行ってないのよ」
万が一、一緒のところを誰かに見られたら、即、巻き添えを食う。
「だって姉ちゃんとこ顔認証じゃん。俺、行ったって入れないし」
「だからってこんな目立つとこ」
「どうしよう、電話で、訴えるって言われてさ、殺してやりたいって」
馬鹿じゃないの。こんなところで大きな声で訴えるとか殺してやるとか。早速、物騒な単語を耳にした何人かが、遠慮のない視線を送ってきた。
「いいから行くよ」
真鈴は急いだ。早く帰って部屋に入ってドアにチェーンを掛けたい。今は籠城しか策がないのだから。
「待ってよ」
マンションまでは普通に歩いて七分ほどだ。走れば四分で着く。
バスの発着所を通り過ぎ、ヒールの音を響かせて花屋の角を曲がった。時々夜食を採るカフェチェーンを、今日は走って通り過ぎ、ドラッグストア前の人垣を縫って通り抜けた。
帰りたくなくてぶらぶらと寄り道することはあっても、この道を走って帰るのは初めてだ。
マンションが見えてきたところで、真古斗が真鈴を追い抜いた。エントランスの前には、宅配業者が荷物を振り分けられる程度の死角がある。
その、すぐ手前だった。真古斗はスニーカーを滑らせて止まり、そのまま、尻からへたり込んだ。
「何やってんの」
真古斗がエントランスを指さして何か言っている。
息切れではっきりしない声だが「何で、何で」と繰り返しているようだ。
追いついた真鈴は、腰を抜かした真古斗の視線の先を見た。
心臓が凍り付いた。
奈美がいたからだ。
幽霊だ。咄嗟にそう思った。
しかしよく見れば足はしっかりあるし、きちんと靴も履いている。どうみても生身の人間だ。
真古斗は、口と目をばかみたいに開けて呆然と奈美を見上げていた。
「ばか、あんた担がれたのよ」
「だって。だって首吊って死んだって……、お母さんから」
奈美は白い顔をしていた。少し首を傾げて冷たい目で真古斗を見下ろしていた。これでは、真古斗が幽霊だと思い込んだのも分かる。
真鈴はできるだけ優しく、刺激しないように奈美に話し掛けた。
「奈美さん、ごめんなさい。怒るのも当然だわ。落ち着いて話しましょう」
奈美は聞いていなかった。まっすぐに真古斗を見下ろしている。
口元が動いた。
ゆ る さ な い。
唇はそう読めた。
ようやく、幽霊ではないと分かった真古斗が、よろめきながらも立ち上がった、その瞬間だった。
奈美は吸い付くようにして真古斗にぶつかった。
真古斗が白目を剥いて膝から崩れ落ちた。
腹を押さえた指の間からごぼごぼと血が溢れ出た。
真古斗が刺された。
どうしよう。
真鈴は両手で口を押さえたまま立ち尽くした。
足が竦んで動けなくなった理由は、弟が刺されたショックだけではない。
さっきまでそこにいたはずの奈美が、いなかった。目の前で、血の付いた包丁を握っているのは、白い顔をした中年の女性だった。
「よくも娘を。奈美は、心の優しい子だったのに……、あんたね、共犯の姉ってのは。あんたさ、首吊りってどんなに苦しいか、知ってる? 首を吊った子が、どんな顔して死んでいくか、見たことないでしょ。あんた、騙された人間の苦しみが、わかる?」
奈美の母親だ。
その母親が血の付いた包丁を持って一歩ずつ真鈴に近付いてきた。
ごめんなさい、と言いたいのに声が出ない。
膝の震えが止まらない。
動けなくなった真鈴に、母親は勢いを付けてぶつかってきた。
腹部に、焼けるような痛みが走った。
ゆっくりと崩れ落ちながら、真鈴は母親の顔を仰ぎ見た。
そこには泣き腫らした奈美の顔があった。血の気のない狸顔が、にっと笑ったように見えた。
《了》