最終話
「はぁ、はぁ」
覚は走っていた。
必死に走っていた。
夏の日差しのもと、彼は走り続けた。
あれから、どうやって自宅に戻ったのかよく覚えていなかった。
美弥子は、彼女は幽霊だったのかと、そのときは思わなかったが、あとでよく考えてみて、やはりそうだったのかと思った彼だった。
そういう霊感がないとはいえない覚だったのだから。
幼いころからよく幽霊を見てきたものだった。
ごく小さい頃はそれを無邪気に両親に話したものだったが、いつの頃からか、そういうことを他人にいうと気味悪がられるということを覚えていき、だんだん話さないようにしていたのだ。
「みや、こ、違うよな、おまえは死んでなんか…」
覚は走りながら呟いた。
美弥子の苗字は知らなかった。
ただ三年生だということしか。
あれからいろいろ聞いて回って、美弥子が失恋のあまり首吊り自殺を図ったということを聞いたのだった。
だが、発見が早く絶命はしなかったのだが、ずっと目覚めることなくもうかれこれ一年が過ぎているということだった。
当時三年だった彼女である。
普通ならばもうこの春は卒業していたはずだった。
「美弥子、死ぬな。これからじゃないか」
覚は走った。
力の限り。
彼女の眠るその場所へ。
市立病院へと。
「もう目覚めることはないと言われてます」
横たわる美弥子の傍らに、彼女に良く似た人がそう言った。
美弥子の母だった。
「ずっとこのまま病院にいるのも美弥子がかわいそうなので、今度自宅に戻ろうと思っています」
「…………」
「傍にどうぞ」
美弥子の母は、うっすらと淋しそうに微笑んだ。
覚はぎこちなく頭を下げると美弥子の眠るベッドの傍らに跪く。
「みや、こ、どうしてこんな…」
覚がそう言うと、美弥子の母はそっと病室を出て行った。
病室はカーテンを締め切っていて薄暗かった。
病人に光を当てるのはよくないらしい。
覚は、彼女と初めて逢った音楽室を思い出す。
「死んだらなんもかんもおしめーなんだよ」
覚は搾り出すようにそう言った。
そう、おしまいなんだよ、何もかも。
たかだか恋に破れたからって、それで世界が終わってしまうなんてありえない。
もちろん、その恋が真剣であればあるほど、そういう気持ちになってしまうことはわからないではない。
だが、男はそいつだけではない。
「俺のこと好きだって言ったじゃねーか」
ひとつの恋が破れても、いつかまた新しい恋は生まれる。
そのとき、死にたいくらいの辛さがあったとしても、必ずそれ以上の相手は見つかる。
だから───
「死ぬなよ、目開けてくれよ、美弥子。一緒にまた歌おうぜ、歌を。な、みやこぉぉぉ」
我慢できなかった。
覚は泣き出した。
かまうもんか。
誰に見られたっていい。
泣いて泣いて泣き尽くして、それで美弥子が戻ってくるなら、それで美弥子が目を覚ましてくれるなら、いくらでも泣いてやる、いくらでも───
『君、すごくセクシーな声なんだね』
突然、彼女の声が聞こえたような気がした。
そう思った瞬間、彼は歌い始めていた。
彼女と歌ったあの歌を。
理由もなく生きてきた
けれどあなたを愛した
それが生き続ける理由となった
今も愛してるわ
今もあなたを忘れずに
今もあなたに恋焦がれ
もう一度抱きしめて
と、そのとき。
「もう一度キスして…」
彼女の口が動いた。
「だきしめ、て…」
「美弥子!」
「まな、ぶ?」
美弥子が目を開けた。
そして、傍らの覚を捉え、にこっと弱々しく微笑んだ。
「ほん、と、君の声って、セクシー」
後に、セクシーで大胆、繊細で切ない、そんな歌を歌い続ける男ゲクトは、当時の想い出をこう語った。
「諦めちゃ駄目なんだよ。想いはね、強く強く想えば届くんだから。だから、諦めちゃ駄目なんだ」
そう言うと、彼は艶然とした微笑を浮かべ、どこか遠くを見詰めた。
その彼の目の奥はキラキラと輝き、何者にも負けない不屈の精神が確かに彼の中で息づいているのを教えた。
そして、彼はもう一度言った。
「諦めちゃ駄目なんだ。愛しい人を抱きしめたいと思ったら、何があっても諦めない。それが大事なんだよ」




