第二十話「影(シャッテン)」
統一暦一一九六年十一月一日。
グライフトゥルム王国中部グライフトゥルム市、魔導師の塔。組頭エルゼ・クロイツァー
私の名はエルゼ・クロイツァー。闇森人であり、闇の監視者の組頭を務めている。
私の組、“八の組”は元々情報収集が主な任務だったが、ここ一年半ほどは叡智の守護者の情報分析室専属として、情報の収集と操作を専門に従事している。もちろん荒事も苦手ではなく、他の組に負けない自信はある。
一一九三年九月頃、助言者であるマグダ様から直接命令が下ったことから始まった。
我々闇の監視者がマグダ様から直接命令を受けることは非常に珍しいことだ。ほとんどの場合、上位組織である叡智の守護者を通じて命令が伝えられるためだ。
組織の長、大頭様からの連絡を受け、マグダ様の執務室を訪れた。
「エルゼよ、久しいの」
我々闇森人は例外なくマグダ様の指導を直接受けているため、私も幼い頃に必要な知識や魔導を教えていただいている。もっとも私の幼い頃というと既に七百年ほど前のことだが。
「ちと面倒なことを頼みたい。そなたが適任じゃと思うたのでの」
「はっ! 謹んで承ります!」
我ら影にとって、マグダ様の言葉は絶対だ。まして私が適任とご信頼いただいたなら、どのような任務でも成し遂げねばならない。
「そなたは最近塔にやってきた坊、普人族の童のことは知っておるかの」
「はっ。マグダ様が神候補の側近として、直々に指導される方と聞いております」
当然知っていたが、言葉には出せない負の感情が僅かに心に湧き上がる。
大賢者と呼ばれ、全世界から崇拝されているマグダ様が千年に一人の逸材と称賛し、魔導師以外で初めて公式に弟子として紹介した人物だが、能力が低い普人族で更に僅か八歳という事実に嫉妬に似た感情があったのだ。
もちろん、影としてその感情は完全に封じ込めているが、私だけでなく、多くの影や魔導師が同じ思いをしているはずだ。
「その坊、マティアスがいろいろと調べたいと言っておる。済まぬが、そなたの組で坊の手伝いをしてやってくれぬか」
「はっ!」
短く答えるが、具体的に何をしたらいいのか分からず、次の言葉を待つ。
「儂から話してもよいが、詳しい話は坊に聞いた方がよかろう。儂でも理解できぬことが多い故の」
マグダ様が理解できないという言葉に僅かに動揺する。
「では、闇の監視者八の組はこれよりマティアス様の指揮下に入ります」
「うむ。坊のことじゃ。無茶なことは言わぬと思うが、できぬことがあれば、儂かシドニウスに相談せよ。坊はそなたらのことをあまり分かっておらぬからの」
シドニウス・フェルケ様は叡智の守護者の名目上の責任者である大導師であり、組織ではマグダ様に次ぐ地位にある。つまり、私に与えられた任務は組織として最上位の優先度を持つものだと認識した。
マグダ様の部屋を出た後、マティアス・フォン・ラウシェンバッハ様が普段使っている部屋に向かった。今では“情報分析室”という名が付いているが、当時は書庫に近い会議室に過ぎなかった。
マティアス様は彼の身体には少し大きなテーブルと椅子に座り、山のように積まれた書類を見ておられた。
「闇の監視者のエルゼ・クロイツァーと申します。私と部下はマティアスの命令に従うよう、マグダ様より命じられました」
マティアス様は儚げな笑みを見せながら小首を傾げる。
「私の命令に従うように、ですか? そんな大層なことはお願いしたつもりはなかったのですけど……」
マグダ様との間で行き違いがあったようだが、既に命令を受けた身としてはここで引き下がるわけにはいかない。
「我らにとってマグダ様のお言葉は絶対でございます。マティアス様のご命令をいただきたく」
私の言葉に彼の表情が困惑に変わる。
「そうですか……」
しかし、私が見つめているため、やや肩を竦める感じで頷かれた。
「それでは仕方ないですね。ですが、様付けで呼ばれるのはちょっと遠慮したいのですが……」
「マグダ様より、マティアス様の指揮下に入るように命じられました。つまり、マティアス様は私にとって直属の上司となります。ですので、その件に関しましては承りかねます」
私が頑なに拒否したため、諦めた表情をした後、指示を出された。
「分かりました。では、ゾルダート帝国とレヒト法国での情報収集をお願いします。集めていただく情報については、明日の朝、文書にしてお渡しします」
さすがにマグダ様が弟子として認められた方だけあって、九歳の少年とは思えないほどしっかりとした受け答えだった。
そして、翌日の朝、マティアス様のところに向かうと、十枚ほどの紙束を持ち、笑みを浮かべて待っておられた。
片膝を突いて頭を下げると、マティアス様が話し始める。
「とりあえず調べていただきたいこととその背景、目的、調査方法、注意すべき点についてまとめてみました。一度目を通していただいて疑問点があれば聞いてください」
「承りました。では失礼します」
そう言って片膝を突いたまま読み始めると、マティアス様が声を掛けてきた。
「それでは読みにくいでしょうし、メモもできません。このテーブルと椅子を使ってください」
間者である私に同席するように言われた。
叡智の守護者の塔では間者である影も差別されるようなことはないが、普人族の貴族たちは間者を下賤な者として忌避することが多い。
これは間者が暗殺者でもあるためだが、マティアス様はそう言った“常識”は持ち合わせていないらしい。
「我ら影にはこれで充分でございます」
「私が気になるので、椅子に座ってください。これは命令ですよ」
最後はわざと陽気な感じにして命じてきた。
命令と言われると従わざるを得ず、一礼してから椅子に座る。
「ゆっくり読んでくださっても大丈夫です。私は別のことをしていますが、いつでも中断できるので疑問があれば声を掛けてくださいね」
そう言われるとテーブルに置いてあった書類の束を読み始めた。
その行動に九歳の少年のものではないなと一瞬思ったが、すぐに渡された紙束に意識を集中させる。
読み始めると、長きにわたって影として生きてきたのに、驚きのあまり声を出しそうになった。
まず帝国に関する書類に目を通した。
そこには背景として帝国に関する現状での分析結果と予想される行動が書かれていた。それも非常に詳細で、帝国が近くリヒトロット皇国に対して大規模な攻勢を掛けること、その規模と考えられる作戦、それに必要な物資の量と輸送手段などが書かれていたのだ。
そして、その分析結果の次の章に、本題である情報収集のことが記載されていた。
まず食料などの戦略物資について物価の動向を調査することが書かれていた。更に可能であれば物流に関する統計データと兵士がよく利用する酒場での情報収集を行うことが、目的と共に記載されていた。
私はなるほどと感心しながら読み進めていたが、ほとんど結論が出ていることが気になった。
例えば、帝国軍の侵攻時期については政治的な理由から十月頃と予想しており、更に規模も二個軍団六万人である可能性が非常に高いと書かれていたのだ。
そこで思わずその疑問が口を突いた。
「我々が調べる必要があるのでしょうか……」
質問したわけではなく、思わず独り言を呟いてしまったのだ。
「あります」
私の独り言にマティアス様ははっきりとした口調で断言された。
「もちろん、命令に従いたくないというわけではありません。ですが、これを読む限り、帝国軍の侵攻作戦は完璧に予想できています。我々が調べずともマティアス様のお考えは間違いないのではありませんか」
私の言葉にマティアス様はニコリと微笑む。
「書いてあるのはこの塔にある情報から私が想像しただけの産物に過ぎません。間違っているとは思いませんが、これが正しいと言い切るには情報が不足しているのです」
完璧な予想に私は反論しそうになった。
「ですが……」
私の言葉を笑みで遮ると、更に説明を続けられた。
「それに今回お願いする情報は今後にも役立ちます。今までもいろいろな情報が入ってきていましたが、体系立って整理されていませんでした。ですので、傾向を読み解くには不足しているものが多いのです。今回はその不足分を私の想像力で補っていますが、今後はもう少し理論的に正しいと言えるように、情報分析の精度を上げたいと思っています」
集めた本人が言うのもなんだが、マティアス様の作られた文書を見る限り、我々がこれまで集めた情報では質、量ともに不足していることは明らかだった。
「それに帝国軍の動きだけが知りたいわけではないのです。一番知りたいのは帝国がこれから何をしたいのかということなんです。具体的には宿敵であるリヒトロット皇国の征服だけで満足するのか、それともこの大陸を本気で征服しようと考えているのか、その場合、皇国の次のターゲットはどこになるのか、仮にグライフトゥルム王国であれば、どのタイミングになるのか。そんなことを考えるには情報が全く足りないのです」
マグダ様が弟子にされた理由がはっきりと分かった。
これほどまでに先を見据えており、更にそれを具体的にどうすべきか考えられる能力の持ち主はこれまでこの塔にいなかった。
最初に話を聞いた時に嫉妬似た感情が湧き上がったことが恥ずかしく、事務的に話を進めていく。
「この紙に書かれていることは当面の調査内容ということでしょうか」
「そうなります。もちろん、私はこういったことを実際にやったことがないので、いろいろと変えていかないといけないと思っています。それに影の皆さんが無理することなく、危険が及ばない範囲での収集が可能なのか、確認しながらやっていく必要がありますから」
ここに来てマグダ様がマティアス様なら無理なことを命じることはないとおっしゃった意味が分かった。この方は我々影を使い捨ての道具とは考えていないのだ。
そのことを口にすると、マティアス様は驚いたのか目を見開いた。
「仲間なのですから、当然ですよ。それに皆さんのような特殊技能者は貴重なんです。使い捨てにするなんて考えられません」
この時は高く評価してくれていることが素直に嬉しかった。
マティアス様の配下になった後、この方が目的を達成するためであるなら、どのような犠牲であっても、例えば自分自身が犠牲になる場合でも、それが必要であると判断すれば、ためらうことなく実行する方だと知った。
この時もその考えは持っていたはずなのに、我々影を犠牲にすることは全く考えていなかった。そして、その後もその姿勢が変わることはなかった。
情報収集だけでなく、情報操作も行うようになったが、マティアス様からの命令で最も厳しく言われたことは我々の安全の確保だった。
「とにかく身の安全は最優先でお願いします。皆さんは我々の目であり耳なのですから。皆さん無くして、今後の戦略は立てられませんので」
私としては嬉しい反面、物足りなさも感じている。
我々の技量であれば、皇帝がいる宮殿、白狼宮に潜入することすら容易い。
もちろん、白狼宮には真実の番人の隠密護衛が警戒しているが、彼らに後れを取るなど考えられないからだ。
そのことをマティアス様に告げたが、首を縦に振ることはなかった。
「確かに皆さんなら万に一つくらいしか危険でないかもしれません……」
そうおっしゃった後、次の言葉まで僅かに間があった。
「私としては闇の監視者が潜入していること自体を知られたくないのです。真実の番人と戦い勝利すれば、闇の監視者が関与していることは容易に想像できます。宮殿を守る隠密を倒せるのは、影か夜しかいないのですから」
「確かにその懸念はあります」
そう言って納得したが、恐らくこの理由はマティアス様が私のことを慮った結果だろう。間があったのは我々の安全を考え、どう言ったら納得するか考えたに違いない。
この方なら仮に我々が関与しているということが帝国に知られたとしても、それを逆手に取ることは容易いことなのだから。
あれから三年と少し、マティアス様の下でいろいろとやった。
私自身も何度か帝都ヘルシャーホルストに赴き、直接指揮を執ったこともあるが、これまでの長い人生の中で一番楽しかったと言えるほどだ。
我々の得意とするのは魔導による変身だ。それも見た目だけでなく声も変えられる。
私も酒場の給仕や兵舎の掃除婦、更には商人組合に属する商会の事務員など、いろいろと化けて潜入調査を行っている。
マティアス様に恩を感じているモーリス商会の協力が得られるようになってからは、帝都の大抵の場所に安全に潜入できるようになり、情報の質・量ともに飛躍的に充実するようになった。
その我々が得た情報を情報分析室が処理し、それを基にマティアス様が戦略を立てて情報操作を行う。その結果、帝国に混乱が起き、順調だった皇国侵攻作戦が停滞したのだ。
このことをマティアス様にいうと、大きく頷いた。
「皆さんは十万の兵力に勝ると思っています。実際、帝国の侵攻を遅らせたのは王国軍ではなく、皆さんの力なのですから」
十万の兵に勝るという言葉に目頭が熱くなる。
我が組織は叡智の守護者に隠れており、ほとんど評価されたことがない。
そのこと自体は我々が“影”であり、日の当たるところに出てはいけないことから納得はしている。
もちろん、マグダ様やシドニウス様のように我々の苦労を分かってくださる方もおられたが、マティアス様の命令で動くようになり、魔導師たち、特に二百歳以下の若い森人の我々を見る目が大きく変わった。
それまでは命令に従うだけの存在という認識で、同胞という意識は薄かったようだが、マティアス様の活躍により、我々の存在意義を大きく見直したようだ。
些細なことだが、末端の影にまで感謝の言葉が掛けられるようになり、我々のやる気は大きく上がっている。
そして、今は帝国だけでなく、レヒト法国でも情報操作を始めている。
マティアス様のお言葉では、これが上手くいけば法国で大きな政変が起き、王国の安全に大きく寄与するとのことだ。
「帝国と違って法国は感情で動く人が多いので大変ですが、影の皆さんなら成し遂げてくださると信じています」
マティアス様の言葉に不覚にも目頭が熱くなった。
私はこれからもこの方のために身を粉にして働こうと思う。もちろん、安全第一で。
実質、これで第一章が終わりです。
次話は第一章での登場人物紹介です。
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