第82話 相棒
気がついた時には、ジョナサンは荒波に揉まれていた。
海流に体を引き摺り回され、上下左右の感覚もわからない。
メアリーが身投げしたのを境に、嵐はますます手がつけられなくなり、ついに全員高波にさらわれてしまったのだ。
誰か、近くにいないか。エルモ、メアリー、村長。
闇雲に手を伸ばすが、重たい水の中では思うように動けない。指先に触れるものはなにもなく、ただ冷たい水を掻くばかりだ。
息が苦しい。
このまま死ぬわけにはいかない。
ジョナサンは、心の中で海に向かって語りかけた。
「海よ、海よ。俺はお前の新たな支配者。デビー・ジョーンズに従う者」
少しだけ海流が緩やかになった気がした。ジョナサンは、左目の眼窩にはめ込まれた真珠に意識を集中する。
「そんなに荒ぶる必要はない。必ず俺がなんとかする」
真珠が暖かくなった。なにか得体の知れないものが、体に流れ込んでくる。自分の体が作りかえられているような心地だ。
きっと、自分は人間から怪異に変わりつつある。そしてそれは、真珠の力に頼るほどに進行する。そういうことなのだろうなと納得して、ジョナサンはニヤリと笑った。
「命令だ! 投げ出されたみんなを、近くの島まで運べ!」
その途端、なにもかもを深海へと引きずり込もうとしていた渦が、ふわりと解けた。
ジョナサンは、ふっと体の力を抜いた。
無理に泳ごうとするより、流れに身を任せて運んでもらった方が早いと判断したのだ。
光の差す方を見上げると、他にも何人か同じように運ばれていく人影が見える。
それに混じって、妙なものが点々と泳いでいることに気がついて、ジョナサンは「ん?」と目を凝らした。
初めは魚影かと思った。しかし、魚にしては大きい。
尾びれを自在に操って、あちこちに漂っている海賊砦の残骸を華麗に避けて泳いでいる。
見間違いでなければ、それには二本の腕が生えていた。下半身はつやつや光る鱗に覆われているが、上半身はつるりとした肌色だ。そして、頭部には頭髪が生えている。
セイレーンか?
もっとよく見ようと目をこらす。間違いない。その特異な姿を見間違えるものか。
ぐい、と強く体が引っ張られるのを感じた。なにか、すぐ近くを泳いでいるものがジョナサンの体を引っ張っている。
その姿を見たとき、ジョナサンは驚きで思わず声をあげ、大量の水を飲んでしまった。
浜辺に押し流され、ジョナサンは勢いよく咳き込み、入り込んだ水を吐き出した。
近くには同じように流れ着いた海賊達が何人も、苦しげに水を吐いている。
「大丈夫か?」
目の前に手が差し出される。
やはり、幻ではなかった。ここまで自分を引っ張って泳いだのはクラフトだ。ジョナサンは言葉をなくして彼を見上げた。
「クラフト? なんでここに。死んだはずじゃ……」
「勝手に殺すな。僕は元気だ。メアリーとデビーがその命運をかけて助けてくれたんだ。死ぬわけにはいかない」
最後に見た生気のない姿が嘘のように顔色がいい。
「よかった、俺は、てっきり……」
感情が込み上げて、ジョナサンはへなへなとその場に座り込んだ。
「あれ? でもお前どうやってここに……?」
あの港からここまで、かなり距離がある。やはり幽霊なのでは。それとも、自分で作り出した都合のいい幻なのでは、ともう一度穴が開くほどにクラフトの姿を凝視した。おかしいところは特にない。
クラフトは、再会を大喜びしているジョナサンをよそに、どこか拗ねたように頬を膨らませている。
「泳いできた」
「およっ!? えっ?」
「さすがに一人では無理だったが、途中でセイレーンのみんなが助けてくれた」
「えっ、待って? えっ?」
「君が僕を置いて行くからだぞ。おかげでえらい目にあった」
クラフトの頭上にラヴが舞い降りる。馴染みの足場で毛づくろいをしながら、ラブは「チョットオコッテルンダカラナ」と甲高い声で鳴いた。
「ごめん……?」
「なんで置いて行くんだ。考えてもみてくれ、僕の気持ちを! ようやく歩けるようになって桟橋に向かったら、僕たちの船がそこにないんだ! わかるか!? びっくりしたんだぞ!? 一緒に行こうって言ったじゃないか!」
矢継ぎ早にまくし立てられて、胸ぐらを掴まれてガックンガックン揺さぶられて、ようやくジョナサンは、これが夢でも幻でもなく、クラフトは本当に生きているのだと理解が追いついた。
「でも、葉巻でお前を呼んだ時、なにも言ってくれなかっただろ。あれはなんでなんだよ。一言くらいなにかいってくれたら、早とちりしなくて済んだんだ。俺だって、お前が死んだと思ってめちゃくちゃへこんだんだからな!?」
「なんだ、気づいてないのか?」
クラフトは、ジョナサンの左胸を指差した。ちょうど、心臓があるあたり。最後に話した時、葉巻の煙が霧散する寸前にも、クラフトは同じところを指差していた。
「デビー・ジョーンズの刻印が消えている。あの時僕たちは船の上にいただろう? 彼女の加護がない状態で僕の声を聞かせるわけにはいかなかったんだ」
シャツをはだけてみると、確かにそうだ。デビーと契約したあの日に現れた刺青のような刻印が消えて、まっさらになっている。
クラフトはそれを伝えようとして、心臓のあたりを指差していたのか。ようやく合点がいった。てっきり「僕は死んでも君の心にいる」的な意味だと思っていた。
ジョナサンは、脱力して仰向けに寝転がり、空を仰いだ。
笑いがこみ上げてくる。なんで気づかなかったんだろう。
「あははっ、だからってお前、泳いで来るとか正気かよ!」
「なんだその言い草は。君たちに会いたい一心で頑張ったのに」
「ありがとよ相棒! やっぱお前最高だな!」
空はまだ曇っている。分厚い雲の向こうから、鈍い光が漏れ出して来る。
「えっ!? クラフト! 生きてる! よかった!」
海から上がってきたエルモが、体から滴る水も払わずにこちらへ駆け寄ってきた。
「元気そうじゃん! 怪我はもういいの!?」
「ああ、もうすっかり治ったとも」
「早くメアリーにも教えてやらねえとな。お前が生きてるってわかったら、きっと喜ぶ」
「彼女は……元に戻れるのか?」
クラフトが不安そうに呟いた。
浜辺を見回す。
周囲には、死ぬような目にあって精魂尽き果てた海賊達が死屍累々と横たわっている。
その中に、メアリーの姿はない。
「まさか、まだ……」
「そうだ。彼女はまだあっちにいる」
クラフトが指差した方角に目をやると、遠くで光が空を裂いた。
「わかるのか?」
「感じるんだ。僕の中のセイレーンの血が騒いでいるのかもしれない。さて、ここで相談だ。先ほどの渦潮で、停泊していた船は全て壊れた。しかし僕たちはメアリーのところまで行かなければいけない」
「そりゃあ……、決まってるだろ」
ジョナサンは、ニッ、と笑って答えた。
「泳いで行く」
それからジョナサンは、エルモの方へ向き直って「ここで待っててくれ」と言った。
「絶対戻って来る」
「わかってるよ。行ってらっしゃい」
「クラフトは俺と来てくれ。お前がいれば百人力だ」
「よしたほうがいい。僕と並んで泳ぐのは危険だ」
「大丈夫だ。問題ねえよ。詳しい話は後でする」
すでに自分は半分くらい人間ではない。デビーに近い存在になりつつある。セイレーンの声も、効かないはずだ。
「わかったよ船長。それじゃあ、一緒に行こうか」
「ふふっ、もう船ねえけどな」
「関係ないさ」
ジョナサンは、波打ち際から再び海に踏み込んだ。
一歩進むごとに深さが増し、足首から膝へ、膝から腰へと海面が上がって来る。
もう十分だ、という深さまで到達すると、ジョナサンとクラフトは砂を蹴り、水に身を任せて大海へと泳ぎだした。
エルモが海を見つめていると、その隣にギベッドがやってくる。彼も海流に運ばれて、無事にここまでたどり着いたようだ。
「来い。水と食料を探しに行く。この人数が漂流生活できるだけの物資が必要だ。見つからなけりゃ、殺し合いになる」
「はーい」
二人は連れ立って浜辺を歩いた。
ヤシの木には実がついている。少し先に、さほど大きいわけではないが、河口も見えた。
少し内陸に入れば、土が肥えていて豊かなのが一目で分かるほど、木々が茂った森がある。しゅっ、と音もなく鳥が急降下して、川から魚を一匹さらって行った。
この島には水と食べ物がある。船がなくとも、しばらくは生きていけそうだ。海流は良い島を選んで運んでくれたらしい。
「あのクソガキはどうした」
「あっちへ行ったよ。メアリーがまだあっちにいるの」
エルモの指差す方を見て、ギベッドは顔を歪める。
「……船は?」
「泳いで行ったの」
「正気か」
「もちろん」
その後ろに忍び寄る者があった。
「そうか、あんたがいたか神父様。こんなむさ苦しい海賊どもの群れに女一人残して行くとは、ジョナサンのヤツ薄情だと思ったんだが」
声をかけられ、振り返るとそこには村長がいる。
「ええ。彼もいるし、あなたもいるから大丈夫だ。って思ったんじゃないでしょうか」
「はっ、確かに。甘ったれジョナサンの考えそうなことだ」
村長はエルモの隣で、遠ざかって行くジョナサンとクラフトの姿を、目を細めて見つめている。
「なあ、聖女様。少しばかり、自分語りに付き合ってもらってもいいかね?」
「ええ。それが本職ですから」
二つの小さな影は、波間に消えたり現れたりを繰り返して、着実に進んで行く。
「俺は、俺の人生に後悔はねえよ。ああすればよかった、こうすればよかった、って考えるのは、頑張ってくれたエドに失礼だ。俺が「あっちだ」って言う方角を、あいつは信じてくれたんだから」
軽くため息をつくと、村長は少しためらってから、押し殺すように呟いた。
「でもなあ。あの二人を見てたら、少しだけ。本当に少しだけだが……、うらやましいって思っちまった」
二人の行く先で、再び雷鳴が轟く。二つの影は、速度を緩めることなく進んで行く。
「俺たちも、望みさえすればあんな風に……、良き相棒として一緒に海で暮らせただろうか」
「過去を悔やんではなりません。あなたは、最善だと思う行動をした。そうでしょう?」
「……そうだな」
長年積もった埃をそっと吹き払うように、村長は呟いた。
「俺は海で死ぬよ。この先ずっと海で暮らすんだ。デビー・ジョーンズ・ロッカーに行けば、もう一度あいつに会える」
はっ、と村長とギベッドが身を固くした。
周囲がざわめき始めている。海賊達の意識が回復し、よたよたと立ち上がり始めたのだ。
彼らは、敵意を持って村長を睨みつけている。
「あんた達のせいでえらい目にあったぞ」
「船が沈んじまった。どうしてくれる」
「あのクソガキはどこだ。一緒に殺してやる!」
エルモは、殺気立った海賊達の前にたち、毅然と言い放った。
「おやめなさい。神は全て見ています」
海賊達は視線を交わし合っていやらしく笑った。「女だ」「犯そう」「売り飛ばして金にしよう」などと、邪気に満ちた提案が行き交い始める。
エルモはなおも、海賊達に向かって言葉を投げかけた。
「そんなこと言ってると、天国へ行けませんよ」
ギャハハ、と品のない笑い声が上がった。
ギベッドが銃を抜いたが、すっかり海水に浸ったせいで火薬がダメになっている。
「くそ」
「大丈夫だよ、銃なんてなくたって」
だんだんと、浜辺中の海賊達の目が集まって来た。
「じゃあ教えてくれよ。天国ってのはどうすればいけるんだい?」
「そんなの簡単だよ」
エルモは、砂浜に目を走らせる。そして、浜に打ち上げられたたくさんの漂着物の一つにゆっくりと歩み寄った。
比較的新しい木材の山だ。先ほどまで使われていた船の一部だろう。防腐剤のタールが塗られて黒くなっている木の板を「どっこいしょ」とどかすと、その下からは木の樽が現れた。
「よしよし、中身はまだあるね。いい匂いがするから、もしかしてと思ったんだ」
「お、おい、何を……」
意図の読めない行動に困惑する海賊達に、エルモはにっこり笑いかける。
「天国へ行く方法? 簡単よ! おいしいお酒とおもしろい話があればいいの! まだたくさん流れ着いてるはずだし、幸いこの浜には水も食べ物もある。みんなで飲みましょう!」
浜辺を歩きながら、エルモはあちこちから樽やら瓶やらを拾ったり掘り返したりして、元は海賊達の積荷だった酒や干し肉を見つけ出して行く。
そして、海を背にして海賊達に呼びかけた。
「酒の肴には、あの二人の話をしてあげる。見える? 遠くに小さく、嵐に向かって泳いで行く姿が! あの二人が、私の船長が、どうしてわざわざ、船もないのに着の身着のまま海に飛び込んだのか。みんな気になるんじゃない?」
ピリピリしていた空気が、だんだんと凪いで行く。
一人、また一人と武器を下ろした海賊達は、エルモを中心に車座になって座り、その話に耳を傾けた。




