第十八話「ある分析員の述懐:前編」
主人公がこれまでやってきたことを第三者視点で語ります。
統一暦一一九六年十月三十日。
グライフトゥルム王国中部グライフトゥルム市、魔導師の塔。ヘルガ・エヴァルト上級魔導師
私の名は森人族のヘルガ・エヴァルト、叡智の守護者の上級魔導師にして、情報分析室の主任分析員だ。
情報分析室は大賢者マグダ様とマティアス君が作った新しい組織で、責任者である室長は導師のゾフィア・ゲール様。主任分析員は私を含め三人、主任の下に分析員が五人ずつ、計十九人で構成される。
情報分析室が発足したのは一一九四年三月。私はその半年以上前から手伝っているから、三年以上この仕事に携わっていることになる。
私が手伝い始めた頃はマティアス君が一人で情報を整理・分析して報告書にまとめていた。だから、私がやっていたことは集まってきた情報を彼に渡すことくらいだった。
その頃の私にはマティアス君が何をしているのか理解できず、それくらいしかできなかったのだ。
マティアス君がやっていたことは独特だった。
彼は闇の監視者が集めてきた何十枚にも及ぶメモを一つ一つ読み、文字が書かれた付箋を貼ってから、私が用意した数個の箱に入れていく。
箱には“物流関係”や“帝国軍動向”、“帝室情報関係”などと書かれており、付箋には“確定情報”、“根拠不足確認要”、“信頼度低・参考情報”などと書かれていた。
そして、その作業が終わると、一つの箱からメモを取り出す。更に彼の部屋にあるタンスの引き出しから紙を束ねた冊子のようなものを出し、それを眺めながら一枚の紙に文字を書いていく。
一度何をしているのか気になって聞いてみたことがあった。
「何をしているのかしら? 分類しているのだろうなということは分かるのだけど」
マティアス君は当時まだ九歳になっておらず、病気がちだったこともあり、実年齢より幼く見えた。
しかし、私に顔を向けた彼の目は知性に溢れていた。
「ええ、情報を分類して整合性を確認しているんです。今は帝都のパンの価格について調べています。六月頃から徐々に上がり始めて、最新の八月の情報では五月と比較して三割近く上がっているんです……」
そう言いながら冊子をパラパラと開き、一枚の絵を見せてくれた。
今では“折れ線グラフ”と分かっているが、その時の私は何を意味するのか即座に分からず、首を傾げている。
そのため、マティアス君は私に分かるように、図を指さしながら説明してくれた。
「横軸が月日を表して、縦軸が標準としている店のパン一個の価格です。価格は一目盛一マルク。ここが六月の初旬で、少しずつ上がっているのが分かりますよね……」
言われてみると、分かりやすいと感心する。
「昔の情報があまり残っていないので、比較は難しいですけど、帝国の穀物の価格はこれまで比較的安定していました。幅は大体プラスマイナス二割くらいです。帝国では穀物の値段が上がれば備蓄を放出して価格を安定させますから……」
「へぇ、そうなんだ……」
帝国の政策などこれまで興味がなく、そういったことをやっていると、その時初めて知った。
「パンの価格ではないですが、三年前の一一九〇年にも小麦の値段が上がっています。この年も今年も不作という情報はありません……」
「不作ではないのに値段が上がったということ? 理由は何なのかな?」
「まだはっきりとは分かっていません」
そう言った後、マティアス君は小さく微笑んだ。
「その頃のことは覚えていないのですが、帝国がリヒトロット皇国に大侵攻を行った年だと別の報告書に書かれていました。現皇帝コルネリウス二世が即位前に大勝利を飾った戦いがあったはずです……」
その指摘で私の記憶が蘇る。
「確かに皇国東部の平原、キュンツェルというところで、帝国が勝ったという話があったわね」
「その時も小麦が五割ほど高くなっています。恐らくですが、軍の兵糧としてかき集めたから需要と供給のバランスが崩れ、一時的に高騰したのだと思います」
「なら、再び帝国が大規模な戦いを起こすということかしら?」
そこでマティアス君は小さく首を横に振る。
「まだはっきりとしたことは何も……いろいろな情報を集めてもう少し分析してみないことには確定的なことは言えません」
それから積極的にマティアス君の手伝いをするようになった。
彼が言うように本当に帝国が大規模な侵攻を起こすのか、その兆候が読み取れるのか興味があったからだ。
本格的に手伝い始めて知ったのだが、彼が扱う情報は多岐にわたっていた。
穀物や飼葉、鉄や武器などの価格だけを調べているのかと思ったら、帝都を出入りする荷馬車の台数や帝都近くのザフィーア河の船の数なども闇の監視者に調べさせていたのだ。
他にも居酒屋の店員から集めてくる噂話や商人組合の帝都支部の掲示板に書いてある内容など、何のために集めているのかさっぱり分からないものが多かった。
そのことを聞くと、マティアス君はいつもの優しげな笑みを浮かべて丁寧に教えてくれた。
「荷馬車や船は物資の輸送量の変化を見るためですね。物資がいつもより多く動いているなら、何らかの理由があるはずですから。本当はどの物資を積んだ荷馬車や船がどう動いているかを知りたいんですけど、調べてくださる方のことを考えたら、あまり細かな情報を探ってもらうのはリスクが大きすぎますので」
荷馬車や船の数は闇の監視者の間者が帝国の役所に潜入して調べているらしい。潜入といっても下級職員に正式に採用されているため、機密情報でなければ比較的安全に調べられる。
噂話についても聞いてみた。
「噂話は馬鹿になりませんよ。特に軍団に所属する兵士たちが行く酒場を集中的に調べてもらっていますから」
私はその言葉に疑問を持つ。
「兵士が重要な情報を持っているとは思えないし、持っているような者はそれだけ信用があるわけじゃない。なら、酒場で漏らすようなことはないと思うんだけど」
「ヘルガさんのおっしゃる通りですけど、兵士たちの会話は意外に役に立つんです。例えば、行軍訓練が多くなってしんどいとか、もう少ししたら長期の休暇がもらえるとか、そんな情報がたくさん集まれば、大きな作戦が計画されている可能性がありますから」
そういう考え方もあるのかと納得するが、他の疑問も浮かんできた。
「なるほどね。それなら商人組合の掲示板は何のために確認するのかしら? 組合は帝国の戦争に協力しないでしょうし、帝国軍も商人たちに依頼は出さないと思うのだけど?」
私の問いにマティアス君はスラスラと答えていく。
「商人組合の掲示板にはいろいろな情報があるみたいなんです。私自身は組合の事務所に行ったことはないのですが、この間知り合った商人の方から聞いた話では売買したい物の情報が書いてあるそうです。つまり商人たちが欲しているものが分かるんです」
「商人たちが何を欲しがっているかが分かれば、不足している物が分かるというわけね……」
「ええ。でもそれだけではなくて、隊商の募集や行先に関する情報交換なんかもあるそうなんです。そういった情報を集めていけば、商人たちがどこに向かいたいと考えているかも分かりますから、結構役に立つんですよ」
この他にも紙や糸など関係なさそうな物の値段も調べている。
これについても理由を聞いてみた。
「紙は事務仕事に必要な物です。ですが、供給量はほぼ一定ですし、急激に増やすことも難しいものです。ですから需要が増えれば必ず価格に影響します。事務仕事は普通の商人でも行いますが、最も大規模なところは役所です。役所が動く、つまり政治が絡んでいる兆候かもしれないんですよ。もっともそれだけで判断するわけではなくて、他の情報の傍証に使う程度ですけど」
紙の値段で政治の動きが見えるとは思えなかったが、他の情報と合わせると言われるとなるほどと思ってしまう。
「糸も同じなの? あまり関係ない気はするけど」
「糸は紙よりもいろいろな用途があります。布を作るためにもロープを作るためにも必要ですから。ですが、何もないのに極端に需要が増える物ではありません」
「確かにそうね」
そう言うもののあまりピンと来ていなかった。そのことがマティアス君に伝わったのか、更に詳しく教えてくれる。
「帝国軍では軍服を採用しています。糸の需要が増えていれば布の消費量を調べ、それから軍服の発注が増えているということが分かるかもしれません。軍服の発注が増えるということは兵士の増加を意味しますから、軍事作戦の兆候と見ることもできるのです」
そこで私はようやく納得できた。
「一見無意味でもいろいろな情報があれば役に立つということね。何となく分かったわ」
私が感心すると、マティアス君はニコリと微笑んだ。
「私も無意味かなと思うものも結構あるので、全部が必要というわけでもないんですけど」
その言葉に思わず笑ってしまったが、どこで役に立つか分からないと考えると、無意味と思える情報も集めておくことに意味はあると思った。
情報収集と整理の仕事をし始めたが、彼が闇の監視者に別の指示を出していることを知った。
それは大陸内の詳細な地図の作成だった。特に詳しく知りたがったのは皇国との国境シュヴァーン河周辺だった。
そのことを聞くと理由を教えてくれた。
「確信があるわけじゃないですが、帝国は二十年以内に王国に攻めてくると思っています。その時、我が国が防衛線にするのはシュヴァーン河になることは間違いありません。どこが渡河しやすいのか、現在の防衛拠点であるヴェヒターミュンデ城とリッタートゥルム城だけで充分なのか、渡河されてしまった場合、次はどこでどう対処すればいいのか……いろいろと考える必要がありますが、その際に正確な地図は絶対に必要ですから」
彼は既に将来のことを見据えて準備を始めていたのだ。
「もっとも大陸内の正確な地形が分かる地図は書庫にあったんです。等高線も入っていて地形はとても分かりやすいんですが、問題もあって……」
そんなものが存在するとは全く知らなかった。
「そんなものがあったのね。でも、何が問題なの?」
「この地図なんですが、千年以上前のフリーデン時代の物なんです。主要な街道は変わっていませんが、町や村、森なんかは大きく変わっているでしょうし、川も流れが変わっているかもしれません。だから、その最新化をお願いしているところなんです」
この子はどこまで考えているのだろうと思い、情報分析室への配属を希望した。
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