無限の円環~崩壊した世界の少女~
その日、世界は滅びた。
突如空から強大な力を持つ怪物が現れ、一夜にして全てを破壊したのだ。
特別な力を持つ少女が仲間と共にその怪物へ立ち向かったが、あまりに強大すぎる力に一人、また一人と敗れ去り、いつの間にか彼女は一人になってしまった。
彼女はようやくその怪物を倒すことに成功したが、地球上にはもう、彼女以外に生き残った者はいない――。
――
(誰もいなくなってから、どれくらい経ったか分からない……。空は真っ暗、太陽も月も昇る気配を見せない。まるで異世界に取り残されたみたい……)
幸い、焚き火を起こす木は大量に散らばっていたため、自分の周囲だけは明かりを確保できていた。
彼女は暗闇でもしっかり見える目を持っているが、万が一、自分以外の生存者がいた場合に、自分の居場所を知らせるため火をくべたのだ。
(もう何日もこうしてる気がする……それでも、誰の命の気配も感じない……)
吸血鬼フェリス。
それが彼女の種族と名前である。
金色の長髪にルビー色の瞳、整った顔立ちと美しい肌は誰もが目を奪われるだろう。
だが彼女に視線を送れる者はいなかった。
皆、死んでしまったのだから。
(……もしかしたら誰かが生きているかもしれない……なんて思うのも、もう無駄に思えてきたわね)
彼女は口元を緩めて、目を伏せる。
吸血鬼であるがゆえの生命力が、怪物との死闘で生き残った要因ではあるだろう。
だが、誰もいなくなり、時間さえ分からなくなったこの世界で生き続けるのは、もう疲れ切っていた。
(吸血鬼としての生命力さえなければ、とうに死んでいたはずなのに……)
静寂と暗黒だけが支配し星も消えた――"空"と呼んでもいいのか分からない遙か上を見上げ、彼女は滅びる前の世界を思い起こす。
(怪物が来る前は幸せだったな。毎日笑って暮らして、たくさん学んで、人間のことを好きになって――そして、あいつと一緒になることができたのに……)
フェリスは再び視線を下げ、今まで出会って来た者達の顔を浮かび上げる。
一人、一人。
出会いから別れ、共に戦い、時には敵同士となったこともある。
あの当時は苦しかった時もあったが、今となっては全て良い思い出だった。
中でも強く思い浮かべたのは、人間でありながらも吸血鬼である自分を愛してくれた一人の少年――。
フェリスは鼻をグスと鳴らして、顎を引く。
大粒の涙が溢れ、肩を震わせた彼女の嗚咽が静寂に響き渡る。
「敬一ぃ……みんなぁ……、どうして私を残して死んだのよぉ……。う、ああ……ああああっ――あぁあああああっ!」
泣いたのは何度目だろうか。
誰の目にも憚らなくて良いが、それは無情にも自分がこの世界で一人であることを思い知らせてくる。
もう死にたいとフェリスは何度も願ってきたが、吸血鬼としての強い生命力が邪魔をしてずっと苦しませているのだった。
「クーン」
「――っ!?」
そこへ突然、声が聞こえた。
彼女は首が回転するかと思うほどの勢いで振り向いて、息を呑んだ。
体温の上昇を感じつつ、しばらく聞き慣れていなかった自分以外の音に警戒したのだ。
心の中がぐちゃぐちゃになっているのを冷静に立て直し、肩をこわばらせる。
だが、そこにいたのは。
「い……ぬ?」
一匹の雑種犬だった。
「ワンワン!!」
大きさは中型犬ほどで、毛並みは茶色。
焚き火の明かりに向かってきているだけか、それとも匂いを辿ってきているのか。
その犬は尻尾を振りながら、道悪な地面を軽快に走り、フェリスの元へ向かってきた。
「生き、てる……? あなた、生きてるの?」
「クーン?」
焚き火の近くまで来たその犬は不思議そうに首を傾げると、フェリスがしゃがんで声をかける。
「あは……アハハハハ! 生きてる……! あなた、生きてるのね!?」
彼女は犬を抱き上げ、顔を綻ばせた。
今まで生命の気配が感じ取れなかった世界で、ようやく見つけた生き残りだ。
彼女は嬉しさのあまり涙を見せながら、自然と笑顔になっていた。
「よしよし、あなたも辛かったでしょうね。他に誰かいないかしら?」
「ワゥン……」
「お腹空いてる? 怪我はしてないようだけど、一応見てあげるわね」
フェリスは久しぶりの会話を楽しむように、その犬の世話をし始める。
彼女は元来、世話好きではないはずだが、自分以外の誰かが生きている姿が嬉しくて堪らないのだ。
あの日からずっと、自分の寿命が終わるのを一人で待っているだけだったのだから。
(吸血衝動はある……でも、ここでこの子を弱らせて生き存えたところで意味なんてない)
フェリスは吸血鬼としての特製である吸血衝動を考え、頭を振った。
せっかく生き残った命を見つけたのだ。
もはや生きることに希望は見いださず、この犬とともにできる限り余生を生きたかった。
フェリスはそう思い、この犬に名前をつけることにする。
「そうね……あなたの名前は――ケイ、イチ……」
フェリスはそこまで言いかけて、地面の方に視線をやった。
目を細めて、わずかに険しい顔で唇をきゅっと結ぶ。
(私って……ほんとバカね。死んでしまった人の名前をつけるなんて悲しみが増えるだけじゃない……)
言い淀んだフェリスの手を、犬はただペロンと舐めた。
「ワゥン」
それを見たフェリスは左右に頭を傾けて、鼻筋にしわを寄せる。
「もしかして、気に入ってくれたの?」
「ワフ!」
ただ鳴いただけかもしれない。
が、頷いたようにも見えた。
都合の良い解釈だろうが、フェリスは涙腺が緩むのを我慢しながら無意識に唇を開く。
「ふふふ、じゃああなたは今からケイイチね!」
「ワン!!」
元気よく返事したケイイチは、体をブルブルと振って、フェリスの足下にすり寄ってくる。
そのまま地面に伏せ、体を丸めた。
どうやら眠りたいようだ。
「眠たいの? ま、それもそうよね……」
「私もここ最近はほとんど眠れてなくて……ふぁ。あなたに会ってから気が緩んだみたい、ふふ」
その犬の温もりを感じたいがために、フェリスはケイイチを抱きながら自分もとりあえず眠りにつくことにした。
(明日はこの子の餌を探して……、水も必要よね。後は……)
一人になってから明日が来るのがイヤだった。
いつの間にか寿命が終わっていればいいのにと、何度思ったことか分からない。
だがそんな気持ちは、今やどこかへ消えた。
ケイイチのために生きれる明日が来る。
フェリスは今までにない高揚と期待を持ったまま、連日の寝不足と疲れのせいですぐに意識を遠のかせたのだった――。
――そうしてフェリスが熟睡し始めたころ、ケイイチの背中から、黒く禍々しいトゲが六本生えてきた。
それは目に見えない糸のような細さとなって、眠っているフェリスの腕にそっと近づき、尖った先端をぷつりと刺す。
ドクドクと、徐々に体液を送り込んでいるのだ。
「う、……うーん」
フェリスは腕の異変を感じ取ったのか、顔をしかめた。
だが、起きるまでには至らない。
人間で言えば蚊に刺されているよりも静かに、そっと優しく動く触手は意思を持っているかのように、フェリスの様子に合わせている。
一人取り残されたことで心が弱り切り、時間感覚さえ分からなくなった彼女は、その睡眠中に小さな異変に気づくことはできなかった。
再び小さく安らかな寝息を立て始めた少女を見計らったように、触手は少しずつ、ゆっくり――動き出す。
……やがて、黒い触手の全部が完全に彼女の腕に送り込まれると、犬の形をした"何か"は、寿命を終えた木のようにしわくちゃになって枯れていった。
フェリスはそこから、夢を見始めた。
心の深い部分にあった彼女の願いを具現化するような――世界が滅びる前の幸せな日常の夢だった。
愛する者と共に嬉しそうに歩く自分の姿。
吸血鬼でありながら、人間と同様の生活を営んで嬉しそうな自分自身が見える。
しかしそれは不思議なことに第三者目線で、まるで上から覗いて観察しているような奇妙な感覚に、フェリスはしばらく放心する。
(これは……夢?)
自分からこれを夢だと気づいた途端、次第にその世界から視界がフェードアウトした。
(ダメ! 待って!!)
フェリスはすぐに手を伸ばしたが、黒い壁のようなものを超えた瞬間、その世界は見えなくなった。
代わりに目に飛び込んできたのは黒い世界と、眠っている自分の姿。
それが今いる自分の状況を俯瞰して見ているのだと分かった彼女は、二度とあの幸せが元に戻らないのだと改めて認識した。
深い絶望が彼女を支配し、胸を締め付けるような痛みが襲う。
そこで、フェリスはハッと目を覚ました。
「――ふぐっ!? ぅ……ハッ、ハッ、ハッ、ハッ!」
呼吸が荒い。
胸に手を当てて、冷静に息を整える。
冷たい汗が額に湧き出ている感触を確かめながら、ゆっくり視線を動かした。
しかし、やはり世界は変わっておらず、何もかもが壊れたままだ。
「うぅ……」
過去には戻れない。
どれだけ願ってもどれだけ苦しんでも、生き続けなければならない。
その事実はたちまち彼女の呼吸を浅くさせ、胸をさらに締め付ける。
だがフェリスにはまだ救いがあった。
暗闇の中、一匹だけだが自分と同じ生き残った犬がいるのだ。
彼女はその犬に優しい眼差しを向ける。
「ケイイ――チ……、っ!?」
そこで彼女が見たのは、自分の腕の中で冷たくなり、体が崩れている犬の形をした"何か"だった。
「え……?」
フェリスは言葉を失った。
いや、思考が飛び散った。
それを見つめながら、呆然と、愕然と、目を見開く。
(なん……で?)
ぽろぽろと涙が溢れて止まらない。
枯れ木のようになって崩れ去る犬の形をしていた物体は、彼女の腕で抱かれていた部分を最後に、灰のようにさらさらと風に流されていった。
(私が――殺した……? 眠っている間に、吸血して……殺した、の? いや違う! 飲んでいない! 私は何もしていない!!)
自分の口元に手をやるが、血の跡はない。
吸血して殺してしまったわけではないはずだ。
だがそれでも、変わらない事実がある。
ケイイチと呼んでいた犬は、死んだのだ。
自分が知らないまま、何も分からないままに。
「あ……あ」
彼女は再び一人取り残された事実に、何かの糸がぷつんと切れた気がした。
「あぅああ――っ、あぐぅうあぁあああああああっっっ!!!!!」
またも愛する者の名前を持った大切な存在を失った彼女の叫びが、虚空にこだまする。
「なんで……どうしてっ!!!? なんでこの世界は私をここまで苦しめるの!? 私が何をしたって言うのよっ!? ここまで私を苦しめてどうしたい!? この私をここまで追い詰めて――ふざけるな!!! ふざけるなあああああっっっ!!!」
血を吐くような叫びと共に、彼女の心にとてつもない怨嗟のうねりが渦巻いた。
頭を抱えた彼女は歯が砕けるほどに食いしばり、こめかみに血管を浮き上がらせる。
すると左腕に入り込んでいた触手が、怒りで収縮する血管の流れに乗って、彼女の全身に回っていく。
「――っ!?」
すると頭に、先ほど夢で見た幸せな日常が広がる世界と、自分のいる黒い世界が同時に見えた。
そしてそれらは、壁一枚で隔てられている。
(今のは……何? 別の世界が……あの世界が、隣にある……?)
「あが……ぐっ!?」
フェリスは自分の体にさらに異変が起きたのを察知した。
異常な熱さが左腕に感じたので視線をやると、肌に黒い不気味な筋が浮かび上がっていた。
それはぶくぶくと膨らんで、複数の瞳がその腕に現れ始める。
「うぐっうぁあああああ――!? あ、熱い!? 熱いぃ!? あぁあぐぅう……あああああああ――!?」
細胞一つ一つに熱が刻まれているような感覚に彼女は叫び声を上げた。
静寂を破る悲鳴は――しかし反響するだけで、その声は誰にも届かない。
誰も助けに来ない。
誰もいない。
誰も――。
誰も……。
(どうして……私だけ?)
口をパクパクさせながら、涙すら出ない痛みに耐え、彼女はこの苦しみを与えられている自分の運命を呪った。
徐々にその熱が消えてくるが、彼女は異常に膨れあがった腕を気にすることもなく、生気を失った目で天を仰ぐ
全てを失い、一人残され、ようやく見つけた生き残りも、自分の腕の中で死に絶えていた……こんなことはおかしい。
彼女の頭には、夢に見た別の世界の幸せな景色への憎悪しかなかった。
(何……? こんなの……おかしい、だって……どうして私だけ――? あっちは幸せなのに……っ!?)
「どう、して……? どうして? どうして? どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして――うぅううぅうううっ!!!? ずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいぃいいいいっ!!! あああぅぅああぁ――あぁああああああ――!!!!!」
彼女は怒り狂い、地面を渾身の力で殴りつけた。
「うぐっ――ぐ、うぅぅ……ぎああああああっ!!!?」
地面が割れ、空間が揺らぎ、爆発のような音が共鳴する。
理性など吹き飛んだ。
もう冷静に考えることなどできやしなかった。
フェリスは犬歯をむき出しにして、世界の全てを呪った。
「フゥーッ! フゥーッ! フ、アハ、アハハハハ! そうよ、あんなのずるいじゃない!」
フェリスは癒えることのない心の渇きを覚えた。
脳内でおぞましい思考が流れているのは自分でも分かっていた。
だが、止められない。
もう我慢などできない。
「あなたも"私"なのに、あなただけ幸せを享受できるなんて不公平でしょう!?」
彼女の口元が不気味に弧を描く。
「良いじゃない……どうせ、別の世界で生きてるってだけの同じ"私"なんだから」
自分だけが苦しみを味わうなんて許せなかった。
別世界に生きる自分が、自分とは違って幸せに生きるなんておかしいではないか。
同じ目に合わせて全てを奪い取ってやりたい。
そうしてようやく自分に、死が訪れるのだと。
そんな思考が彼女を完全に支配した。
「アハハハハ、あなたも私と同じように苦しめてあげる。そして全部壊して、奪ってやる……っ!!」
世界を襲った異形の怪物と同じ姿になった少女は、その異常に膨れあがった左腕で空間に手を伸ばす。
ただそれだけで彼女の心に思い描く通り。
ボンッ!!!
と、黒一色だった世界の空間に、ぽっかりと一人が通れるほどの穴が空いたのだ。
その先には夢で見た別世界の、青く澄み切った空が広がり、清々しい空気が流れている。
彼女は胸を張って、味わうように大きく息を吸った。
「ああ、……美味しい! 私がいた世界と一緒ぉお♪」
かつて自分が幸せを謳歌していた世界と、同じ匂いと味に興奮を覚えた。
時間感覚が狂っている今は、もはや懐かしさを感じるほどで、彼女は嬉し涙を流す。
だがすぐに狂気的な笑みに戻った彼女は、穴からその身を乗り出した。
「見ぃ~つけた♪」
吸血鬼の能力だけではない。
何か凄まじい力によって、視力を含む身体能力を莫大に飛躍させられていた彼女は、探していた目標をすぐに索敵することができた。
目を細め、膝を曲げる。
そのまま勢いよく穴に飛び込み、青い空に金色の髪をなびかせる異形の怪物として舞い降りた。
その――直後。
カッ!!!! と周囲に赤い閃光が走り――遅れて、巨大な爆風が世界を覆い尽くす。
「アハハハハ! アーッハハハハハハ!」
その日、とある世界は滅びた。
突如空から強大な力を持つ怪物が現れ、一夜にして全てを破壊したのであった――。