第3話
音楽室はもちろん音楽の授業で入ったことがあった。
グランドピアノがあり、黒板があり、その黒板の上には有名な作曲家たちのポートレートがズラリと掲げてある。
覚は音楽家にはなるつもりはなかったが、偉大な作曲家たちの残してくれた音楽はとても好きだった。
ベートーヴェンの力強い曲も、ショパンの優雅さも、モーツァルトの緻密さも、彼にとっては尊敬すべきものであって、日頃からよく彼らの曲を聴いてはいたのだ。
だが、好きであるのと、彼らのようになりたいのとでは違い、音楽はもっと気楽に楽しくやっていくのがいいというのが覚の持論であったのだ。
「…………」
覚はちらっとポートレートを一瞥すると、ピアノに座っている女性に目を向けた。
教師という感じではなかった。
この学校の女生徒はセーラー服なのだが、彼女は制服ではなく白っぽいワンピースを身につけていた。
年のころは覚と同じくらい。
見たことのない顔だった。
もっとも、覚もまだこの高校に入ったばかりだし、新入生の全てを知っているわけでもない。ましてや上級生など部活にも入っていないので覚えようがない。
(長い髪)
本当に長い髪だった。
それも針金のようにまっすぐで。
前髪は眉毛のあたりでまっすぐに切りそろえられていて。
まるで日本人形のようだ。
「誰なの?」
彼女がまた誰何する。
覚は少しどぎまぎしながら言った。
「俺、覚。神楽覚」
「かぐら、まなぶ?」
「それよか、あんたも誰だよ。こんな真夜中に何してんだ?」
「…………」
彼女は怪訝そうに首をかしげた。
「私? 私は、美弥子」
心なしかぼんやりとした表情で彼女は言った。
不思議な感覚が付きまとう。
なんだろう。
自分まで心もとない気持ちにとらわれる。
「歌を、そう、歌を歌ってたの。彼にね、歌ってあげようと思ったんだけど」
「思ったんだけど?」
「うん、振られちゃって…」
「…………」
苦手だ。
こういう話は苦手だった。
もちろん、覚も好きな女の一人や二人はいなかったわけじゃないが、他人の色恋沙汰を聞くのは何となく気恥ずかしくて、できたら聞きたくないなと思った。
だが───
「そうだ。彼の代わりに、君、聴いてくれる?」
「えー、俺が?」
「ダメ?」
「しかたねーなー。いいよ」
思わずどきっとした。
彼女、美弥子のすがりつくような眼差しに、覚は心臓をぎゅっと握られたような気がした。
思わず、目をそむけた。
(俺、ヘンだ。ヘン…)
そこではっとして自分の格好に気づいた覚。
パジャマだった。
ゲッと思い、慌てて美弥子に顔を向けるが、そもそも覚の格好など気にしてないようだった。
それもまた不思議なことだが。
ポロロンとピアノが鳴る。
静かに彼女は歌いだした。
夏の日差しに消え行くあなたの影追いかけ
「今も愛してる」
抱きしめてと叫んで
「今も覚えてる?」
あなたの記憶にわたしを刻んで
いつか逢えたなら
すぐにわたしだと気づくでしょう
あの夏の夜に佇んだその場所で
あなたの流した涙を
わたしが掬ったことを
きっと
理由もなく生きてきた
けれどあなたを愛した
それが生き続ける理由となった
独り彷徨って
独り歩き続け
儚さを追い求めた
悲しみは降り注ぐけど
あなたさえいればよかった
想い出は遠ざかっても
あなたの傍にいたかった
あなたの面影を抱いて
あなたの声を胸に
あなたの身体を抱きしめ
深く眠りたい
今も愛してるわ
今もあなたを忘れずに
今もあなたに恋焦がれ
もう一度抱きしめて
思わず──
覚はいつのまにか彼女の傍らに立ち、一緒に歌っていた。
覚の声は低く、歌うと艶が出る。
見ると美弥子は幸せそうに歌っていた。
覚も、なぜか、そんな彼女と歌うのが嫌ではなかった。
むしろ楽しいとまで思ってしまった。
彼女の声があまりにも綺麗で、惹き込まれてしまったのだ。
ひとしきり二人は共に歌った。
まるで一組の恋人同士のように。
というのも、覚はすっかり美弥子に恋してしまっていたのだ。
(振られたって言ってたもんな。じゃあ俺にもチャンスはあるってわけだ)
そういう軽いところもある覚だった。